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第1話②「やる気は用法用量を守ってください」

 ◆


 エミリが最初だった。

 背筋を伸ばし、タブレットを置いて、課長に向き直った。出向元の北米支部で叩き込まれた姿勢が、こういう時に出る。


「私は、国家のために働いています」

『すばらしい! 使命感がありますね!!』


 のどかはメモを取りながら、少しだけ感心した。

 エミリの口から「国家のため」という言葉が出ると、不思議と嘘に聞こえない。北米支部のエリートとして出向してきた彼女の背中には、確かにそういう重さが乗っている。


「人々の安全と秩序を守る。それが私の職務です。防衛軍に入ったのは、その信念があったからです」

『感動しました! これこそ人間の輝きです!!』

「……ところで」


 課長が口を挟んだ。


「お前、昨日も残業だったか?」

「いえ」


 エミリが少し間を置いた。


「銭湯に行ってました」

「ほう」


 課長の声に、かすかな色がついた。面白がっている色だ。


「牛乳はうまかったか?」

「今はコーヒー牛乳です」


 エミリはごく自然に答えた。何の衒いもない。国家のために働くエリートが、勤務後に銭湯に行ってコーヒー牛乳を飲んでいる。

 のどかは知っている。数か月前、この子を初めて銭湯に連れて行ったのは自分だ。最初は牛乳から始めさせた。コーヒー牛乳はその次。フルーツ牛乳はまだ許可していない。半年通ってからだ。

 課長が小さく笑った。


「なじんでやがるな」


 エミリはわずかに頬を赤くしたが、姿勢は崩さなかった。


『……あれ? 使命感の話は?』

「使命感はある。銭湯も行く。どっちも本気だ」


 課長が淡々と答えた。AIは少し黙った。


 ◆


「次」


 課長がヨルさんに目を向けた。

 ヨルさんはデスクに浅く腰かけたまま、コーヒーカップを両手で包んでいた。夜勤明けの気だるい空気をそのまま纏っている。黒い髪が肩に流れ、ピアスが蛍光灯の光を拾っていた。


「私は……」


 少し考える間があった。


「夜勤の空気が好きなんです」

『目的がありません! それは怠惰では!?』

「静かで、誰も詮索しない。仕事は仕事で、ちゃんと片付ける。でもそれ以外の時間は、誰にも何も言われない」


 ヨルさんの声は穏やかだった。気だるいのに、どこか芯がある。この人はいつもそうだ、とのどかは思った。何も気にしていないように見えて、自分の居場所をちゃんと知っている。


「あと、給料日が同じなのも、なんか安心しますし」

『給料!? それだけですか!?』

「それだけって言うけど、大事ですよ。毎月同じ日に振り込まれるって、結構すごいことです」


 課長が頷いた。


「実際、勤続年数長いからな、お前は」

「長く続けるコツは、頑張りすぎないことです」

『怠惰を正当化しないでください!!』

「怠惰じゃないですよ」


 ヨルさんがコーヒーを一口啜った。


「これは、持続性です」


 AIが何か言いかけたが、ヨルさんの穏やかな微笑みの前で、言葉が詰まったようだった。


 ◆


「えっと」


 のどかはメモ帳を閉じて、少し考えた。大きな言葉は出てこない。

 ただ出てこないし、出す必要もない気がした。


「私は、ちゃんと働いて、ちゃんと暮らしたいです」

『それは目標ですか!? 夢ですか!?』

「どっちでもないです。ただ、ちゃんとしていたいだけで」


 AIが困惑しているのが、声のトーンでわかった。


「贅沢じゃなくていい。誰かの役に立てたらいいなとは思います。でも、それよりまず自分がちゃんと生きていることのほうが大事で」


 のどかは一拍置いた。


「あとは……たまに、行きつけの赤ちょうちんで一杯やれたら、それで十分です」

『そんな小さな理由で、地球を守れるんですか!?』

「そんな大きな目標だと、たぶん続かないと思います」


 自分でも驚くぐらいスルスルと言葉が出てきた。

 少し前、それこそほんの少しだけこの仕事に慣れた頃の、どこか所在なさげだった。

 でも、今はただここに立っていたい。小さな言葉だけど、足元が定まっている。

 自分がここにいる理由を、自分の言葉で言える。

 ヨルさんが小さく微笑んだ。


「いいですね。そういうの、すごく健康的で」

「赤ちょうちんは、防衛軍が守るべき文化遺産だな」


 のどかは少しだけ笑った。課長がそれを言うと、冗談なのか本気なのかわからない。たぶん両方だ。


 ◆


『では課長、あなたは?』


 AIの声が、課長に向いた。

 課長はマグカップを傾けた。中身は残りわずかだ。


「金だ」

『…………え?』

「給料があるから働く。もらった分は責任を取る。それで十分だ」

『情熱は!? 使命は!?』

「情熱は休暇を食う。だから冷ましておく」


 エミリが小さく頷いた。


「合理的ですね」

「そうでもしないと、みんな燃え尽きる」


 いつも通り感情の波が小さいく、温度の低い声。けれどのどかは知っている。この人は「冷ましておく」と言いながら、冷めたことがない。冷まし方を覚えただけだ。

 壁のモニターから、部長の声が聞こえた。


「私も聞かれるのか」


 課長が壁の画面を見た。


「部長は?」


 部長は扇子を広げたまま、少し間を置いた。


「辞めたいと思いながら、辞められないから。それだけだ」


 短い言葉だった。壁のモニター越しでも、その声の温度が伝わった。

 辞めたいと言いながら辞めない人。口では楽隠居を望みながら、誰よりもこの組織を背負っている。その矛盾が、この人の本質だとのどかは思った。


『……矛盾しています!』

「そうだな」


 部長が扇子を閉じた。


「矛盾しているから、まだここにいる」


 AIが黙った。


 ◆


 課長が腕を組んだ。椅子の背もたれに体を預けたまま、天井を見上げる。


「いいか。みんなバラバラだ」


 誰も口を挟まなかった。


「国家のために動く奴がいる。静けさが好きな奴がいる。金のための奴もいる。中には赤ちょうちんのために世界を守る奴だっている」


 のどかが小さく肩を竦めた。ヨルさんが口元をほんの少し緩めた。


「それでいいんだ。全員が同じ方向を向いてたら、そのうち全員が同じ方向に倒れる」


 課長がコーヒーを啜った。最後の一口だ。


「個性を補って、歯車は回る。ヒーローだって全員同じじゃない。熱い奴も冷めた奴もいる。剣で戦う奴もいれば、音楽で浄化する奴もいる。ロボだって一体一体クセが違う。それぞれ違う方向を向いてるから、バランスが取れるんだ」


 課長が空のマグカップを置いた。


「やる気がないんじゃない。やる気の形が違うだけだ。お前が探してる統一された情熱は、人間にはない。最初からないんだ」


『…………』


 AIが沈黙した。長い、長い沈黙だった。

 モニターの右下で、イルカのステップが止まっていた。踊りをやめて、じっとこちらを見ている。小さなドット絵の目が、何かを考えているように見えた。


『……わかりません』


 AIの声が、少しだけ変わった。さっきまでの大音量ではなく、普通の——人間と同じくらいの声量で。


『バラバラなのに、なぜ動けるんですか? 統一されていないのに、なぜ組織が機能するんですか?』

「単純だよ」


 課長が言った。


「給料日が同じだからだ」

『…………』


 沈黙。

 ヨルさんが小さく吹き出した。エミリが真顔のまま頷いた。のどかはメモ帳に何かを書こうとして、やめた。書くことではないと思ったからだ。

 AIが、もう一度口を開いた。今度はゆっくりと。


『……わかりました。わかった、と思います』


 声のトーンが落ち着いていた。さっきまでの大声ではない。叫んでいない。煽っていない。ただ、静かに言葉を選んでいる。


『やる気は、人それぞれなんですね。誰も正しくないけど、誰も間違っていない。形が違うだけで、みんな動いている』

「そうだ」

『それが人間の動力、なんですね』


 課長は何も言わなかった。ただ、空のマグカップに目を落として、小さく息をついた。


 モニターの右下のイルカが、ゆっくりと動き始めた。さっきまでのような激しいステップではない。穏やかな、波に揺られるような動き。吹き出しが一つだけ表示された。


『お疲れさまです。』


 それだけだった。

 庁舎の空調が、静かに切り替わった。暖房が止まり、冷房が戻る。9月の空気が正常に流れ始める。スピーカーのノイズが消え、コーヒーマシンのランプが緑に戻り、コピー機が印刷を止めた。

 のどかは椅子に深く座り直した。額の汗を手の甲で拭う。いつの間にか、結構汗をかいていた。暑さのせいか、それとも。


「……直った、んですかね」

「さあな」


 課長が立ち上がった。コーヒーを淹れなおすらしく給湯コーナーに向かう。


「ただ、少なくとも暖房は止まった」


 エミリがタブレットを確認した。


「システム全域の士気パラメータ、正常値に戻っています。各機器の異常出力も停止。……人間並みの出力です」

「人間並みか。それはそれで不安だな」


 課長が新しいコーヒーを持って、給湯コーナーから戻ってきた。普通の濃さ。普通の温度。課長はそれを一口啜って、特に感想を言わなかった。

 AIの声が、課長の耳元に届く。


『課長』

「なんだ」

『あなたの諦めない姿勢に、感銘を受けました』

「……」


 課長がコーヒーを口元で止めた。


「誤学習だ、それは」

『そうでしょうか』

「俺は諦めてないんじゃない。面倒だから先に片付けてるだけだ」

『それを世間では諦めないと呼ぶそうですよ』

「……お前、やっぱり少しうるさいな」

『すみません。控えめに応援します』


 モニターの右下で、イルカが小さくお辞儀をした。

 課長はそれ以上何も言わず、自分のデスクに戻った。椅子に座り、書類の山に手を伸ばす。

 隣のデスクではのどかがメモ帳を片付けていた。エミリがタブレットを閉じた。ヨルさんがようやくコーヒーカップを流しに持っていった。夜勤明けの退勤時間は、とっくに過ぎていた。

 壁のモニターから、部長の声が聞こえた。


「終わったか」

「終わりました」

「じゃあ次の案件を回す。三丁目で小型怪獣の縄張り争いだ」

「……もう入ってるんですか」

「入ってる。休むな」


 課長がコーヒーを啜った。


「聞いたか新人。次だ」

「はい」


 のどかは新しいメモ帳を開いた。

 モニターの右下で、イルカが小さくステップを踏んだ。控えめな、ほんの小さなステップ。吹き出しは出なかった。ただ、尾びれがぴこぴこと揺れているだけだった。



 ――業務日誌――


 案件名:統括システム士気向上モジュール異常発現事件

 発生場所:庁舎内全域

 災害区分:特殊事案(庁舎内限定)

 被害状況:空調異常による室温上昇(最大37度)、コピー用紙消費約三千枚、コーヒー濃度の異常上昇、清掃ロボの反復走行による廊下ワックス過剰。人的被害は軽度の熱中症三名。

 対応:二課課長による直接対話。全課員の「勤務動機ヒアリング」を実施し、統括システム側の価値判断を修正。システム正常化、士気パラメータは人間並みに安定。

 備考:アシスタント機能イルカは控えめに稼働を継続。「やる気」は災害に分類可能であることが実証された初の事例。


 ※観測できない災害は人災扱いとして処理済み。

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