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第7話①「たまにはこんな日も大事だそうです」

 水平線が、嘘みたいに真っ直ぐだった。

 都心から離れること数時間。防衛軍の福利厚生施設に併設された、というより、ほぼ一体化したリゾートビーチは、一般にも開放されているだけあって人の姿もそれなりにある。それでも都会の海水浴場とは比べものにならない。

 空が広い。水が青い。砂浜が白い。

 パラソルもシートもクーラーボックスも、すでに設営済み。


「すっごい綺麗ですね、ここ!」


 のどかは水着姿のまま、目の前の海にすっかり気を取られていた。

 普段のオフィスでは出さないような声が自然と出ている。隣ではエミリも同じように目を丸くしていた。


「聞いてはいましたけど、日本のリゾートビーチ、想像以上ですね」

「ですよね。都内の海水浴場しか行ったことなかったので」


 潮風が心地よい。波の音が近い。仕事のことを考えなくていい、というだけでこんなにも肩の力が抜けるものなのか。

 ――と、ふと我に返る。

 ……仕事、大丈夫なんだろうか。

 ちらりと視線を向けると、少し離れたコテージのテラスに課長の姿が見えた。

 アロハシャツに短パン、サングラス。手には缶ビール。リクライニングチェアにだらりと体を預けて、完璧にくつろいでいる。もう仕事の「し」の字もない。


 来る途中、同じことを聞いた。


「こういうのも大事だぞ、新人」


 缶ビールはそのときはまだ開けていなかったが、課長のトーンはいつもと同じだった。


「というかな、やってくれないと色々困るんだ。こっちが」

「……色々、ですか」

「色々だ」


 それ以上は語らなかったし、のどかもそれ以上は聞かなかった。

 今、コテージで缶ビールを傾けている課長の背中は、完全にオフの人間のそれだった。


「そうよ、旅行の間は一課が頑張ってくれるみたいだから。気にしなくていいわ」


 声のしたほうを振り向いて、のどかは一瞬、言葉を失った。

 麦わら帽子に黒のビキニ。

 肩にはさらりと薄手のシャツを羽織っているが、そこから伸びる脚が長い。隠しているようで、何も隠れていない。手には氷の入ったドリンクが涼しげに揺れている。

 ヨルだった。

 ビーチの空気が、一瞬だけ変わった気がした。周囲の視線がヨルに集まっているのが、のどかにもよくわかる。男性客も女性客も、ちらちらとそちらを見ている。


「……すごい」


 のどかの口から、素直な声がこぼれた。

 憧れの先輩。夜勤が多くて普段はなかなか顔を合わせないが、こうして見ると、やっぱりこの人はすごい。スタイルが良いとか顔が整っているとか、そういう次元の話ではなく、存在そのものが目を引く。


「夜型だし、人が多いところは来たくないんだけど」


 ヨルはドリンクのストローに口をつけながら、気だるげに呟いた。


「いつも夜勤ですもんね……」


 のどかはヨルの肌の白さに目が行った。日に焼けていない。透き通るような白さは、夜勤生活の産物なのか、それとも。


「こら。あんまりジロジロ見ないの」


 ヨルが軽く眉をしかめた。怒っているというより、照れているようにも見える。


「す、すみません。でも、すごく綺麗だなって……」

「……肌が弱いのよ。焼けないの。焼けたら火傷するだけだから」


 呟くように言いながら、ヨルは手元のドリンクに視線を落とした。


「……日焼け止め、ちゃんと塗らないとまずいんだけど」


 独り言のような声。背中に手が届かない、とでも言いたげな、微妙に困った表情を浮かべた。


「塗りましょうか?」


 のどかが即座に反応した。自分でも驚くぐらい、自然に口が動いていた。

 ヨルが少し目を瞬かせる。


「……いいの?」

「はい、もちろん!」


 ヨルはしばらくのどかの顔を見つめて——それから、小さく頷いた。


「……じゃあ、お願い」


 パラソルの下。シートの上にうつ伏せになったヨルの背中に、のどかは日焼け止めを手に取った。

 薄手のシャツは脱いでいる。背中のラインが綺麗に見える。

 紐を外さないまま塗ろうとしたのどかに、ヨルが首だけ振り返った。


「取らないの?」

「――え、取っていいんですか?」


「いいけど。嫌なら――」

「取りますっ。綺麗に塗らないといけませんから」


 少しだけ声が弾んでいた。

 ヨルは「……そう」と短く答えて、また顔を伏せた。

 紐を外す。日焼け止めを手のひらに伸ばして、丁寧に塗っていく。

 肩甲骨のあたりから、背中の中央を通って、腰のラインへ。ヨルの肌は見た目のとおり白くて、思っていたより薄い。丁寧に、丁寧に。ムラにならないように。


「…………」


 ヨルは抵抗するでもなく、身じろぎするでもなく、されるがままだった。

 信頼なのか、無関心なのか。たぶん前者だと、のどかは思いたかった。

 背中を塗り終えて、腕、肩、首の後ろ。

 ヨルの呼吸が少しずつ深くなっているのに気づく。


「……ヨルさん?」


 返事がない。

 潮風にわずかに髪が揺れる。寝息が聞こえる。パラソルの影と日差しの境目に、ヨルの白い肌がぼんやりと光って見えた。

 起こすわけにはいかない。のどかは日焼け止めのキャップを静かに閉めて、そっとその場を離れた。


  ◆


 あてもなく砂浜を歩いていると、岩場のほうからなにやら声が聞こえた。


「この……っ、離しなさい……っ!」


 エミリだった。

 岩場の水たまりに片膝をついて、右手の人差し指をカニに挟まれている。しかもかなり大きい。エミリが振り払おうとするたびに、カニは器用に体を翻して、むしろ有利なポジションを取り直している。


 どう見ても負けていた。


「……何してるんですか」


 のどかが声をかけると、エミリは振り返った。髪は乱れ、水着には砂がついて、片膝は擦りむいている。どこから見ても敗者の姿だった。


「あ、春森さん。——これはですね、違うんです。負けではありませんの」

「はぁ」

「先に三勝した方が勝ちですから。ジャパニーズの作法に則って、正々堂々、明日また勝負を――」


 カニはエミリの指を離すと、岩の隙間にするりと消えた。逃げたというよりは、飽きたように見えた。


「――明日も来やがれですわーっ!」


 岩場に向かって叫ぶエミリの背中は、どこかで見た昔のアニメの下っ端悪役そのものだった。エセお嬢様モードが全開になっている。ストレスが溜まると出るらしい。


「……海の家、行きませんか? 冷たいもの飲みましょう」


 のどかはそっと提案した。深くは聞かない。聞いたところで、しょうもない経緯しか出てこないだろう。


「海の家! ええ、行きましょう! 実は楽しみにしていましたのよ!」


 切り替えが早い。エミリは砂を払いながら立ち上がると、さっきまでの悔しさをどこかに放り投げて、目を輝かせた。

 ビーチ沿いの海の家は、思ったよりもしっかりした造りだった。木造の屋根にテーブルがいくつか並んでいて、カウンターの奥に厨房が見える。メニューの看板には定番が一通り並んでいた。


「伸びたラーメンにゴムみたいなヤキソバ、具なしカレーが絶品だって聞いてるんです!」


 エミリが店内に響く声で言い放った。


「ちょ――声が、声大きいですって」


 のどかが慌ててエミリの腕を引いたが、もう遅い。


「おう、元気な嬢ちゃんだな」


 カウンターの奥から、日焼けした大柄な男が顔を出した。がっしりとした体格に人の良さそうな笑顔。絵に描いたようなガハハ系の店長だった。


「うちはインスタントだから美味いぞ」


 隠す気がない。悪びれもしない。むしろ誇らしげだった。

 のどかが内心で冷や汗をかいたのをよそに、エミリは「おお」と感心している。


「で、一番のオススメはかき氷だ。こいつだけは手作りでな」


「かき氷が手作り……?」


 のどかは首をかしげた。かき氷で手作りとは、シロップが自家製ということだろうか。

 まあいい。とりあえず食べてみればわかる。


「じゃあ、ヤキソバとカレーをお願いします。かき氷はあとで」

「あいよ」


 店長がカウンターの奥に引っ込むと、のどかとエミリはテーブルについた。

 ――涼しい。

 外の日差しが嘘のように、海の家の中はひんやりとした空気が漂っていた。屋根と日陰だけでは説明がつかない涼しさだった。

 開放感にすっかり気を緩ませながら、のどかは一息つく。


「お水をどうぞ」


 声がして顔を上げると、水の入ったグラスを二つ持った女性が立っていた。

 色白を通り越して青ざめたような肌。涼しげな——というより、少し寒々しい雰囲気。エプロン姿が妙にぎこちない。

 どこかで見た顔だな。

 のどかは記憶を探りながら、「あ、どうも」とグラスに手を伸ばした。


「――あ、すみません。忘れてました」


 女性がグラスの上にそっと手をかざした瞬間、透明な水の中に、音もなく氷が現れた。


「えっ」


 のどかとエミリが、同時にグラスを凝視した。

 ――ああ。


「雪ノ下さん? あの、面接に来てた……」

「あ……はい。お久しぶりです」


 ゆきのは少しだけ頭を下げた。面接のときと同じ、控えめで真面目な表情だった。


「ここで働いてるんですね」

「リゾートバイトで……その、まだ定職には就けてなくて」


 声が少し小さくなる。のどかは「そうなんですね」と返しながら胸の奥が少しだけ痛んだ。


「すっごく美味しいですね、このお水! おかわりいただけますか!」


 隣でエミリが空になったグラスを差し出していた。いつの間に飲み干したのか。


「え、あ、はい……」


 ゆきのが慌てて水を注ぎ足し、氷を出す。エミリはそれを一気に飲んで、また「美味しい」と唸った。

 のどかもグラスに口をつけた。

 冷たい。ただの水なのに、喉を通る瞬間に、ほんのわずかに甘いような清涼感がある。


「……確かに、美味しい」


 なるほど。これなら店長がかき氷を推すのもわかる。

 ゆきのの氷は、ただ冷たいだけじゃない。のどかはグラスの中で光る氷をちらりと見て、静かに確信した。


「おう、お待ちー」


 カウンターからヤキソバとカレーが出てきた。注文してからほとんど時間が経っていない。


「早い! さすが日本ですね!」

「おう、日本のセントラルキッチンは優秀よ」


 店長がなぜか胸を張って返した。

 ヤキソバを一口。ソースの味が濃くて、麺はやや柔らかい。カレーは具が少なめで、ルーの味が前面に出ている。どちらも非常にジャンクだった。

 だが美味い。普通に美味い。

 海の音を聞きながら食べるヤキソバとカレーは、それだけでなにか特別な調味料がかかっているようなものだった。


「……海といえば、こうですよね」


 のどかは少し懐かしくなった。子供のころ、家族で海に来て、こういうものを食べた記憶がうっすらとある。


「これが噂の日本の海の家……素晴らしいです」


 エミリはエミリで、勝手に感動しながらカレーを頬張っていた。噂の出典が何なのかは聞かないでおく。

 その時、海のほうで悲鳴が上がった。

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