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第8話②「あなたは楽しそうでした」

  ◆


 課長代理が仕事を始めて、一日が経つ頃には、オフィスの空気が変わっていた。

 最初に気づいたのは電話対応だった。

 鳴った電話を取る動作からして違う。受話器を耳に当てながら、もう片方の手でモニターを操作している。報告を聞きながら、同時に過去の類似案件を引っ張り出して、被害予測と対応パターンを照合している。


「こちらは先に第三分隊を回してください。現場到着まで七分。その間に避難誘導をお願いします」


 声は柔らかいまま。でも一つ一つの言葉に無駄がなくて、聞いた相手が迷う余地がない。

 のどかが横で見ていて、思わず手を止めた。同じ仕事をしているはずなのに、一つの動作に含まれる情報量がまるで違う。


 書類の処理も目を見張るものがあった。承認が必要な案件を三つ並べて、優先順位をつけながら同時に目を通していく。

 ペンを持つ手の動きに澱みがなく、判断に迷っている気配がない。課長がマグカップを片手に淡々とハンコを押していくのとは少し違う。課長の処理が「力を抜いているのに速い」だとすれば、この人の処理は「丁寧なのに速い」だった。

 モニターに現場の映像が映った。ヒーロー部隊が出動している案件で、敵の怪人が想定以上に手強いらしい。通信から焦った声が飛んでくる。


「押されています! 追加支援を!」


 課長代理はモニターを一瞥して、通信のマイクに手を伸ばした。


「よく耐えてくれています。あなたの粘りが現場を支えている。もう少しだけ、お願いできますか」


 命令ではなかった。お願い、という形を取りながら、その声には揺るがない信頼が込められていた。通信の向こうで、ヒーローの声色が変わった。


「――了解。もうひと踏ん張りしてみせます」


 追加支援の手配と並行して、現場のヒーローを折れさせない。

 のどかは課長がこういう場面でどうするかを知っている。課長なら「持ちこたえろ。支援は出した」と淡々と言う。それはそれで現場に安心感を与えるけれど、この人のやり方は違った。

 ヒーローを一人の人間として見て、その頑張りを言葉にする。それだけで現場の士気が目に見えて変わっていく。

 エミリがのどかの隣で、小さく息を呑んだ。


「……すごいね、あの人」

「うん」


 それからしばらくして、もっと驚くことが起きた。

 複数の怪人の出現による派遣要請が入った。対応可能なヒーローのリストを確認しているとき、のどかが呟いた。


「ライダーさんがいれば……でも、今日から有給消化に入ってるんですよね。今頃ツーリングに出かけてるはずです」


 特殊二課がよく頼りにしているヒーローの一人で、バイクを駆って現場に駆けつけ、その丁寧な仕事ぶりはヒーロー部隊の中でもトップクラスだ。ただ、趣味のツーリングに全力を注ぐ人でもあって、有給の消化率は防衛軍随一と言われている。

 課長代理がのどかの言葉を聞いて、少しだけ首を傾げた。


「……今の時期だと、たぶん信州にはまってる頃よね」


 のどかは思わず顔を上げた。ライダーさんが信州にはまっていること自体は課内では知られている。でも「今の時期だと」という、ピンポイントの読みはどこから来たのだろう。

 課長代理はすでに受話器を手に取っていた。


「――ライダーさん、お休みのところ申し訳ありません。課長代理を務めております」


 穏やかな声が受話器に流れていく。のどかは課長代理の側のセリフしか聞こえない。


「ええ、また怪人案件です。ただ、お電話したのは出動要請ではなくて」


 一瞬、間が空いた。課長代理がデスクのモニターに目を走らせている。天気予報のサイトが開いていた。


「信州の天気予報、ご覧になりました? 午後から崩れるみたいですよ。明日も雨が続くようで……せっかくの有給なのに、もったいないですよね」


 のどかはモニターを覗き込んだ。確かに長野県全域に雨マークが並んでいる。


「それで、ご提案なんですけど。来週に有給を振り替えていただけませんか? 来週は全国的に晴天が続いて、最高のツーリング日和になりそうです。あのVツインエンジン、乾いた空気のほうがご機嫌な振動してくれるでしょうし」


 オフィスが静まり返った。

 エミリが目を丸くしている。ヨルも手を止めて聞いている。課長代理は柔らかい声のまま続けた。


「有給の調整はこちらで通しておきますから、ご心配なく。来週のほうが絶対に楽しめますよ」


 受話器の向こうから、短い沈黙。それから――。

 のどかには相手の声は聞こえない。でも、課長代理の表情がふわりと笑みに変わったのを見て、答えがわかった。


「ありがとうございます。お気をつけて」


 受話器を置いた課長代理は、何でもない顔でモニターに向き直った。


「すぐに現場に向かうそうよ」


 課内がざわめいた。


「……有給を振り替えさせたんですか?」

「振り替えたんじゃなくて、来週のほうが楽しいですよって提案しただけ。選んだのはライダーさん自身ですよ」


 命令でも要請でもない。相手の趣味を理解して、天気予報を根拠に、本人にとってもっと良い選択肢を示す。しかも有給の調整まで引き受ける。

 結果的にヒーローは喜んで出動し、現場は助かり、ライダーさんの来週のツーリングも保証される。

 誰も損をしていない。

 エミリがのどかの隣で、口を押さえていた。


「何者なの、あの人」


 のどかも同じことを思っていた。課長が「俺より有能だぞ」と言った言葉が、冗談じゃなかったのかもしれない。その可能性が頭をよぎって、のどかの胸にまた小さなざわつきが生まれた。



 そして、その日の夕方に決定的かつ衝撃的なことが起きた。


 のどかが給湯室に入ったとき、コーヒーの匂いがいつもと違うことに気づいた。インスタントコーヒーの、あの安定した匂いではなく、もう少し深くて、丸みのある香りが漂っている。

 カウンターの上に見慣れないパッケージが置いてあった。インスタントではない。ドリップ式の、ちょっといいやつ。


「あ、気づきました?」


 振り向くと、課長代理が自分のカップにコーヒーを注いでいた。


「課の備品予算の中に、未使用の福利厚生枠があったんです。飲料費として申請を通しておきました」

「え……そんな枠、あったんですか」

「ありましたよ。ずっと使われてなかっただけで」


 のどかは目を瞬いた。この課に来てからずっとインスタントコーヒーだった。課長はそれで何の不満もなさそうだったし、のどかも疑問に思ったことがなかった。予算の中にそんな枠があること自体、知らなかった。


「どうやって通したんですか? うち、そういう申請って面倒なイメージが……」

「書類やシステムで回ってるけど、それを扱うのは人間だから」

「……?」

「申請書を読む人も、承認する人も、人間でしょう。正しい手順で、正しい言葉で、正しい相手に出せば、大抵のことは通るんです。制度は壁じゃなくて道だから。探せば、ちゃんと通れる道がある」


 穏やかな口調だった。自慢でも講釈でもない。ただ当たり前のことを当たり前に言っているだけの声。でもその言葉は、のどかが毎日向き合っている書類の山の向こうに、自分には見えていなかった道があることを示していた。

 

「制度は壁じゃなくて道」


 いい言葉だ、と思った。課長がいつも「正面からじゃなく裏道を使え」と言っているのとどこか似ている。でもこの人の言い方は少し違う。

 課長の言葉が技術なら、この人の言葉はその技術の奥にある考え方そのものだった。

 のどかはプレミアムコーヒーを一口飲んだ。確かに美味しい。インスタントとは別物の、ちゃんとした味がする。

 美味しいのに、胸の奥がきゅっと締まる感覚があった。

 この人はすごい。電話対応も、書類処理も、ヒーローへの声のかけ方も、見えない予算枠を見つける目も。何もかもが自分とは違う場所にいる。

 課長は「気が合う」と言った。でも、全然合っている気がしない。この人があまりにも眩しくて、自分との距離がますます見えた。

 それでものどかは「ありがとうございます」と笑顔で言った。コーヒーは美味しかった。それは本当のことだったから。

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