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藤田はその後も笹山の看病を続けていた。私は踵を返して飯島のところへ戻り、目の前で手を挙げてこちらを見るようにと促してみた。その瞳は不安と罪悪感に満ちていた。私の姿はまったく見えない様子だ。頭を抱えて地べたに座り込んだまま、ぶるぶると震えるのみであった。私はそれ以上何もせず、壕を出てみることにした。
まだら模様の雲の隙間から、朝日が先刻より強く差し込んでいた。篠原少尉を探した。少尉は陣地の一番頂上の緩やかな斜面に座って双眼鏡を眺めていた。傍らには上田准尉と直属の部下と思われる砲科の兵が二名ほど控え、なにごとか会話を交わしていた。私は記憶を辿り、あの時露兵より奪取した重機関銃がどうなったか気になったので辺りをうろついて探した。かつて簡易的な壕の影で偽装され、巧妙に配置されていた機銃は、別の場所に移されていた。鹵獲重機と、我軍の軽機は新たに作られた簡易的なトーチカに偽装されて配置されていた。鹵獲重機は斜面の割合、下の方に配置されていて、そこには寺田伍長をはじめとした数名の兵がいた。軽機は逆に頂上に近い見渡しの良い場所に配置されていた。軽機の特性上、持ち運びが比較的に容易なので、これを機動的に使用し、他陣地や重機を支援する役割が与えられていると思われる。あのとき、重機を修理していた山口の姿はどこにもない。
斜面の下の方では若い兵たちがたった一門残った速射砲を引き上げようとしている。これを見晴らしの良い斜面へ配置して偽装し、敵戦車の襲来に備えようというのだろう。こうして見ると、たった三十七名の敗残部隊にしては無駄なく効率的に陣地構築されている。その手腕は篠原少尉の指導力と、おそらくは経験豊富な上田准尉の辣腕によるものと思われた。
兵たちは暇さえあれば円匙をふるって穴を掘ったり、石をより分けたりして、自分一人がすっぽりと入り込めるようなタコツボ壕を作っていた。皆汗だくで作業している。表情に余裕はない。もう日は高い。いつ敵の襲来があってもおかしくはない、いつ砲撃が再開されてもおかしくない状況なのだ。皆必死だったに違いない。私は亡霊となった今、この日ソの死闘を傍観者として単に眺めることができた。脳病を装う飯島や傷を負った笹山を除けば、私一人だけは重労働に従事せずとも良いのだし、他人事のようなぼんやりとした気持ちでただ立っていた。
飲まず食わずの不眠不休で、皆が作業に従事する中、唐突に空を裂くようなヒューンという音が聞こえた。次の瞬間には、丘の西の麓や斜面を中心に重砲弾が炸裂した。それを合図に皆が作業を中断して手近な壕の中に逃げ込んだ。そこからは一方的な砲撃が機械的に続けられた。激震と轟音もいつしか聞き慣れてしまった。私は昨夜自分が恐れおののいた砲撃にもう慣れてしまったのに気がついた。壕の中は兵たちがひしめいて蒸し風呂のように暑い。私は同じ壕の中にいる篠原少尉の傍に控えた。
砲撃は三十分ほど続いただろうか。少しずつ砲撃と砲撃の間隔が長くなってきた。それは本当に少しずつだった。やがて、砲撃が完全に途切れ不気味な静寂が訪れたとき、即座に篠原少尉は双眼鏡を手に取って壕から顔だけ出し、双眼鏡で西の大地を眺めやった。噴煙で視界は遮られている。砲煙の奥から微かに鬨の声が聞こえた。露兵が吶喊時に叫ぶウラーという独特な叫び声と、キュルキュルという戦車のキャタピラが大地を踏みしだいて進む音であった。
「来るぞ! 各自計画通りに反撃に移れ」
少尉が喉に動脈を浮き上がらせて叫んだ。壕で身を伏せていた兵たちは、それぞれが顔を出して銃を構え、配置についた。各員の目には闘志が漲っていた。少なくとも私にはそう見えた。
煙の奥から最初に姿を現したのは戦車だった。いまや見慣れたベーテー戦車だ。続いて多くの長外套を着た露兵があとから続いて来る。待ちきれぬと戦車を追い抜いて我先にと走り寄る露兵が見える。手榴弾を投擲するつもりに違いない。速射砲が火を噴いた。准尉の指揮であろう。弾は先陣を切る戦車に正確に命中し、一瞬にして炎上、擱座させた。擲弾筒と斜面に据えられた重機関銃も攻撃を開始した。ソ聯軍はあっけなくなぎ倒されて行く。速射砲も戦車に対して百発百中、おもしろいように命中する。その貫通力と攻撃速度、兵員のよく訓練された腕前たるや、まさに神業と思えた。戦車は自らは一発も放つことなく、次々と炎上して行く。露兵は戦車から燻りだされて照準の的となり、どんどんと機関銃の餌食となった。ここまではいつも通り。圧倒的だ。速射砲がなければどうにもならぬが、速射砲があるうちは戦車も恐るるに足らぬという訳。残弾はいかほどであろうか? 弾が尽きれば一転窮地に陥るであろう。
我軍の狙撃兵や機銃隊による射撃の腕も素晴らしかった。露兵は大抵近づくことさえできぬうちに足や腹を撃たれて地面に這いつくばった。しかし、敵も果敢なもので、中には銃弾をかい潜って手榴弾を陣地に向けて投擲する者、撃たれながらも匍匐して我が方に忍び寄り、不意に起き上がって手榴弾を投げそのまま昏倒する者などあり、危険がないではない。しかし、数々の砲撃に耐え、よく構築された掩蔽壕にこもっての防衛戦にて、我方の被害は甚だ少ない模様。戦車はすべて炎上。敵の攻撃は頓挫したとの由。皆で万歳を叫ぶ。
戦跡に残されたのは足を撃たれ、腹を撃たれた露兵たちだ。皆で地面にうずくまって苦しげに呻いている。大声で泣き叫ぶは露兵の特徴であった。野太い声色で人目もはばからずに大きな声を上げて泣く。老兵も少年兵も若年兵も、そこに区別はなかった。これは我日本男子とははっきり異なる部分といえよう。我らはあんな風に泣くことはない。露兵らはその場でもじもじと苦しげにのたうち回り、いかにも哀れに泣き続けている。
「そのままにしておけ。逃げようとする者だけを狙撃せよ」
篠原少尉が命じる。兵たちは、四つん這いで敵陣に逃げようとする露兵だけを狙って背中を撃った。弾が当たるたびに兵たちは大声で嗤っている。まるで射的だ。あたかも賑やかな祝祭。こうなると戦争もおもしろい。私も自分が撃てぬ身を歯痒く思う。
少尉はきっと、助けに来た者をついでに撃ってやろうと考えているのだ。狙いは敵の看護兵に違いない。瀕死の露兵はそのまま苦しむに任せ、泣き声は昼過ぎまでずっと続いていた。その哀れな様子に、我ら兵たちもいつしか嗤うこともやめ、気分を悪くして黙り込む者あり、耳を塞いで聞かないように努力する者あり、三者三様の様子。傷を負った露兵たちは四〇度に達する炎天下に皮膚を焼かれ、緩慢に死んで行く。今更とどめを刺すのも憚られた。彼処で死に損なっておる露兵どもが綺麗に片付いたら、また砲撃が始まるに決まっておるのだから。皆そのことを知っていた。少尉も同様だ。しかるに、皆「憐れにナー」と思いながらも、露兵にとどめを刺そうという者もおらず、結局そのまま渇きか化膿によるかは知らないが、いつしか泣き声は潰えてしまい、皆死んだと思われた。
戦闘が小康になると、皆が残り少ない食糧と水を口にした。昼飯は昨夜のビスケットが半枚だけ。水は一口以上は飲むなと禁じられた。隊長命令だ。不満を言う間も無く敵の砲撃が再開された。ドシーンドシーンという衝撃に耐えていると、再び露兵が大挙して押し寄せて来て、手榴弾を遥か遠くから投げては、すぐさま急いで後戻りし、逃げ散ってしまう。時々肩の良い者が陣まで届くほど遠くに放るが、殆ど我方に届かず手前に着弾して砂塵を巻き上げるのみに終わった。機関銃隊は抜け目なくその砂塵の奥を見据えていたが、敵がそれより前に出てくることは殆どなかった。出て来る者があれば即座に撃たれた。手榴弾を投げ尽くしてしまうと露兵は綺麗さっぱり鳴りを潜め、敵の陣の方角からは機関銃のけたたましい音が聞こえた。あれが噂のコミッサールであろうか。情けも容赦もない。血も涙もない有様は我軍顔負けだが、敵の戦い方は効率的とはいえず、我方に損害は殆ど無い。
再び砲撃が再開されたが、壕はびくともしない。兵たちの中には連夜からの戦闘に疲れ切り、コンサートの最中ながら居眠りする者もいた。数名が歩哨に壕から顔を出し、敵の動きを見ているが、夕方まで散発的な砲撃を別にすれば目立った動きもなかった。
准尉が速射砲を据えた掩蔽壕から顔を出し、篠原少尉らが待機する司令部のある壕へ降りて来た。ソ聯軍が掘ったあの頑丈な壕だ。
「少尉、これはまずいことになりました」
准尉は敬礼もそこそこに頭をかきながら言った。
「どうした?」
「もう弾が……あと一分も撃てば無くなりますな」
少尉は冷静な顔であったが、周囲の部下はそうはいかない。皆が顔を見合わせ、隊長の顔を祈るような眼差しで見た。
「率直に言って、今度戦車が来たら、持ち堪えられるか自信がありません。兵らに肉薄攻撃の準備をさせます」
「サイダー瓶がまだあるのか?」
「いやあ、それも心許ないですな。あとは手榴弾か。機関銃でどこか薄いところがぶち抜けるかどうか。運が良ければ或いはそういうことも。いずれにしてもまた円匙の出番でしょう」
篠原少尉は腕を組んだまま目を瞑り、静かに頷いた。
「もう一つ問題が」
准尉がついでとばかりに言う。
「わかっている。水と食糧だろ?」
「どんなに食いつないでも、明日はもう戦えません。援護もなく補給も来ない以上、聯隊は既に存在しない。我らは孤立していると考えるべきです」
准尉の言葉は壕内に冷徹に響いた。兵らは皆下を向いていた。私は飯島の傍にいた。飯島も下を向いたまま震えている。
「敵も苦しいはずだ。そして焦っている。増援が到着し次第前線に送っているのだ。だからまとまりがない。輜重さえ届けば各個撃破できる。この陣地は頑強だ。まだまだ戦えるのだ……」
少尉の言葉は正論だが、現実を十分呑み込んでいるとはいえない。誰も少尉の言葉に応えず、黙って下を向いていた。准尉は挙手の敬礼をした。
「最期の時をいかに振る舞うか。それを少尉殿にお決め頂きたいのです。そう遠くはありません。――失礼致します」




