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結局一晩中続いた砲撃がやんだ頃、壕の外からうっすらと曙光がさしていた。兵士たちはぞろぞろと壕から出てきて、欠伸しながら皆で並んで小便をしていた。少尉もその中に並んだ。
「なかなか派手なコンサートだったね」
少尉が言うと皆が笑った。
「被害がどんなもんか見回りに行くとするか」
当たり前のように言い、小便を終え丘を登ろうと準備していた。
「お伴します」
先ほど見かけた予備隊の口髭の准尉が進み出て少尉に並んだ。聯隊砲付きの弾着観測将校らしく、周囲の話す様子から姓が『上田』とわかった。年輩で、おそらく下から順に出世してきた叩き上げの下級士官と思われる。軍隊においてはもっとも経験豊富で頼りにされる手合いだ。私は二人の後に続いて丘を登った。私の足は周囲が明るくなってもやはり透明であった。陽が昇っても大きな変化はなかったが、少しばかり視界が明るすぎて見えにくいように思われた。
丘の上は穴ぼこだらけで人っ子一人いなかったが、斜面に作られた巧みに偽装された壕から一人の背の高い優男が出てきた。双眼鏡で付近を見回し、少尉に気付くと長靴を鳴らして挙手の敬礼をした。
「昨夜の砲撃により、負傷者一名。損害極軽微であります」
「寺田伍長。負傷者は誰か」
上田准尉が答礼しながら訊いた。
「は、初年兵であります。壕の中に入るときに足をくじいたようでして」
寺田は少々罰が悪そうに答えた。
「歩けんのか?」と、少尉。
「いえ、さほど深刻では……。どちらかというと此方のほうに問題があるようなのです」
寺田は言いながら頭を指で突いた。
「脳病か?」上田が眉間に皺を寄せた。
「は、おそらく砲弾の衝撃が原因かと思われますが……。医者に見せねば何とも」
「顔を見たい」
「ええ、こちらへ」
少尉の言葉を聞いて、寺田は壕の中へ二人を案内し、壕の中で座り込んだまま震える一人の兵隊を指差した。私はあっと声を上げそうになった。
「この者です。飯島二等兵、本事変が初陣とのことでありました」
「む、飯島ではないか。おい、飯島、しっかりせんか!」
上田が語気荒く叱咤する。飯島は聞こえていないかのように下を向いたままで、目を大きく見開き、ぶつぶつと何やら小さな声で呟いている。
「准尉殿はこいつをご存知でしたか?」
「知っておるとも。こいつは偉い奴だ。我聯隊砲にこの陣の窮地を知らせてくれたのよ。もう一人、藤田とかいう召集兵もおったかな。そいつはだいぶ年輩だったが。飯島はおれたちに丘の場所を知らせると、一人で走って戻って行ってしまったのだ。勇気のある奴だと感心したのだがね?」
「そして丘に戻る途中でおれの部隊に合流し、一緒にこの陣に来たというわけだ」
上田の説明に少尉が補足する。寺田はそれを聞いて「はあ、たった一人でこの砂漠を走ったのですか」と言った。
「足を挫いたのは昨夜か。頭はいつからこうなんだ?」
「昨日の夕方ごろ、敵の突撃を撃退した直後、お返しの一斉砲撃がありまして。ものすごい火力でした。そのときから変なのであります」
寺田が上田に説明している横で少尉が膝をつき「おい、飯島。おれがわからんのか?」と優しい声で尋ねた。
「ああ、この兵隊は第二小隊ですか。もともと少尉の?」
上田が訊くと少尉は「うん」と短く答えた。
「おい飯島、貴様、隊長の顔も忘れてしもうたのか」
上田はさらに語気を強めて問うた。
「まともに会話できんのであります。ただ、薬莢磨きだけはできるので、やらせておりますが」
寺田が説明すると、飯島はふと何かに驚いた様子で顔を上げた。
「お、隊長殿に気づいたのかな?」寺田が呑気な調子で言った。
飯島は顔を上げて少尉を見たが、何の反応も示さず次に上田を見た。次に寺田の顔を見た後、何もない壕内の壁を食い入るように見つめ始めた。
「ああ……。あああっ!」
突如、飯島はのけ反って大声をあげ、壁を指差し、獣のように叫んだ。そしてそのまま姿勢で固まり、大きく目と口を開いたままぶるぶる震えている。
寺田と上田は怪訝そうな表情で飯島が指し示す壁を見たが、当然そこには何もない。
飯島は何かが見えているように振舞っているが、何なのかはまったくわからない。私はこれは詐病ではないかと漠然と考えた。生前見た飯島は、突撃できずに半泣きで震えているような、臆病な初年兵であった。何かがおかしい。飯島の瞳の奥に演技めいた輝きを認めた。
私の覚えた違和感など知る由もない上田は「こいつは筋金入りやな。いい兵隊もこうなっちまうとな」と諦めたように頭をかいた。「こんなに取り乱したのは初めてですが」寺田もばつが悪そうだった。少尉だけは飯島の顔をじっと見つめ「こいつにできることをやらせておくのだ」と言った。
「は、かしこまりました」と、寺田は挙手の敬礼をした。
少尉らはその後壕を出て行ったのだが、私はもう少しの間飯島を観察していようと思った。誰もいないところでは何か尻尾を出すかもしれない。飯島は案の定、誰もいなくなると怯えるふりをやめ、一転欠伸をし、背伸びをしたり足を伸ばしたりしていた。その顔には緊張感がなく、詐病の疑いはますます強まった。
「おい、飯島!」
突如大きな声が響いた。飯島はびくっと体をひくつかせたのち、そのままの姿勢で固まってしまった。
「飯島、こっちを向け!」
声の主は藤田で飯島が狂ってしまったことなど、意に介す様子もなく何度もその名を呼ぶ。
飯島は耳を塞いでより頭を深く抱え込み、てこでも藤田に答えるつもりはない様子であった。しかし、その様子がかえって飯島の正気を私に確信させることになった。
「飯島よ。演技などせんで良い。貴様の気持ちはおれにはよおくわかっとる。ここには誰もおらんけ、よく顔を見してみい」
藤田は一転優しい声を出して説得を試みた。飯島はしばらく考えている様子であった。そして、意を決したように恐る恐る上を向いた。藤田と目が合うと再び大きく目を見開いた。
「おれよ。丘の下で一緒に助けを呼び行った仲やろが」
飯島は黙っていた。そしてきょろきょろとし、周囲にほかに人がいないかどうかを気にしていた。壕の中にほかに兵はいなかった。皆、砲撃後の陣地の片付け作業と、付近の警戒に駆り出されている。手すきの者など、他に一人もいないのだ。
「誰もおらん」
藤田は安心させるように優しく言った後しばらく待っていた。飯島はたどたどしい調子ではあるが、ゆっくりと話し始めた。
「上等兵殿、昨日の防衛線で戦死されたとばかり」
「馬鹿野郎。勝手に殺すな」
藤田は悪態をつきながら飯島の隣で胡坐をかいた。飯島は内に籠るように再び下を向いた。
「貴様の気持ちはわかっちょる。そのままそれをやっちょれ」
「なぜです?」
飯島は下を向いたままぼそぼそと尋ねた。
「こんな戦で死んだら浮かばれんわい。最初から火力が違いすぎる。負けるとわかっちょったような戦やで。こんなんで駆り出された貴様ら初年兵は可哀想や」
藤田の言葉は軍への批判ともとれる言葉であった。
「最初はちょっと脳震盪でもおこしたふりでもして、横になっていただけだったのです。でも、皆さんがあまりにも心配してくださって、戦闘中にもかかわらず壕の中に戻って休ませてもらえたものですから……」
「貴様のおかげで聯隊砲も篠原隊もここに駆けつけることができたんやけ、自慢してええよ。ちょっと休んどれ。そんなに長くはもたんけ」
藤田に責める様子はまったくない。
「この戦いはどうなってしまうのですか? ソ聯の奴ら、まるで化け物です。我軍は本当に勝てるのですか?」
そこまで話すと壕の中に誰かが戻ってきた。飯島はその気配を察知すると黙りこくってしまった。
「上等兵殿、この壕は本当に頑丈にできておりますね」
それは丸眼鏡をかけた恐らくは初年兵で、にきびの残るあどけない顔であった。声の調子はとても明るく、状況を忘れさせるほどだ。藤田は咄嗟に飯島を介抱するふりを続けていたが、振り向いて答えた。
「ソ聯の奴らがこの丘の固い地盤に目をつけて掘ったんやろう。短期間でこんな壕を作っちまうなんて、とんでもねえ奴らやのう」
「ですが、露兵は弱兵揃いであります。みんなわあわあ泣きながら突撃してくるし、すぐに投降しようとするではありませんか」
若者の様子は実に親しげだ。初年兵と上等兵がこんな風に気安く会話するなど通常あり得ない光景だ。今日生きられるかどうかもわからない戦場では、普段とは違う営みがあるのかもしれない。或いは、常備兵とは異なる藤田の穏やかな雰囲気がそうさせるのかもしれなかった。
「村木よ、あれはコミッサールとかいう連中がやらせておるんや」
村木と呼ばれた初年兵は飯島の傍に歩いてきて膝をついた。
「コミッサール、でありますか?」
「敵の司令官はどうもとんでもなく非情な男らしいな。兵隊に軽機を突き付けて、無理やり突撃させとるらしいわ。手榴弾投げずに逃げ帰ってくる兵隊は銃殺しとるらしいで。敵もそれぐらいの覚悟でやっとるっちゅうことやな……おい飯島、これ食えや」
藤田は飯島にビスケットを渡した。それは昨晩敵兵から奪った残りであった。飯島はそれを力なく受け取り、口にすべきか迷っている。
「そんな、その軽機で一緒に攻撃に参加するべきではないですか?」
そんな飯島の様子に露ほども気が付かず、村木が大きな声をあげた。純粋な瞳が丸眼鏡の奥で見開かれていた。
飯島はビスケットをひとくちで口の中に入れ、もぐもぐと長い時間をかけて咀嚼した。
「露助が弱兵っちゅうんは、村木、貴様の勘違いやぞ。奴らは無茶苦茶やっとるようで、着実に目標を達成しつつあるわけやしな」
村木は口をあんぐりと開けて藤田の後姿を見ていた。
「上等兵殿は我軍の勝利を疑っておられるのでありますか?」
藤田は少しの間黙って飯島を見ていた。そして答えた。
「おれらの有様を冷静に考えてみぃ。中隊長も大隊長も聯隊長も行方不明。中隊長代理の笹山中尉もくたばりかかっとる。向こうで死ぬに死ねずにうんうんと唸っとるやろ。実質の最高司令官はまだ士官学校を出て二年目の経験の浅い篠原少尉だけ。戦闘可能なんはたったの三十七名。将校は瀕死の中尉を入れても三人だけ。どん詰まりやないかい」
「それは、確かに。しかし、それは敗北主義であります!」
村木はわなわなと震えていた。
「おれのような歳食った召集兵はええよ。でも、村木よ、おまえや飯島みたいな若いのがな、御国の為やっちゅうて身を散らすんが不憫でならんのよ」
藤田はそう言うとため息をついて黙りこくった。
「上等兵殿は……この状況下でそのような世迷言を? 私も帝国軍人であります。国を出て以来、いつでも死花を咲かす覚悟はできておるのです!」
村木は「失礼致します!」と敬礼して踵を返した。藤田はそれを見送ってため息をつき「あの純粋さが、とても見ておれんのや」と呟いた。
その後、藤田は飯島の様子をしばらく見た後、壕の奥の暗がりに向かって歩いて行った。そこは天井が低くなっていて、ごつごつとした岩肌が剥き出しになっていた。ひんやりとして静かだった。藤田は足元で寝転がって呻く人影の傍らで膝をついた。
私は息を呑んだ。先ほどの会話の通りで人影は笹山中尉だったが、まだ中尉が生きているのに驚いたわけではなかった。笹山中尉の体には、三人の痩せこけた露兵がしがみつき、その体に爪を立て、中尉の耳元で何やら呪詛の如き不気味な言葉を囁いているのだ。あのとき笹山に斬られた少年兵たちに相違ない。
笹山は亡霊に取り憑かれていることを知ってか知らずか、閉眼したまま汗をかき苦しげにううん、ううん、と繰り返すのみだった。顔は恐怖と困惑に歪み、まるで悪夢に魘される大きな子供のようであった。私は我身も亡霊でありながら、そのあまりに深い業の行く末に戦慄した。藤田は亡霊の気配に気付かず、心配そうな顔をして笹山の額の汗を拭った。まるで看護兵のようであった。辛抱強く笹山に声をかけ、水を飲ませようとしていた。
「中尉殿、水です。お飲みください」
藤田はあの時、笹山に顔面を殴られたことを少しも気にしていない様子だ。軍隊においては上官の叱責と殴打は特に気にするようなものでもなかったかもしれない。私は、二人を見ながら早くも生前の記憶がうすぼんやりとしてきたことを考えていた。
笹山に取り憑いた三体の亡霊は、飽くことなく体を引っ掻き、撫で回し、呪いの言葉を吐き続けている。しかし、他にはこれといって何もできないように見える。果たして笹山も亡霊の呪いに本当に苦しんでいるのか……。単に腹の傷が化膿したことによる発熱で喘いでいるだけなのかもしれなかった。私はその無為な光景を黙って見ていた。そしてふと、笹山が目を開いたら、ひょっとすると私を認識できるかもしれないことを考えた。笹山は生死の境を彷徨っているのだから、荒野で見た先刻の兵のように私を見ることができるかもしれない。しかし、それは考えても仕方のないことであった。




