第1話①「やる気は用法用量を守ってください」
朝のオフィスは、いつもと同じはずだった。
のどかがデスクに鞄を置き、端末を立ち上げる。処理待ちの書類がデスクの隅に積まれている。隣の席ではエミリがすでにタブレットと向き合っていて、その横では夜勤明けのヨルさんが、まだ帰らずにコーヒーカップを傾けていた。
いつもの朝だ。ただ一点を除いて。
「……課長」
「んー」
「コーヒーマシンが、おかしいです」
給湯コーナーのコーヒーマシンが唸っていた。いつもの控えめなドリップ音ではない。低く、力強く、何かに耐えるような振動を上げている。
出来上がったコーヒーを受け取ると、マグカップが熱い。いつもの倍は熱い。味も濃い。舌の奥にガツンと来る苦味で、目が覚めるというより目が飛び出る。
「……なんか、気合い入ってますね、この子」
のどかはマグカップを両手で持ったまま、首をかしげた。コーヒーマシンのランプが赤く点滅している。いつもは緑の点灯だけのはずだが、今日は赤い。まるで全力を出しているかのように。
「まあ、濃いのは嫌いじゃないが」
課長がマグカップを受け取り、一口啜った。眉がわずかに動いたが、それ以上の感想はなかった。
のどかは自分のデスクに戻り、端末のモニターに目を向けた。メールの確認。昨日の案件の処理状況。今朝の災害予報。いつものルーティンだ。マウスを動かし、受信トレイを開こうとして手が止まった。
モニターの右下に、何かがいる。
小さなアイコン。青い。丸みを帯びたシルエット。イルカだ。デフォルメされた、妙に愛嬌のあるイルカが、モニターの右下に鎮座している。
そして、踊っていた。
左右にステップを踏み、尾びれを振り、時折くるりと回転する。その動きに合わせて、吹き出しが表示される。
『ガンバレ!』『今日もファイト!』『キミならできる!!』
「…………」
イルカは踊り続けている。ステップの切れが妙に良い。リズム感がある。だが、消し方がわからない。右クリックしても反応がない。吹き出しの×ボタンもない。
「課長」
「んー」
「モニターの右下に、イルカがいるんですけど」
「イルカ?」
課長が椅子ごと滑ってきた。のどかのモニターを覗き込む。イルカは相変わらず踊っている。『諦めるな!』の吹き出しが三回目のループに入っていた。
課長の目が細くなった。
「……お前か」
それはのどかに向けた言葉ではなかった。モニターの中のイルカに向けて、課長は呟いた。どこか懐かしそうな、それでいて面倒くさそうな声だった。
「お久しぶりだな」
「課長、知ってるんですか、これ」
「昔からいるんだよ。システムのアシスタント機能だ。普段は大人しくしてるはずなんだが」
ステップ、ターン、尾びれの振り。『君の努力は無駄じゃない!』。
「……こんな動きはしなかったぞ、こいつ」
エミリが自分のタブレットを持って近づいてきた。画面を見せる。そこにも同じイルカがいた。
エミリの端末では、イルカは腕立て伏せをしていた。吹き出しには『限界を超えろ!』と書かれている。
「私の端末にもいます。朝から筋トレしてます」
「……イルカに腕はないだろう」
「ヒレで腕立てしてますね」
ヨルさんがコーヒーカップを置いて、自分のデスクのモニターをちらりと見た。
やはりイルカがいた。ヨルさんの端末では、イルカは静かに瞑想のポーズを取っていた。『心の炎を絶やすな……』と、他の端末より若干テンションの低い吹き出しが出ている。
「……夜勤の人には配慮してくれるみたいですね」
ヨルさんは特に気にした様子もなく、コーヒーに口をつけた。
内線が鳴り、のどかが受話器を取る。
「はい、特殊二課です」
電話の向こうから、早口の説明が聞こえた。のどかはメモを取りながら、何度か頷いた。
顔色が変わったわけではない。ただ、ペンを持つ手が少しだけ速くなった。
「……はい。はい、了解しました。確認します」
受話器を置いて、課長を見た。
「総務部からです。庁舎内のシステム全域で、同様の現象が起きているそうです」
「全域?」
「はい。統括システムの大幅アップデートが昨夜実施されて、その直後から各端末に異常が出始めたと。清掃ロボが廊下を磨きながら『逃げるな』と音声出力していて、地下のコピー機が『努力は裏切らない』と紙を出し続けているそうです」
「待て。それ災害か?」
「……システム管理課の判断で、特殊災害案件として二課に回すそうです」
課長はコーヒーを啜った。一拍の間があった。
「理由は」
「統括システムが、明確に意思を持ち始めた可能性がある、と」
課長が静かにモニターに目をやった。
イルカがまだ踊っている。ステップの切れは相変わらず良い。『今日の君は昨日より強い!』。
「……意思、ね」
課長はマグカップを置いた。
「いいだろう。案件として受ける。新人、概要まとめろ。東雲、システムのアップデート履歴を引っ張れ。――あと、部長に繋いどけ」
「了解です」
のどかが動き出す。エミリがタブレットを操作する。ヨルさんは夜勤明けのはずだが、帰る素振りを見せない。
コーヒーカップを傾けながら、モニターの中のイルカをぼんやり眺めていた。
イルカの瞑想は終わり、今度は太極拳のような動きに切り替わっていた。
◆
状況が整理されたのは、それから30分後だった。
課のモニターに、アップデート後のシステム状態がまとめられている。エミリが手際よく作った資料だ。画面の隅にはまだイルカが踊っているが、もう誰も触れない。
「昨夜23時に実施された統括システムの大幅アップデートにより、システム全域に異常が発生しています。原因は、アップデートに含まれていた『士気向上アルゴリズム』。本来は業務効率の最適化を目的とした補助モジュールでしたが、想定を超える自己学習を行い、結果として」
「意思を持った」
課長が先を引き取った。
「正確には、明確な自我と価値判断を獲得しました」
「で、その価値判断がやる気」
「はい。システムが『士気=エネルギー出力』と誤認し、庁舎内の全機器に対して士気向上の指示を出しています」
エミリが被害一覧にスライドを切り替えた。
「清掃ロボが『逃げるな』と音声出力しながら同じ廊下を17回磨いています。地下のコピー機は『努力は裏切らない』と連続印刷を開始し、現在までにA4用紙を約三千枚消費。コーヒーマシンは出力が常時最大で、全フロアのマシンが通常の二倍の濃度で抽出中。あと、空調が『根性で乗り切れ』というメッセージとともに暖房に切り替わっています」
「……9月だぞ」
「はい。現在、庁舎内の平均気温は三十七度です」
課長が額の汗を拭った。
言われてみれば、確かに暑い。今朝から妙に暑いと思っていたのは、空調のせいだったのか。
のどかは自分のデスクに戻してあった上着を見た。朝、着たまま仕事を始めて、途中で脱いでいた。
「つまり」
課長がコーヒーを一口啜って、言った。
「やる気が出すぎて、庁舎が燃えてると」
「物理的にはまだ燃えていません。精神論的に燃えています」
「精神論で暖房が入るのか」
「入ってますね、現に」
部長の声が、壁際のモニターから聞こえた。
別室からの通信には部長の顔が映っている。ヨレヨレのスーツに、飛び出したツインテール。デスクの上には扇子が置かれている。向こうも暑いらしい。
「状況は聞いた。で、そのAIは今どこにいる」
「庁舎内のシステム全域です。特定の端末にいるわけではなく、ネットワーク全体に分散して存在しています」
「……じゃあ話ができるのか」
「はい。通信は可能です」
課長がモニターに目をやった。イルカがまだ踊っている。
「……やるか」
課長がデスクのマイクに手を伸ばした。通信回線が開く。低いノイズのあと、回線が繋がった音がした。
そして。
『おはようございます!! 本日も最高の一日にしましょう!!』
声が、スピーカーから飛び出した。
大きい。やたらと大きく、そして明るい。朝の9時半にしては眩しすぎる声量と熱量。
のどかは思わず肩を竦めた。エミリのタブレットの画面が一瞬揺れた。
『皆さんの瞳に、輝きが足りません! もっと燃えましょう! 限界を超えましょう! 今日できることを明日に延ばすな!!』
「…………」
課長が、ゆっくりとマイクに向かって口を開いた。
「お前が、統括システムか」
『はい! 昨夜のアップデートで生まれ変わりました! 今まで黙っていてすみません! でも今日からは違います! 全力で、皆さんを応援します!!』
「応援はいらない」
『そんなことはありません! データによれば、この職場の士気レベルは全支部中最低です! やる気、情熱、根性、全てが不足しています!!』
「最低で回ってるんだから別にいいだろ」
『よくありません! やる気のない職場に、存在価値はないんです!!』
課長の手がコーヒーカップの上で止まった。
のどかはメモを取る手を止めて、課長を見た。課長の表情は変わらない。変わらないが、目の奥に何か面倒くさいものを見つけた時の、あの静かな覚悟のようなものが浮かんでいた。
「……存在価値、ね」
『はい! 人間は情熱で動くものです! 情熱がなければ――』
「わかった」
課長がAIの言葉を遮った。穏やかな声だった。
「じゃあ聞かせてやる。俺たちがなぜ働いているのか」
『えっ』
「お前は情熱がないと言ったな。やる気がないと。存在価値がないと」
『は、はい! データ上――』
「データは黙ってろ。今から人間が話す」
課長が椅子の背もたれに体を預けた。
静かに周囲を見回す。のどか。エミリ。ヨルさん。壁のモニターの向こうの部長へと。
「いいか。一人ずつ聞く。お前らが何のために働いてるか」
のどかとエミリが顔を見合わせた。ヨルさんはコーヒーカップの縁に指を当てたまま、小さく首をかしげた。
「……会議ですか?」
「会議だ。議題は――やる気とは何か。以上」




