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第8話①「あなたは楽しそうでした」

 いつもと同じ朝だった。

 蛍光灯の白い光が天井から均等に降り注いで、壁際に並んだキャビネットの角を同じように照らしている。

 デスクの上には昨日の続きの書類が三束、クリアファイルに挟まれたまま朝を迎えていた。一番上のファイルには「人災処理報告(第四七二号)」と印字されたラベルが貼られている。

四七二。今月だけでもう四七二件目。


 給湯室からインスタントコーヒーの匂いが漂ってくる。誰かが始業前に一杯淹れたのだろう。壁掛けの時計が8時50分を指していて、始業前の緩い空気がオフィスに薄く満ちている。


 春森のどかは自分の席について、パソコンの電源を入れた。起動音を聞き流しながら、昨日の残りの報告書をめくる。

 怪人3件、戦闘員の小規模活動が2件。どれも人災処理で片がついたもの。被害状況欄には「建造物一部損壊」「車両二台横転」「電柱傾斜(軽度)」と見慣れた文字列だった。


 画面が立ち上がる。メールの受信トレイには未読が12件。ほとんどが定型の報告と申請の確認で、件名を流し読みするだけで中身がわかる。一件だけ総務からの連絡が混じっていたが、備品の補充案内だった。ボールペンとコピー用紙。

 昨日も同じような朝だった気がする。その前も、たぶんそう。


「はい、特殊二課です」


 受話器を耳に当てると、聞き慣れた通信課の声が被害状況を読み上げていく。地区名、怪人の種別、推定被害範囲。

 のどかは手元のメモ帳にボールペンを走らせながら、頭の中ではもう処理区分の判定を終えている。


「了解しました。対応します」


 受話器を置いて、デスクの端に目をやる。

 書類の山のさらに向こう、モニターの横に鎮座している小さなボタン。赤くもなければ大きくもない。事務用品と同じ色をしたそっけない箱に、ラベルすら貼られていない物理ボタン。もう何度押したかわからない。最初の頃はボタンに手を伸ばすたびに緊張していたのに、今はコピー機のスタートボタンと同じ感覚で指が動く。

 ポチッ。

 モニターの隅に「怪人鎮圧完了」の文字が表示される。六秒。電話を取ってからの処理時間は、たぶんそのくらいだった。


 のどかは報告書のテンプレートを開いて、日時と場所と処理区分を入力し始める。

 「人災」指が勝手に動く。フォーマットの欄を埋めていく作業は、もう体が覚えていた。被害規模、出動戦力、鎮圧時刻、事後処理の要否。一つずつ打ち込みながら、ふと手が止まった。

 画面の文字を見つめたまま、数秒。

 カーソルが点滅している。報告書の「処理担当者」の欄に、自分の名前がある。春森のどか。この名前をここに打ち込むのも、もう何百回目だろう。

 それから何事もなかったように、続きを打ち始めた。


  ◆


「お疲れさま。今日も朝から早いね」


 声をかけてきたのは、隣のデスクに座るエミリだった。北米支部から出向してきて早二か月。

 最初の頃こそ日本支部のカルチャーショックに目を白黒させていたが、今ではすっかりこのオフィスの空気に馴染んでいる。

 デスクの上はいつも整然としていて、資料のファイリングも完璧。手元にはすでにコーヒーが一杯。自分で淹れてきたらしく、湯気がゆるやかに立ち上っている。


「おはようございます。……いつもの、です」


 のどかは画面から目を離さずに答えた。報告書の最後の欄に処理完了のチェックを入れて、保存。ファイルを閉じて、次のクリアファイルに手を伸ばす。四七三件目が待っている。


「さっきの、もう終わったの?」


 エミリがモニターを覗き込んだ。鎮圧完了の表示と、すでに入力を終えた報告書の画面を交互に見て、小さく息を吐く。


「電話取ってからまだ三分経ってないよね。相変わらず早い」

「慣れただけですよ」


 のどかは苦笑した。

 実際、慣れた。電話を取って、状況を聞いて、判断して、ボタンを押して、報告書を書く。この一連の流れに迷いがなくなったのは、いつ頃からだろう。入隊したばかりの頃は一件ごとに課長に確認を仰いでいた。ボタンを押す指も少し震えていた。

 今は何も考えなくても指が動く。それが成長なのか、それともただ慣れただけなのか。


 エミリが自分のデスクに戻って作業を再開する。キーボードを叩く音が規則正しく響いた。

 彼女はいつも楽しそうだ、とのどかは思う。出向してきた当初の混乱を乗り越えて、今では毎日の業務を自分のペースで確実にこなしている。忙しさの中にいても、どこか前を向いている空気がある。新しい仕事を振られても「やってみます」と受け取る姿勢が自然で、気負いがない。


 のどかは四七三件目のクリアファイルを開いて、中身を確認した。昨日の夜間に処理された案件の事後報告。ヨルの担当分だった。いつも通り簡潔にまとまっていて、過不足がない。自分はこれを確認して、承認欄にチェックを入れて、ファイルサーバーに格納する。それだけ。

 キーボードを打つ手が少し遅くなった。


「……ねぇ、エミリ」

「ん?」

「この仕事、楽しい?」


 自分でも思っていなかった言葉が口をついて出た。

 キーボードの音が止まった。のどかはモニターを見つめたまま、自分の声に少し驚いている。こういうことを聞くタイプではないと、自分でも分かっていた。


 エミリがゆっくりとこちらを向いた。

 その表情は、いつもの朗らかな笑顔ではなかった。少しだけ真剣な目がのどかの横顔を見ている。短い付き合いだが、のどかが日頃こういうことを口にしない人間だということを、エミリはよく知っている。

 少しの沈黙があった。オフィスの空調の音と、遠くの電話の着信音だけが響いている。

 エミリは画面に目を戻すでもなく、のどかの方をまっすぐ見たまま、静かに言った。


「……私は、あなたがこの課にいてくれてよかったと思ってる」


 仕事の話をしたのに、仕事の話では返ってこなかった。


 のどかは一瞬きょとんとして、それから少しだけ笑った。


「ありがとう」


 それだけ言って、画面に向き直る。エミリも何も付け加えず、キーボードの音が戻った。

 オフィスの空気は穏やかだった。エミリの言葉は嬉しかった。嬉しかったけれど、胸の奥にある小さなざわつきは、その温かさとは別の場所にあるもので、のどかにはそれが何なのか、まだうまく掴めなかった。


  ◆


 電話が鳴って、取って、処理して、報告書を書く。

 また電話が鳴って、取って、処理して、報告書を書く。


 壁掛けの時計の針が十一時を回った。書類の山が少し低くなって、午後にはまた新しい束が届くのだろう。給湯室からコーヒーの匂いが漂ってきて、誰かが二杯目を淹れたことがわかる。窓の外では雲が動いて、日差しがデスクの端を照らしたり陰らせたりしている。

 何も変わらない。昨日と同じ。一昨日と同じ。

 のどかはメールを一件処理して、次のメールを開いた。



  ◆


「じゃ、俺は今日から出張だからな」


 昼過ぎだった。課長がマグカップを片手に立ち上がった声で、のどかは顔を上げた。


「えっ……今日からですか?」

「おいおい、先週言ったぞ」


 課長は呆れたように笑った。言われてみれば、確かに聞いた気がする。先週の金曜日、書類の山に埋もれている最中にさらっと告げられて、そのまま次の電話を取って忘れていた。


「すみません、忘れてました……」

「まぁいい。仕事は溜めてないし、引き継ぎもいらん」


 課長は自分のデスクの上を見回した。いつも通り、書類は最低限しか置いていない。この人のデスクはいつだって必要なもの以外がない。マグカップと、ボールペンと、承認印と。それだけでこの課を回してきた人のデスクだった。


「代わりの人材は手配してある」

「代わり……ですか」

「ああ。俺より有能だぞ、たぶん」


 いつもの軽い調子だった。それが冗談なのか本気なのか、課長の表情からは読み取れない。

 課長はマグカップをデスクに置いて、鞄を肩にかけた。のどかの方をちらりと見て、少しだけ目を細める。


「気が合うと思うぞ」

「……はい?」

「代わりに来るやつ。お前と気が合うと思う」


 それだけ言って、課長はひらひらと片手を振った。のどかが何か言い返す前に、もう背中はドアに向かっている。廊下に出る直前、肩越しに一言。


「じゃあな、新人。頼んだぞ」


 ドアが閉まった。

 オフィスに課長の気配が消えて、急にデスクの上のマグカップだけが取り残されたように見えた。底にはインスタントコーヒーの跡が薄く残っている。

 のどかはしばらくそのマグカップを見つめていた。

 気が合う。その言葉が妙に引っかかった。

 課長が人を評するのに「気が合う」なんて言い方をするのは珍しい。有能だ、とか、使える、とか、そういう言い方なららしいけれど。

 でもそれ以上は考えなかった。午後の書類が届いたからだ。四七四件目。のどかは新しいクリアファイルを手に取って、いつも通りの作業に戻った。


  ◆


 翌朝。のどかがオフィスのドアを開けた瞬間、何かが違った。

 空気、だろうか。いつもの蛍光灯の白い光は変わらない。キャビネットも、デスクも、壁掛けの時計も同じ場所にある。でも何かが少しだけ整っている。

 書類の束がまっすぐ揃えられて、キャビネットの扉がきちんと閉まっている。給湯室から漂ってくる匂いもいつものインスタントコーヒーだけれど、カウンターの上に小さなサボテンの鉢が置いてある。

 そして、窓際に人がいた。

 日差しが柔らかく差し込む窓辺で、一人の女性がサボテンの鉢に霧吹きをかけていた。シュッ、シュッ、と規則正しい音が静かなオフィスに小さく響く。霧が朝日に照らされて、ほんの一瞬だけキラキラと光る。

 スーツ姿だった。派手さはない。でも清潔感があって、きちんとしている。肩の力が抜けた自然な立ち姿で、背筋は真っ直ぐだけれど張り詰めた感じがしない。髪はきれいにまとまっていて、全体から柔らかい雰囲気が漂っている。


 のどかがドアの前で立ち止まったまま見ていると、その女性がふと振り向いた。

 目が合った。

 女性の表情がふわりと和らいだ。まるで久しぶりに知り合いに会ったような、そんな自然な笑顔だった。


「あなたがのどかちゃんだね」


 声も柔らかかった。落ち着いていて、でも冷たくはない。どこか懐かしいような響きがある、と思ったのは気のせいだろうか。


「会えるの、楽しみにしてた」


 のどかは一瞬、言葉に詰まった。


「あ……えっと、よ、よろしくお願いします」


 声が少し上ずった。慌てて頭を下げる。顔を上げたとき、その女性はもう霧吹きをデスクに置いて、こちらに向き直っていた。


「そんなにかしこまらなくて大丈夫。しばらく課長の代わりを預かることになったから、よろしくね」


 名乗った名前は、聞き慣れないものだった。他支部からの出向だという。課長からの推薦で来たとだけ説明して、それ以上の経歴は語らなかった。

 のどかは自分のデスクに座りながら、ちらりと課長代理を見た。

 課長の席に着いて、すでにパソコンの画面を開いている。画面を見つめる横顔は真剣だけれど、口元にはわずかに笑みが浮かんでいる。仕事の画面を見ているだけなのに、楽しそうに見える。


 ……課長が、気が合うと思うって言ってた人。

 不思議な人だった。初対面のはずなのに、空気が近い。緊張しなければいけない場面のはずなのに、なぜか肩の力が抜ける。バリバリのキャリアウーマンというのとは違う。かといって柔らかいだけでもない。なんだろう、この感じ。


 エミリが出社してきて、のどかの隣に座った。窓際の課長代理を見て、小さく目を見開く。


「……あの方が、課長の代わり?」


「みたい」

「雰囲気、素敵な人ね」


 エミリが率直にそう言って、のどかも小さく頷いた。「なりたい自分」という言葉がしっくりくる人だった。


  ◆


 その日の午前中に、小さな出来事があった。

 ヨルが給湯室から戻ってきたときのことだ。コーヒーの湯気が立ち上っている、いつものマグカップを手にデスクに向かっていた。

 パキ、と小さな音がした。

 マグカップの取っ手部分に走っていたひびが、限界を迎えたのだ。取っ手が割れて、中のコーヒーが揺れて落ちかける――

 その瞬間、横からすっと手が伸びた。

 課長代理が、落ちかけたカップを片手で受け止めていた。コーヒーは一滴もこぼれていない。まるで落ちることが分かっていたかのような、淀みのない動きだった。


「あら……ありがとう」


 ヨルが少し驚いた顔で礼を言う。課長代理はカップを安全にデスクの上に置いて、自分の荷物から何かを取り出した。

 新品のマグカップだった。黒地に、小さな黒猫のイラストが描かれたデザイン。


「取っ手、だいぶ前からひびが入ってたみたいですね。よかったらこれ、使ってください。私の未使用のカップなんですけど」


 ヨルがそのカップを受け取って、黒猫のイラストに目を止めた。


「……黒猫」


 低い声に、わずかに色が混じった。嫌な色ではない。むしろその逆だ。


「私がこれ好きなの、よくわかったわね」

「はい、よく知ってます」


 課長代理はニコリと笑った。

 黒猫のカップを手に持ったまま、ヨルはほんの一瞬だけ動きが止まった。笑顔のまま、課長代理の顔をじっと見ている。

 課長代理は変わらない柔らかい笑顔で、その視線を受け止めていた。


「……ありがとう。大事に使うわ」


 ヨルはそう言って、新しいカップにコーヒーを注ぎ直した。黒猫のイラストに一瞬だけ指を触れて、それからいつも通りデスクに向かった。

 それだけだった。オフィスの日常はすぐに元に戻って、電話が鳴り、キーボードの音が響き、クリアファイルがめくられていく。

 ただ、ヨルが新しいカップをずいぶん気に入ったらしいことだけは、なんとなく見ていてわかった。


次の更新は金曜日です

パトレイバーを見に行きましたが最高に面白かったです。帰りに財布をなくすというトラブルさえなければ、なければっ!!

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