第8話④「あなたは楽しそうでした」
◆
ロレン軍団が消えた安堵も束の間、新たな問題が発生した。
メンテナンスの副作用だった。ロレンのバグ修正と同時に、別のデータに不整合が起きたらしい。空のUIにエラーメッセージが一瞬だけ走って、すぐに消えた。
そして街の中心部。ビルの谷間に、巨大な影が立ち上がった。
黒い甲冑。背中から伸びる翼のような装飾。頭蓋を模した兜の奥から赤い光が覗いている。
地面が軋み、周囲の空気が重くなる。圧倒的な存在感を放ち、画面上のステータスが真っ赤に点滅している。
「……何、あれ」
のどかが息を呑んだ。モニターに表示されたキャラクター情報を見て、ヨルが顔色を変えた。
「冥界覇王ゼファルディオン。サービス開始時の――ラスボスよ」
「ラスボス……!?」
「第1章と第2章のメインストーリーで最後に戦う相手。無理ゲーと恐れられ、これに勝てるかどうかが最大の話題だった」
モニターの映像では、冥界覇王が腕を一振りしただけで、周囲のビルの窓ガラスが砕け散っていた。現場に展開していたヒーロー部隊が弾き飛ばされている。
最強ラスボスの名に恥じない圧倒的な破壊力を見せつけている。
しかし、空に浮かぶUIのコメント欄は別の空気だった。
半透明の文字が次々と流れていく。
『サービス開始にはお世話になったよ』
『産廃乙www』
『いつまでラスボス気分でいるんですかこの人』
『まおーさまwwwチィーース』
『まおーさまプルプルで草』
『2章までがピークの人じゃん』
『インフレについていけなかった悲しきモンスター』
『スキンで威厳もなにも吹っ飛んだただの苦労人』
コメントが流れるたびに、のどかは困惑した。
目の前で街を破壊しているラスボスが、ネット上では完全におもちゃにされている。かつての最強が、今やネタキャラ扱い。インフレについていけず、新キャラに追い抜かれ、ユーザーからは過去の遺物として弄ばれている。
コメントの緩いノリとは違い、特殊二課にとっては大問題だった。
インフレ前とはいえ、最強ステータスの魔王が現実に出現して、全力で暴れているのだ。
まがりなりにも当時では頂点の★5。半端な戦力ではあっさりと壊滅する。
「どうします……?」
のどかが課長代理に目を向けた。
課長代理はキャラクターページを開いている。冥界覇王ゼファルディオンの詳細情報。そしてスキン一覧のタブ。
「スキンが販売されてるわね」
「『冥界覇王・真の姿』。石で購入できるスキンです」
その時、意外なところから声がした。
「……なぁ、これ何?」
部長だった。ツインテールを揺らしながら、モニターの向こうでスマホを片手に困った顔をしている。見た目は少女にしか見えないが、課を束ねる年齢不詳の上司である。
「変な画面に入っちゃったんだけど、戻すのどうすればいいんだ? そもそもこのゲームって何? さっき空に出てたやつ? インストールしろっていうから押したんだけど」
自身のスマホをモニターにググっと寄せながら、部長が田舎のおばあちゃんのようなことを訪ねてくる。
画面を覗き込んだのどかは、息が止まりそうになった。
部長のスマホには、冥界覇王のスキン購入画面が表示されていた。「購入しますか? はい/いいえ」の選択肢が光っている。
「部長、それ――」
のどかが言いかけた瞬間、エミリが椅子から立ち上がった。
「結城部長っ!!」
声のトーンが違った。目が据わっている。普段の落ち着いたエミリの面影がない。
「それを押してくださいまし!! 『はい』の方を!! 今すぐに!! 今すぐにですわ!!」
「え? これ? 『はい』?」
「ハリーハリーハリーアッァーーー」
部長が首を傾げながら、画面をポチッと押した。
『スキンを適用しました』
その瞬間、街で暴れていた冥界覇王の体に変化が起きた。
黒い甲冑が軋む。頭蓋の兜にひびが走る。背中の翼が崩れ始める。外殻が、剥がれていく。バリバリバリ、と音を立てて、禍々しい装甲が砕けて地面に落ちる。
黒い甲冑の下、骨の装飾の下、そのマント下から表れたのは小さな女の子だった。
大きな瞳に、ふわふわの銀髪。ラスボスの威厳の欠片もない、幼い少女が、自分の体を見下ろして――真っ赤になった。
両手で顔を覆って、その場にしゃがみこんだ。ゲーム画面にはスキン変更後のアニメーションが再生されていて、恥ずかしさで逃げ回るモーションが設定されている。
そして現実でも、冥界覇王の中の人は、恥ずかしさの限界を超えて、脱兎のごとく逃走した。
空のコメント欄が一瞬で色を変えた。
『かわいい』
『守りたい』
『これは引くしかない』
『俺たちの覇王がこんなに可愛いわけがない』
『いや可愛い(確信)』
『石貯めてたの正解だったわ』
冥界覇王ゼファルディオン——スキン「真の姿」。
逃走により、戦闘終了。
「……課金コンテンツで世界が救われるとは思いませんでしたわ」
エミリがぐったりと椅子に崩れた。
◆
しかし、事態は終わらなかった。
メンテナンスの副作用は冥界覇王だけではなかった。パッチの適用によって、次から次へと新たなバグが連鎖し、ゲームキャラの実体化が止まらない。
通信が矢継ぎ早に飛び込んでくる。
「第七地区、インフレで型落ちになったキャラクターが座り込んで動きません! 道路を塞いでます!」
「第三地区、サイレント修正でスキルが別物になったキャラクターが自分の技を制御できずに暴発してます!」
「第十二地区、水着スキンの騎士が『この格好で剣は振れない』と戦闘拒否してます!」
「第五地区、パジャマスキンの魔法使いが寝ました! 起きません!」
課長代理が指示を出す。ヨルがゲーム画面を操作する。エミリが通信を捌く。のどかは報告書を処理しながら、状況をモニターで追いかける。
「型落ちキャラは新しいバフを付与して自尊心を回復させましょう。水着騎士にはアーマースキンを上書きして。パジャマ魔法使いは……もういいわ、寝かせときましょう」
課長代理の声にはどこか楽しげな色が混じっていた。大変な状況なのに、この人は笑っている。いや、笑っているのとは少し違う。充実している、という方が近い。
目の前の問題を一つずつ解いていく作業を、心から楽しんでいるように見えた。
「エミリちゃん、第九地区の報告を」
「新しいキャラが3体出現、うち1体が限定イベントの――あー、もう、インフレがひどすぎますわ! 新キャラ出すたびに前のが型落ちって、運営何考えてますの!?」
エミリはもはや戻る気配のない、お嬢様モードのまま叫んでいた。
のどかは必死だった。
報告を受けて、記録して、次の指示を待って、また報告を受ける。
息つく暇がない。手が追いつかない。でも――ふと、口元が緩んでいることに気づいた。
なんだろう、この感じ。
忙しい。大変。全然余裕がない。なのに、足が勝手に動いている。次の仕事に手を伸ばしている。課長代理の指示を聞いて、すぐに走り出している。
周りを見れば、全員が同じだった。忙しくて大変で、でもどこか生き生きしている。
ヨルは黙々とゲーム画面を操作しながら、時折ふっと笑う。
エミリはお嬢様言葉で叫びながらも、通信処理のスピードは落ちていない。
課長代理は全体を見渡しながら、的確に、そして楽しそうに仕切っている。
あれ……楽しいかも
思った瞬間、また通信が入った。考える暇もなく、のどかは受話器を取った。
◆
だが、楽しさには限界があった。
時間が経つにつれて、出現するキャラクターの数は減るどころか増え続けた。処理しても処理しても、新たなバグが連鎖して別のキャラが出てくる。一つ潰せば二つ生まれる。まるでもぐら叩きだった。
深夜に差しかかる頃、課長代理の表情が初めて曇った。
「……追いつかないですね」
それは、この人が着任してから初めて見せた弱気だった。
この人にでも限界があるのだと、のどかの胸がざわめく。
モニターには処理待ちの案件が山のように溜まっている。ヒーロー部隊も疲弊している。ヨルの手持ちキャラクターもほとんど消耗していた。
のどかは壁掛けの時計に目をやった。
23時48分。
――もうすぐ、日付が変わる。
頭の中で何かがつながった。ヨルがゲームの説明をしてくれたとき、言っていたことがある。ガチャの更新は日本時間の午前0時。
新しいキャラクターが追加されるのは、日付が切り替わるタイミング。
「課長代理っ」
「はい?」
「今日、というか明日から、新しいガチャが来ませんか。たしか告知が出てたはずで」
ヨルが反応する。
「コラボガチャ。Vチューバーとのコラボキャラが明日実装のはず。ゲーム内では最新の人権キャラ扱いで、性能が破格って評判だった」
「それを呼び出せれば、今暴れてるキャラを全部押し返せるんじゃ」
課長代理がのどかの顔を見た。真剣な目。それから、ふっと笑った。
「……その手がありましたか」
「でも、ガチャを回す石は――」
のどかがモニターを確認する。
暴走キャラクターを処理していく過程で獲得したクリア報酬やプレゼントが、ゲーム画面のボックスに溜まっていた。今まで必死に対処してきた分が、そのままガチャの軍資金になっている。
「足りるかどうかは……回してみないとわかりませんね」
23時55分。
「みなさん」
課長代理がオフィスに声をかけた。全員がこちらを向く。
「日付が変わったら、コラボガチャが更新されます。全員で回しましょう」
一瞬の沈黙の後、オフィスの中で奇妙な光景が生まれた。
課員たちが、一人また一人と、ポケットや鞄から私物のスマホを取り出し始めたのだ。
さっきまで業務端末のモニターに向かっていた顔が、全員手元のスマホに落ちている。世界の危機が、業務用モニターからスマホのガチャ画面に移った瞬間だった。
23時59分。 全員の目がスマホの時計に注がれている。
――画面が切り替わった。
『新ガチャ開催中! 期間限定コラボピックアップ!』
「行きましょう」
課長代理の声で、ガチャ大会が始まった。
最初にスマホを構えたのは、ヨルだった。ただし、すぐには回さない。
目を閉じる。スマホを両手で包むように持って、深く息を吸い、ゆっくりと吐く。それから画面を三回タップして、ようやくガチャのボタンに指を置いた。
「……ヨルさん、それ意味あるんですか」
「あるのよ」
真顔で引く。エフェクトが走り、光が放たれる――酒でも一杯奢っ――途中でスキップされた。
「……まあ、こんなもんよ」
動じていなかった。でもスマホを握る手に、わずかに力が入っていた。
次にエミリが構えた。ソシャゲは初めてだったが、ヨルの操作を見ていたのだろう、画面のタップに迷いがなかった。
光は銀色の★3。
「出ませんわ!! なぜですの!!」
お嬢様モード全開で叫んだ。課内の視線が集まったが、本人は気にしていない。というか気づいていない。
部長はまだチュートリアルをやっていた。
「……部長、まだですか」
「ガチャってのはどこにあるんだ。この剣のマークか? 違う? これは?」
「それは設定画面ですわ! こっちですわ!」
エミリが手を伸ばして画面を操作する。ようやくガチャ画面に辿り着いた部長が、おそるおそるボタンを押す。
光は鉄、★1。
「……何も起きないが」
「起きてますわ! 最低レアが出ただけですわ!」
課長代理が静かにスマホを構えた。経験者の余裕か、画面を見つめる目は落ち着いている。
引く。光が金色に変わった。
「あっ――」
のどかが声を上げた。金色のエフェクトは高レア演出。周囲の期待が集まる。
だが、表示されたのはコラボキャラではなかった。恒常排出の星5。すり抜け。
「惜しい……」
課長代理は小さく唇を噛んだ。でもすぐに顔を上げて、「大丈夫、まだ石がある」と穏やかに言った。
その声で、場の空気がわずかに持ち直す。
だが、石は確実に減っていた。
通信が入った。海外支部からだった。
「――こちら北米支部! そちらのガチャ更新はもう来てるのか!? こっちは時差でまだ前日のままだ! 画面に『coming soon』しか出ない!」
「ヨーロッパ支部も同様です! 更新まであと六時間!」
「太平洋支部、ガチャ画面が開けません! サーバーが混んでるみたいで」
世界中が待っている。でも日本時間に合わせた更新は、日本にいる人間しか回せない。
石が残り少なくなっていく。課内の空気が重くなる。スマホを握る手に汗がにじむ。
そして――石が尽きた。
クリア報酬もプレゼントも、全て使い切った。画面の石の残数がゼロを示している。
課内が静まり返った。
「……もう、ないのか」
「……青天井のクソ運営め」
部長の呟きに、ヨルが歯を食いしばり珍しく感情をあらわにしている。
エミリもスマホを見つめたまま動かない。課長代理の穏やかな表情にも、さすがに影が差していた。
のどかはスマホの画面を見つめていた。石の残数、ゼロ。もう回せない。これで終わり。
ふと、画面の隅にある赤い丸が目に入った。プレゼントボックスのアイコンに、通知マークがついている。
「……あれ」
指で触れた。ボックスが開く。中に、見覚えのないアイテムが一つ。
『メンテナンス補填 詫び石×1 ※ご迷惑をおかけしました』
さっきの緊急メンテナンスの補填。運営がロレンのバグを修正するために入れた、あのメンテ。そのお詫びとして配布された石が、プレゼントボックスの奥に届いていた。
「……課長代理」
のどかの声が少し震えていた。
「詫び石が……あと一回分、あります」
全員の視線がのどかに集まった。
「のどかちゃん」
課長代理が静かに言った。
「最後は、あなたが引いて」
のどかはスマホを震える両手で握った。画面にはガチャのボタンが光っている。石の残数は、詫び石の一回分だけ。
世界中がこのガチャの結果を待っている。というのは大げさかもしれない。でも、少なくともこのオフィスの全員と、通信の向こうの海外支部と、現場で疲弊しているヒーロー部隊が待っている。
のどかは画面を見つめた。
ヨルみたいに儀式はしない。エミリみたいにコツを掴んだわけでもない。部長みたいにチュートリアルからやったわけでもない。
ただ、祈るように目を閉じて——ポチッと押した。
画面が何も光らない
銀色ではなかった。金色——でもなく、ましてや虹色でもない。
真っ黒なエフェクトだった。
ゆっくりと、闇に溶けるような派手ではない演出。やがてキャラクターが表示される。
――鍬を担いだおっさんだった。
日焼けした肌。麦わら帽に泥のついた長靴。どこからどう見ても農家のおっさん。
だが画面にはでかでかと『★7 コラボ限定 豊穣の守護者』と書いてある。
「来た!」
ヨルが立ち上がった。エミリが飛び上がった。部長は何が起きたかわかっていないが、周囲の反応で何かすごいことが起きたらしいとは察したようだった。
オッサン大地に立つ!!
街の中心に、農家のおっさんが立っている。鍬を空に掲げるとその瞬間、空全体がオレンジ色の光に包まれた。
「大地の恵みを受けろぉぉぉ!!」
空から降ってきたのは、カブだった。
巨大なカブが、雨のように降り注ぐ。一つ一つが車くらいの大きさがある。暴走していたキャラクターたちが、カブの雨に打たれて次々と消えていく。 ★5も、★6も、型落ちも、水着騎士も、パジャマ魔法使いも。農業の力の前に、すべてが等しく鎮圧されていく。
空のコメント欄が爆発した。
『カブwwwww』
『世界救ったの農業で草』
『豊穣の守護者は伊達じゃなかった』
『おっさん接待ゲー』
『ソシャゲの歴史に刻まれる一回』
最後のカブが地面に落ちて、衝撃波が広がった。空のUIがちらつき始め、ゲームのホーム画面がゆっくりと薄れて、BGMが遠のいていく。
気がつけば、空にはただの夜空が戻っていた。星が瞬いている。
モニターに表示された文字は、一つだけ。
『全キャラクター鎮圧完了』
オフィスが静まりかえり、やがてのどかは笑い出した。
お腹を抱えて、椅子の背もたれに体を預けて、涙が出るくらい笑った。こんなに声を出して笑ったのは、この課に来てから初めてかもしれない。
「あはは……カブって……カブで世界救うって……」
エミリがぐったりと机に突っ伏しながら、でも笑っている。
「世界を救うのが農業って……狂ってますわ……」
お嬢様口調のまま力尽きている。
ヨルはデスクに寄りかかって、静かに笑っていた。黒猫のマグカップに手を伸ばして、冷めたコーヒーを一口飲む。
「……結局このゲーム、何だったんだ?」
部長はスマホの画面をまだ見つめていた。
誰も答えなかった。答えを知っている人間は、たぶんこの世界にはいない。
課長代理は、のどかの隣に立って、同じように笑っていた。穏やかで、柔らかくて、どこか満足げな笑顔。その目が、笑い転げているのどかを見て、細められた。
全員がクタクタで、全員が笑っている。
◆
数日が経った。
オフィスはいつもの日常に戻っていた。蛍光灯の光、書類の山、電話の音。
窓際にはサボテンの鉢が変わらず置かれていて、誰かが水をやった形跡がある。空にはゲームのUIも、コメントも、カブも浮かんでいない。ただの青空。
課長代理が、荷物をまとめていた。
出向期間が終わったのだ。引き継ぎは昨日のうちに済んでいて、あとは鞄を持って出ていくだけ。
エミリやヨルは持ち場に戻って、通常業務を始めている。課内はいつも通りの空気で動いていた。
のどかは見送りに残っていた。自分のデスクの横に立って、荷物をまとめる背中を見ている。サボテンの鉢を丁寧に新聞紙で包んでいる手つきが、この人らしいと思った。
課長代理が最後のサボテンを鞄に入れて、のどかの方を向いた。
いつもの柔らかい笑顔だった。でもどこか、ほんの少しだけ名残惜しそうな色が混じっている気がした。
「ねぇ」
「はい」
「この仕事、楽しい?」
不意に聞かれた。同じ言葉。あの朝、自分がエミリに聞いたのと同じ言葉。
でも、のどかの中で、その問いの意味は変わっていた。
あの朝は答えを持っていなかった。自分に問いかけて、答えが見つからなくて、だから人に聞いた。
カブが降ってきた夜から数日。いつもの日常が戻ってきて、また書類の山に向かっている。何が変わったのかは、うまく言葉にできない。ただ――
「はい」
迷いなく答えた。自分でも驚くくらい、自然に出てきた。
課長代理が柔らかく目を細めた。その中に、安堵と呼ぶには些細な、でも確かに温かいものが浮かんでいた。
「よかった」
それだけだ静かに答えた。
課長代理は鞄を肩にかけて、ドアに向かう。
途中でヨルのデスクの前を通りかかった。ヨルは画面を見たまま、小さく手を振った。課長代理もほんの一瞬だけ足を止めて、微笑んだ。二人の間に、言葉はなかった。
ドアが閉まる。
窓からの日差しが、さっきまで課長代理が座っていた席を照らしている。サボテンはもうない。でも机の上は、きれいに整えられたままだった。
◆
翌日。のどかが自分のデスクに戻ると、課長がいた。
いつもの席に、いつもの姿勢で座っている。まるで出張になど行っていなかったかのような自然さで、そこにいる。
デスクの上には最低限の書類とボールペンと承認印。
ただ一つだけ、マグカップの中身が、インスタントコーヒーではなかった。
課長代理が予算を通して勝ち取った、ちょっといいやつ。課長はそれを当然のように飲んでいた。何の説明も、何の感想もなく。ただいつものように啜っている。
「……お帰りなさい、課長」
「おう」
「素敵な方でしたね」
のどかは課長の向かいに立って、自然にそう言った。課長はマグカップに口をつけたまま、少しだけ目を細めた。
「ほんと――あと数年で、ああなるとはな」
何気ない声だった。独り言のような、感想のような。コーヒーの湯気越しに発せられた、淡い言葉。
「……え?」
のどかは首を傾げた。
誰のことだろう。課長代理の話だとしたら、妙な言い回しだ。数年後にああなる、ということは、今はまだそうじゃないということで――。
課長は答えなかった。マグカップをデスクに置いて、書類に目を落とした。
のどかは少し待ったが、課長がそれ以上何かを言う気配はなかった。仕方なく、自分のデスクに戻ろうと踵を返す。
「――春森」
足が止まる。
呼ばれ慣れない名前だった。
課長はコーヒーを啜っており、こちらを見ていない。
「まぁ、よくやったよ」
その五文字が、この課で過ごしてきた日々の全部に向けられている気がした。
のどかは何か言おうとして、口を開く。でも言葉が見つからなくて、ただ小さく頭を下げた。
書類のページをめくる音が、オフィスに小さく響く。
のどかは自分のデスクに座った。メールの受信トレイには未読が8件、どれも定型の報告。
でも、ほんの少しだけ景色が明るく見えた。
――業務日誌――
案件名:ソーシャルゲーム現実化現象
発生場所:都内全域および周辺県
災害区分:都市災害
被害状況:建造物一部損壊、道路封鎖(複数地区)、電力設備軽微損傷。人的被害なし
対応:ゲーム内操作による鎮圧を実施。コラボイベント実装キャラクターの投入により全キャラクター鎮圧
備考:運営元不明(調査継続中)。事後処理は別紙参照
※観測できない災害は人災扱いとして処理済み
次の更新は火曜を予定しています




