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第7話②「たまにはこんな日も大事だそうです」

  ◆


 のどかが海の家を飛び出すと、浜辺に人だかりができていた。

 泳いでいた客たちが慌てて浅瀬に上がってきている。指差す先、沖合ではなく驚くほど近い浅瀬に、三角形の背びれが水面を切って動いていた。

 サメだった。

 幸い、怪我人は出ていない。泳いでいた客もすでに浜に上がっている。だがサメは浅瀬をゆっくりと旋回するように泳ぎ続けていて、海に戻る気配がない。


「……これは」


 のどかは一瞬だけ頭の中を整理した。

 サメは災害ではない。防衛軍の管轄外だ。普通に警察か、海上保安の案件になる。我々が手を出す領域ではない。


「このままだと、閉鎖ですかね……」


 エミリが横で呟いた。のどかも同じことを考えていた。ビーチが閉鎖されれば海の家も営業停止になる。


「ダメっ」


 小さな声が聞こえた。

 振り返ると、ゆきのがエプロン姿のまま浜辺に出てきていた。顔色はもともと白いが、今は紙のように色を失っている。


「閉鎖になったら……お店を閉じて……バイトもクビで……家賃が払えなくなって……」


 ぶつぶつと呟く声が、だんだんと小さくなっていく。目の焦点が合っていない。


「雪ノ下さん、落ち着いて——」

「やります」


 のどかの言葉を遮って、ゆきのはフラフラと海のほうに歩き出した。


「ちょ、危ないですって! 警察に任せましょう!」


 のどかが声をかけた。エミリも「待ってください!」と手を伸ばす。周囲の客も何人かが「おい、危ないぞ」と声を上げている。

 だがゆきのは止まらなかった。

 エプロンのまま、サンダルのまま、フラフラと波打ち際を進んでいく。足取りは頼りない。とても戦いに行く人間の歩き方ではない。

 水面の背びれが、動きを変えた。

 ゆっくりと、だが確実に、ゆきののほうに向きを変えている。

 浜辺が静まった。

 ゆきのが膝まで海に浸かったところで、足を止めた。

 背びれが近づいてくる。五メートル、四メートル——。


「――私のっ、時給1,020円をっ!」


 ゆきのが叫んだ。


「プラスっ、特殊スキル手当っ、30円をっ——返せーっ!!」


 空気が、凍った。

 比喩ではなく。

 ゆきのを中心に、半径十数メートルの海面が一瞬で白く染まった。水が凍りつく音が、バキバキと連鎖する。波が止まり、飛沫が空中で静止する。背びれごと、海面が完全に氷の平原になった。


「……すごっ」


 のどかとエミリの口から、ほぼ同時に声が漏れた。浜辺の客たちも言葉を失っている。

 静寂。

 凍りついた海の上で、ゆきのの肩がゆっくりと落ちた。膝が折れる。


「……あ」


 ゆきのがその場にへたり込んだ。我に返ったような、何かを悟ったような、微妙な表情だった。やってしまった、という顔。

 のどかは砂浜を駆けて、氷の上に足を踏み出した。思ったより滑らない。ゆきののそばまで来て、しゃがみ込む。


「大丈夫ですか? すごかったですよ」

「……あ、はい……すみません、なんか、その……つい……」


 ゆきのは呆然としたまま、自分が凍らせた海面を見回していた。

 のどかもサメのほうに目を向けた。

 氷の中に閉じ込められた背びれ。その周囲の氷は透明度が高く、中がよく見える。

 ――背びれだけだった。

 三角形のプラスチック製の背びれが、浮きに取り付けられている。おもちゃだ。サメ本体など、どこにもいない。

 のどかは黙った。隣に来たエミリも、氷の中のおもちゃを見て、黙った。

 ゆきのはまだ自分の手を見つめていて、気づいていない。


  ◆


 騒動の後始末は、あっけないほど簡単だった。

 氷はゆきのの力の性質上、数十分もすれば自然に融ける。実害はなし。怪我人もなし。背びれはおもちゃだったが、ビーチの安全を脅かす悪質なイタズラであることに変わりはない。

 犯人は見つからなかった。


 夕方になって、のどかの端末に連絡が入った。

 ビーチ一帯の自治体と施設の連名で、騒動を収めたゆきのに金一封が出るという。防衛軍の保養施設との繋がりで、事務手続きは防衛軍を通す形になったらしい。


「金一封」


 ゆきのが、海の家のテーブルで封筒を受け取った。

 中身を見て、目が潤んだ。


「これで……これでもやし生活から……賄いともやしの日々から……」


 涙が一筋、頬を伝った。

 のどかはエミリとちらりと目を合わせた。エミリも同じ顔をしていた。おもちゃだったことは、もういい。この人は自分の生活を守るために、本気で海を凍らせたのだ。

 結果、騒動が収まったらいいが特殊二課流だ。


「……そうだ。かき氷、まだでしたよね」


 のどかが言うと、ゆきのは涙を拭きながら「あ」と顔を上げた。


「おう、待ってたぞ。ほれ」


 店長がカウンターからかき氷を差し出した。山盛りの氷に、シロップがたっぷりかかっている。見た目は普通のかき氷だった。

 のどかがスプーンを入れて、口に運ぶ。


「あ、これこれ」


 懐かしい味だった。以前食べたときと同じ、あの味。ただの氷とシロップなのに、舌の上でふわりと溶ける感触が違う。冷たさの質が違う。甘さの後に、ほんのわずかに清涼感が残る。


「……なにこれ、すごくないですか」


 エミリが目を見開いた。初めて食べる味に、素直な驚きが顔に出ている。


「氷が違うのよ」


 店長が腕を組んで言った。


「うちの氷は全部あの子が作ってる。だからかき氷だけは手作りなんだ」


 ゆきのが少し照れたように俯いた。まだ目元が赤い。

 のどかはもう一口食べた。やっぱり美味い。この味は、たぶん忘れない。


  ◆


 ――時間は、少しだけ遡る。

 サメ騒動の直後。ビーチの端、岩場の影に身を潜めた男が、ひとり舌打ちをしていた。


「……くそ。予定外だ」


 顔の上半分を覆う、安っぽいプラスチック製のマスク。目元だけが露出している。マスクの額部分には、マジックで「嫉」と殴り書きされていた。


「あのサメ型浮遊警告装置は、あくまで公共空間における過剰な密着行為に対する適正な警告措置であり、暴力行為ではない。にもかかわらず、局地的氷結という明らかに過剰な対応を受けた。これは由々しき事態と言わざるを得ない」


 誰も聞いていない。聞いている人間がいたとしても、要するにサメのおもちゃでカップルを脅かそうとして、雪女に凍らされたというだけの話である。


「だが幸い、我が身元は露見していない。嫉妬マスク団の名は未だ伏せられたままだ」


 一人で「我ら」とか「団」と言っているが、この場にいるのは本人だけである。


「次の手を考えねばならん。我ら嫉妬マスク団の悲願——公共空間における健全な秩序の回復。それを諦めるわけにはいかんのだ」


 公共空間における健全な秩序の回復。本人は大真面目だった。人はそれを嫉妬と呼ぶが、当人にその自覚はない。マスクの額に自分で「嫉」と書いておきながら、ない。

 岩場を離れ、砂浜沿いに移動する。と、パラソルの下に人影があった。


 シートの上でうつ伏せに眠る女性。黒い髪が砂の上に広がっている。長い脚。背中は何も着ていない。水着の紐が外された状態で、パラソルの日陰にすっぽりと収まるように横たわっている。


 嫉妬マスクの足が止まった。


「……なんということだ」


 声が震えていた。正義感で。


「公共のビーチにおいて、この無防備な姿は何事か。これでは風紀が乱れる。善良なる市民が目のやり場に困るではないか」


 ポケットからスマートフォンを取り出す。


「記録せねばならん。注意喚起のために。——これは正義の記録行為であり、断じて個人的な欲望に基づくものではない」


 カメラを構えた。

 その瞬間。

 女性――ヨルの目が、薄く開いた。

 焦点の合わない、寝ぼけた目。嫉妬マスクの姿を捉えたのか、捉えていないのか。たぶん、どちらでもない。

 ヨルの右手の指が、小さく弾かれた。ぱちん、と。

 嫉妬マスクの足元に、黒い円が浮かんだ。


「——は?」


 転移門だった。

 落ちた。声を上げる間もなく、嫉妬マスクの体は足元から呑み込まれて、砂浜の上から消えた。

 ヨルの目が、また閉じた。

 寝息が戻る。何事もなかったかのように、パラソルの下の時間が再開した。


「ヨルさーん!」


 遠くから、のどかの声が聞こえた。

 砂浜を歩いてくるのどかの姿。心配そうな顔。ずっと寝ていたから、そろそろ様子を見に来たのだろう。


「……ふわぁ」


 ヨルが、あくびをしながら体を起こした。

 目を擦る。髪を掻き上げる。


「ヨルさん、大丈夫ですか? ずっと寝てたから——」


 のどかの声が途切れた。

 ヨルが上体を起こしたとき、ビキニの紐は外れたままだった。


「——っ!!」


 のどかが駆け寄って、自分のタオルでヨルの前を隠した。顔が赤い。


「ヨ、ヨルさん! 紐! 紐外れてます!」


「……ん?」


 ヨルはまだ半分寝ている顔で、自分の胸元を見下ろした。


「……あー」


 特に慌てる様子もない。のどかのほうがよほど動揺していた。


「あの、さっき誰かいませんでしたか? なんか一瞬、人影が」

「……さあ。寝てたからわかんない。誰もいなかったと思うけど」


 ヨルは欠伸の続きをしながら、のどかが押し当てたタオルをのんびりと受け取った。

 砂の上には、安っぽいプラスチックのマスクの欠片が、ひとつだけ残っていたが、のどかの目には入らなかった。


  ◆


 海の底。

 いや、海の底よりもさらに深い、どこか。

 薄暗い空間に、嫉妬マスクは尻餅をついていた。

 周囲には珊瑚のような柱が立ち並び、天井からは正体不明の光がぼんやりと落ちている。魚が泳いでいる。壁の向こうに、水の揺らめきが見える。


「……ここは」

「おや」


 声がした。暗がりの奥から、ゆっくりと人影が近づいてくる。

 白髪の老婆だった。

 着物のような、衣のような、時代も土地も判然としない装い。背筋は曲がっているが、目だけが妙に若い。鋭い。そして——嬉しそうだった。


「若い男は、久しぶりじゃのう」

「――え?」

「わらわは乙姫。ここは我が城。さあ、ゆっくりしていくがよい」

「いや、ちょっと――」

「ゆっくりしていくが、よい」


 扉が閉まった。

 どこにも出口は見当たらなかった。


「――うぎゃああああああっ!!」



 ――業務日誌――


 案件名:ビーチにおけるサメ型浮遊物騒動

 発生場所:防衛軍福利厚生施設併設ビーチ

 災害区分:管轄外(自然災害・一般治安案件に該当)

 被害状況:なし。怪我人なし。遊泳一時中断

 対応:現場居合わせの民間協力者(雪女)による自主的対処。海面の局所凍結により騒動収束。原因は悪質なイタズラ(サメ型玩具の設置)と判明。犯人不明

 備考:地元自治体・施設連名にて協力者への金一封を手配。防衛軍経由にて事務手続きを代行


 ※観測できない災害は人災扱いとして処理済み。

次回の更新は火曜を予定しています

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