旅立ち
本社総務部は、静かだった。
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(……静かすぎる)
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人はいる。
会話もある。
でも——
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(議論が、ない)
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「この資料、明日までにまとめておいてください」
「はい」
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終わる。
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(終わるんだ……)
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誰も、「その前提は?」とは言わない。
「定義が曖昧では?」も出ない。
「ちょっと試してみますね」もない。
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(ぶつからない)
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それはきっと、いいことだ。
仕事はスムーズに進むし、空気も穏やか。
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(でも)
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私は、少しだけ物足りなさを感じていた。
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(あの“引っかかり”がない)
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昼休み。
私は一人でお弁当を食べながら、ぼんやりする。
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(あの人たち、今ごろ何してるんだろう)
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きっと、いつも通りだ。
定義で止まり、
比喩で迷い、
実装で進み、
歴史でまとめる。
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(見えなくても、想像できる)
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午後。
小さな出来事があった。
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「このデータ、少しズレてませんか?」
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同僚が言う。
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「そうですか?許容範囲だと思いますけど」
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(……あ)
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一瞬、何かが引っかかる。
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(それ、“許容範囲”って何?)
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喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
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(……いや、ここでは言わない方がいい)
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ここは、あの場所とは違う。
求められているのは、正しさよりも円滑さ。
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(でも)
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私はもう知ってしまっている。
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(“その一言”で、議論が深くなること)
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数秒迷って、
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「……どのくらいのズレを許容してますか?」
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言ってしまった。
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空気が、ほんの少しだけ止まる。
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(やっちゃった……?)
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「えっと……そうですね、経験的にこのくらいなら問題ないかなと」
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(経験的)
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私は少しだけ考える。
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(ここで終わるか、続けるか)
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ほんの一瞬、
あの会議室の光景が頭をよぎる。
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定義を詰める人。
比喩で補う人。
実装で確かめる人。
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(……少しだけなら)
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「もし簡単に確認できるなら、一回ズレの影響見てみてもいいかもしれません」
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なるべく、柔らかく。
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同僚は少し考えて、
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「……ああ、確かに。それくらいならすぐできますね」
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(あ)
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パソコンを操作する音。
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「……ほんとだ、ここで結構変わりますね」
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(動いた)
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「じゃあ少し条件見直しましょうか」
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それだけ。
本当に、それだけの小さな変化。
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でも——
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(ちょっとだけ、似てる)
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あの場所とは違う。
でも、完全に別でもない。
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夕方。
私は日報を書きながら、少しだけ笑った。
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業務内容:
・資料作成
・データ確認
・軽微な議論発生
所感:
・インテリ的思考は環境依存だが、個人にも残る
・定義を一つ確認するだけで、結果が変わる場合がある
・観察していた内容が、無意識に行動に影響している
・完全に元には戻れない
・少し楽しい
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ペンを置く。
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あの場所は、もうここにはない。
でも——
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(少しだけ、持ってきてる)
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ご飯も好きだけど。
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少し考えてから、
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私は小さく笑う。
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インテリ観察、続行中。




