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第1話①「東雲、特殊二課に着任す」

 朝のオフィスは、いつも通りだった。

 モニターが六面、壁に沿って青白い光を落としている。デスクの上には昨日の残りの書類が三枚。コーヒーメーカーが二巡目を落とし終えたあたりの、穏やかな時間帯。

 のどかは自分のデスクで、今日の監視スケジュールを確認していた。

 採掘場エリアの定時巡回、沿岸部のセンサーログ確認、あとは昨日の人災案件の事後処理が二件。いつもの朝だ。

 課長はマグカップを片手に、椅子の背もたれに体重を預けていた。湯気がゆるく立ち上っている。砂糖なし、ミルクなし。マグカップの柄はもう何年も同じやつで、底のほうにうっすら茶渋がついている。


「課長、今日から北米支部の出向者が来ます」

「ああ、聞いてる」


 課長は視線をモニターに向けたまま、コーヒーを啜った。興味がないわけではないのだろうが、いつものように表情からは何も読み取れない


「向こうではかなりのエリートだそうです。北米支部で三年の実務経験があって、評価もトップクラスだと」

「ふうん」


 9時5分前。

 廊下の向こうから、硬い靴音が近づいてきた。一定のリズムで、迷いがない。

 ドアが開いた。

 背が高い。それが最初の印象だった。

 紺のスーツをビシッと着こなした女性が、まっすぐな姿勢で入り口に立っていた。髪はきちんとまとめられていて、目元は涼しげで、どこからどう見てもできる人間の佇まいだった。書類の束を抱えるような背中の丸め方はしない。

 視線がまず室内を一周する。モニターの配置を確認し、それからデスクの並びに目を移し、最後にのどかと課長に向けられた。

 観察してから挨拶する。プロの順序だ、とのどかは思った。


「本日より出向研修でお世話になります。北米支部第三管理課の東雲エミリです。どうぞよろしくお願いいたします」


 丁寧で、落ち着いていて、過不足がない。声のトーンも安定している。

 のどかは立ち上がって軽く頭を下げた。


「こちらこそ、よろしくお願いします。春森です。わからないことがあれば何でも聞いてください」


 自分で言っておいて、少しだけ不思議な感覚があった。この人のほうがキャリアは長い。実務経験も自分より上だ。北米支部のエリートが出向してくるほどの人材なのに、何でも聞いてくださいと言っている自分がいる。

 課長は椅子から立ち上がることもなく、マグカップを軽く掲げた。


「課長の藤原。よろしく」


 それだけだった。

 東雲は一瞬だけ間を置いて、それから「よろしくお願いします」と丁寧に返した。北米支部の課長級は、もう少し形式的な挨拶をするのかもしれない。しかしこの課に来た以上、この空気に慣れてもらうしかない。

 のどかは東雲にデスクの位置を案内し、ロッカーの番号を伝え、各備品などの使い方を説明した。東雲はすべてを一度で把握した。メモを取る必要がない頭の良さが、所作の端々から伝わってくる。

 なるほど、エリートと聞いていたのは伊達じゃない。正直助かるという気持ちが一番強い。


 ◆


 デスクに戻って十五分も経たないうちに、電話が鳴った。


「はい、特殊災害対策二課、春森です」


 短いやり取りを終えると受話器を置く。


「課長、採掘場です。C-7エリアに怪人が一体、山頂に登頂済みです」

「いつものやつか」

「いつものやつです」

「じゃ、頼むわ」

「はい」


 のどかはデスクの引き出しを開けた。中には書類と文房具に混じって、手のひらサイズの赤いボタンがひとつだけついた、何の変哲もない装置。

 のどかはそれを取り出すと、東雲のほうににこりと笑いながら向き直った。


「東雲さん、せっかくですので」

「……これは?」

「定例の処理装置です。ぽちっと押してください」


 東雲は怪訝な表情で赤いボタンを見た。続けてのどかの笑顔を見ると課長へと視線を移す。

 課長は特に視線を向けることなくコーヒーを飲んでいた。


「……押す、だけですか?」

「はい、押すだけです」


 ――ポチッ。

 壁面モニターの映像が揺れた。

 採掘場の山肌が一瞬白く光って、轟音とともに膨らみ画面全体が土煙に覆われた。

 数秒後、煙が晴れる。山頂にいたはずの怪人の姿は、跡形もなかった。

 東雲の指が、ボタンの上で固まっていた。

 視線がリモコンに落ちる。モニターに戻る。リモコン。モニター。リモコン。

 のどかはニコニコしていた。


「はい、業務完了です。お疲れ様でした」


 デスクの横から事後処理用の書類を一枚取り出して、東雲の前に置く。


「こちらが事後報告書です。日時と現場エリア、処理区分を記入して、課長に提出してください」

「……これだけ、ですか」

「はい。こちら一枚で完了です」


 東雲の目が書類に落ちた。A4一枚で記入欄は五つしかない。

 声が少しだけ上ずったまま問いかける。


「北米では、怪人一体の処理でも報告書が三部必要です。リスクアセスメントのフォームが別途一枚、環境影響の簡易チェックシートが一枚、事後評価レポートの初稿を二十四時間以内に提出して、上長二名の署名を――」


「大変ですね」


 のどかはさらりと言った。心からそう思っている顔だった。


「課長、ハンコお願いします」

「はいよ」


 ぽむっ

 課長のハンコが押された。書類がトレーに重ねられた。

 以上。終わり。全部終わり。


 東雲は自分の手の中のリモコンを見下ろした。


「……これが、本場ジャパンの防衛」


 課長はコーヒーを飲んでいた。のどかはもう次の監視ログを開いていた。

 オフィスの空気は、何も変わっていなかった。


 ◆


 東雲が席を立ったのは、それから一時間ほど後のことだった。


「すみません、お手洗いをお借りします」

「廊下の突き当たり、右手です」


 東雲は寧に頭を下げて、オフィスを出ていった。背筋の伸びた、きれいな歩き方だった。

 静かになったオフィスで、のどかは監視ログのチェックを続けた。課長はタバコを吸いに席を外している。

 モニターは平穏を映しており、比較的穏やかに過ごせそうだ。


 五分が経った。

 十分が経った。

 のどかはふと顔を上げた。

 少し長い、とまでは思わなかった。ただ、時計の針が視界に入っただけだ。

 その時、廊下の奥から何かが聞こえた。

 くぐもった悲鳴のような、叫びのような、言葉にならない音。

 のどかの眉が、ほんの少しだけ動いた。

 やがて廊下を走る足音が聞こえてきた。かたい靴のヒールがリノリウムの床を激しく叩いている。

 バタンっ、とオフィスのドアが勢いよく開いた。

 東雲だった。髪が少し乱れており、目が見開かれている。頬がわずかに紅潮して、さっきまでの涼しげな表情はどこにもなかった。


「ちょっ、あの――聞いてくださいまし! あのトイレ、あのトイレですわ!!」


 のどかの手が思わず止まった。

 ――口調が、変わっている。


「座った瞬間にですわよ!? いきなりお湯が――熱っ! と思ったら今度は冷たいのがっ。それでボタンを押したら何かが発射されましてですわ!! あれは何ですの!? 拷問ですの!? 人権侵害ですわよあんなの!!」


 東雲はのどかのデスクの前まで来て、両手をバンッと天板に叩きつけた。

 目が本気だった。おそらくマジと読む方だ。

 息が荒く、さっきまでの落ち着いた丁寧語はどこにもなかった。芝居がかったお嬢様言葉が機関銃のように飛んでくる。


「……ウォシュレットですね」

「うぉしゅれっと!?」

「はい。温水洗浄便座です。ボタンで水圧と温度が変わるんですが、北米にはありませんでしたか」

「ありませんわよあんな暴力装置!!」

「そうですか。ちなみに、あまり大きい声を出さないほうがいいですよ」


 東雲の勢いが、ほんの一瞬だけ止まった。


「……なぜですの」

「トイレの神様がいるので」


 沈黙が落ちた。

 東雲の目が、ゆっくりと点になった。


「……は?」

「以前、騒いだ職員がいまして、一週間使用禁止になりました。姿は見たことないんですが、いることは確かなので気をつけてください」


 のどかはそれだけ言うと、視線をモニターに戻した。

 事務的に。淡々と。まるで明日の天気を伝えたくらいの温度で。

 東雲は口を半開きにしたまま、数秒間固まっていた。


「――神様」


 それから深呼吸を一つ。二つ。三つ。

 両手でスーツの襟元を整え直し、髪を撫でつけて姿勢を正す。


「……失礼しました。少し、取り乱しました」


 口調がゆっくりと戻り始めている。まだ少しぎこちないが、さっきの暴風は収まっていた。


「いえ、最初はみんな驚きますから」


 のどかは特に何も気にしていない顔で言った。東雲の口調が途中から別人になっていたことには、一切触れなかった。

 東雲は自分のデスクに戻ると、しばらく何かをぶつぶつと呟く。呼吸を整えるように、聞こえるか聞こえないかの音量で。

 のどかはそれを視界の端に入れながら、監視ログの続きをチェックした。

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