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第1話②「東雲、特殊二課に着任す」

 ◆


「新人」


 定時を少し過ぎた頃、課長が席から声をかけた。

 課長がデスクの引き出しから取り出したのはチケットだった。少し古びた紙で、隅に銭湯の名前が印刷されている。


「福利厚生の割引券。余ってるから使え」


 のどかは二枚を受け取った。課長は椅子の背もたれに体重を戻しながら、ちらりと東雲のほうに目をやった。


「初日だろ。こいつで一杯ってのもおつなもんだ」


 口の端が、ほんの少しだけ上がった。

 のどかはそれを見て、ああ、と思った。この人は本当に、こういう言い方しかしない。


「東雲さん、今日はもう上がれそうです。よかったら」


 のどかがチケットを見せると、東雲は画面から顔を上げた。トイレ事件からしばらく経って、口調はすっかり元に戻っている。


「銭湯、ですか?」

「はい。近くにいいところがあるので」


 東雲は少し迷うような間を置いてから、小さくうなずいた。


「せっかくですし、お願いします」


 断る理由もないのだろう。あるいは、この一日でもう抵抗する気力が残っていなかったのかもしれない。

 のどかにはどちらでも構わなかった。


 ◆


 銭湯は、オフィスから歩いて十分ほどのところにあった。


 下町の住宅街に溶け込むように建っている、昔ながらの構えだ。暖簾がかかっていて、引き戸があって、正面にはペンキ絵の看板がある。古いが、きちんと手入れされている。

 のどかが暖簾をくぐると、番台が見えた。

 ――河童だった。

 頭の皿がつやつやと光っている。手には帳面。背丈は人間の子供くらいで、番台の高い椅子に座っているから、ちょうど目線が合う位置になっている。

 のどかは足を止めることもなく、チケットを差し出した。


「こんばんは。二名です」


 河童の番台が、短く何かを答えた。チケットを受け取って、帳面に何かを記入している。小さな手がペンを器用に操っている。

 東雲は、のどかの後ろで固まっていた。

 視線が河童に釘付けになっている。口が少し開いている。朝のオフィスで見せた涼しげな表情は、もうとっくにどこかへ行ってしまっていた。

 それでもさすがと言うべきか、東雲は崩れなかった。トイレの教訓が効いているのか、歯を食いしばるようにして平静を保っている。


「……あの、あちらの」


 東雲は番台のほうを見ながら、声をひそめてのどかに尋ねた。


「あちらの番台の方は」


 何と呼べばいいのかわからないのだろう。河童をどの敬称で扱えばいいのか、北米支部のマニュアルにはおそらく載っていない。


「あちらの方は、ずっとここに?」

「ええ、もう何年もいらっしゃいますよ」

「そう、ですか。あの……彼は」


 のどかの目が、ほんの少しだけ東雲を見た。


「彼女、ですよ」

「――え?」

「あの方は女性です。間違えると機嫌を損ねるので、気をつけてください」


 東雲の思考が、完全に停止した。


 河童。番台。女性。

 何をどう処理すればいいのか。今この瞬間、北米支部で三年間鍛え上げた判断力は一切の役に立たなかった。

 しかしのどかはもう先に進んでいた。振り返りもせず、下駄箱で靴を脱ぎ、脱衣所への引き戸に手をかけている。

 東雲はもう考えることをやめたのか、あるいは考える余裕がなくなったのか、無言でのどかの後を追った。

 脱衣所は広くはないが清潔だった。木の棚にプラスチックの籠。壁には銭湯のマナーと書かれた古いポスターが貼ってある。常連らしき年配の女性が二人、のんびりと着替えをしていた。

 のどかは手慣れた動作で服を脱ぎ始めた。何も気にしていない。いつもの場所で、いつものことをしているだけの動作だった。

 東雲は流された。

 もう抵抗する余力はなかった。河童の番台にトイレの神様。ボタン一つで山が吹き飛ぶ職場。この上、裸文化に一人で立ち向かうだけの気力は、すでに残っていなかった。

 周囲を見た。常連のおばあさんたちが何の気負いもなく湯船に向かっていく。のどかもすでにタオルを手にしている。

 東雲は、小さく息を吐いた。

 ――郷に入っては。静かに服を畳み始めた。


 ◆


 浴室は湯気に満ちていた。

 天井が高い。壁にはタイルの富士山が描かれている。蛇口から流れる湯の音が、ゆるやかに反響していた。

 のどかは体を流してから、迷わず湯船に入った。じわりと全身に広がる熱。肩まで沈んで、ふう、と小さく息を吐いた。

 今日は穏やかな日だった。怪人は一体だけ。書類もほぼ片付いた。

 続けて東雲が、おそるおそる湯船の縁に手をかけた。足先を湯に入れて、熱さに少し眉をひそめて、それからゆっくりと肩まで沈んだ。

 しばらく何も言わなかった。

 湯気の中で、東雲の表情がゆるんでいくのがのどかの視界の端に映った。張り詰めていた肩の力が、一枚ずつ剥がれていくように抜けていく。


「……悪くないですね」


 静かな声だった。お嬢様言葉でもなく、北米支部の業務口調でもなく、ただ素直にそう感じたという声だった。

 のどかは何も言わなかった。ただ同じように目を閉じた。


 ◆


 脱衣所に戻ると、のどかはまっすぐ自動販売機の前に向かった。

 ガラス瓶の牛乳が並んでいる。白い牛乳、コーヒー牛乳、フルーツ牛乳。古い自販機特有のガコン、という音を立てて白い瓶が出てくる。

 のどかは蓋を開けて、鏡の前に立つと腰に手を当てる。

 ゴクゴクゴクッ。

 きれいなフォームで一気に飲む。背筋は伸びているのに力みがない。流れるような一連の動作に、一切の迷いがない。風呂上がりの牛乳を飲み慣れた人間だけが到達できる境地が、そこにはあった。

 東雲は、湯上がりでぼんやりした目のまま、その一部始終を見ていた。


「東雲さんもどうぞ。風呂上がりには牛乳です」

「は、はい……」


 東雲は自販機の前に立った。手が自然とコーヒー牛乳に伸びる。


「――それはまだ早いですっ」


 のどかの声が、静かに、しかし明確に制止した。


「……え?」

「コーヒー牛乳は、まだ早いです」


 のどかは真剣だった。風呂上がりの頬が赤いのとは別の、仕事とも違う、何か個人的な信念に基づいた真剣さだった。


「まずは白です。基本を飲んでから応用に進んでください」

「は、はい」

「それから、フルーツ牛乳は半年通ってからです」

「半年……」

「あと、飲み方。鏡の前に立って、腰に手を当てて一気です」


 東雲の頭の中で、今日一日のさまざまな衝撃が走馬灯のように流れていった。

 きっとこれも、風呂上がりの牛乳の飲み方にも作法が存在するのが普通なのだろう。

 東雲は白い瓶を取り出し蓋を開けた。鏡の前に立つと腰に手を当てた。


 ごく、ごく――けほっ。


「……けほっ、けほっ」

「無理はしなくていいですよ。最初は二口でも大丈夫です」


 のどかは優しかった。牛乳に関してだけやたらと細かいが。


「……一つ聞いてもいいですか」


 東雲は口元を手の甲で拭いながら言った。


「怪人の爆破には書類一枚で済むのに、牛乳にはこだわるんですね」

「はい」


 のどかは当然のように答えた。


「牛乳は大事ですから」


 東雲は何か言いかけて、やめた。もう何も言うまいという顔だった。


 ◆


 脱衣所の隅に、マッサージチェアがあった。

 年季の入った、革張りの大きな椅子。硬貨を入れると動くタイプの、レトロな機械だ。

 東雲はもう何も考えていなかった。湯上がりの体は温かく、牛乳の冷たさが胃の中に心地よく残っていて、一日分の緊張が全部どこかに流れていったあとの、空っぽの状態だった。

 誰に勧められたわけでもなく、ふらりとマッサージチェアの前に立った。座ると備え付けの硬貨を見つけて入れる。

 ういいいいん、と低い音がして、背中に何かが当たった。ぐりぐりと、ゆっくりと、肩甲骨のあたりを押してくる。


「……おふぅ」


 とろんと力が抜けていく。全身から、一日分のカルチャーショックが溶け出していくように。

 肩。背中。腰。じわじわと、順番にほぐされていく。

 天井を見上げる目が半分閉じている。口元がかすかに緩んでいる。


「…………これが…………これが、本場日本…………」


 マッサージチェアの低い駆動音だけが、脱衣所に響いていた。


 ◆


 翌朝。オフィスの空気は、昨日と変わらなかった。

 モニターが六面、壁に沿って青白い光を落としている。コーヒーメーカーは一巡目を落としたところ。課長はマグカップ片手に、いつもの椅子にいる。のどかは監視スケジュールを開いていた。

 東雲は、自分のデスクについていた。背筋が伸びている。髪はきちんとまとめられている。グレーのスーツに皺はない。昨日の脱衣所でマッサージチェアに溶けていた人間と同一人物とは思えない佇まいだった。

 モニターの一つが、赤く点滅した。

 採掘場。C-7エリア。怪人一体、山頂に登頂。

 のどかが受話器を取ろうとしたその前に。

 カチャリ。

 東雲のデスクの引き出しが開いた。

 スッと手が伸びて、リモコンを取り出す。親指が赤いボタンの上に乗る。

 ぽちっ。

 モニターの山肌が白く光り土煙が上がる。数秒で晴れるとそこに怪人の姿はない。

 スッ、とリモコンが引き出しに戻される。

 さらさらとペンが走る。A4一枚の報告書。日時、現場エリア、処理区分。五つの記入欄が、迷いのない筆跡で埋められていく。

 かつ、かつ、と東雲がデスクを立つと課長の前に書類を置く。


「処理完了しました。確認をお願いします」


 課長はちらりと書類に目を落として、ハンコを取った。


「ご苦労さん」


 ポンッ。それだけだった。

 東雲は書類をトレーに置いて、何事もなかったように次の業務の画面を開いた。

 のどかは受話器を取りかけた姿勢のまま、ほんの一瞬だけ動きを止めていた。それから、静かに受話器を戻した。

 ……まあ、エリートだとは聞いていた。

 のどかは小さく息をついて、自分の監視ログに視線を戻した。

 課長はコーヒーを飲んでおり、モニターは平穏を映していた。

 オフィスの空気は、特に何も変わらなかった、



 ――業務日誌――


 案件名:怪人登頂(採掘場C-7)×2

 発生場所:採掘場C-7エリア

 災害区分:人災

 被害状況:なし

 対応:定例処理装置にて即時排除。事後報告書提出、課長承認済み

 備考:北米支部出向者・東雲エミリの初日。二件目は出向者が単独処理


 ※観測できない災害は人災扱いとして処理済み。

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