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 しばらく走り、振り返って黒い影が追いかけてこないと確認すると歩を緩めた。私の虚ろな肉体は、生前と同じく長く走ると疲労を感じるようであった。息が苦しいと感じたし、夜の冷え切った空気をたくさん吸い込んで、肺のあたりに痛みさえ感じた。感覚が生前の記憶に基づいているのではないかと推測できた。いずれにせよ、霊魂であるこの体も走るとそれなりに疲れる、ずっと走ってはいられないのだとよく理解できた。走ったせいか、彼方に見えた赤い空はどんどん近づいているようであった。将軍廟の近くにまで敵が迫っているのかもしれない。はやる気持ちを抑えて先へ進んだ。


 十五分ほど歩いたであろうか。ふと目の前の空に花火の如く照明弾が打ち上げられ、昼間のように明るく付近を照らした。私の闇を見通す目にはその輝きがあまりに強く感じられ、しばし目を開けていられず両手で顔を覆い、そのまま再び闇が広がるまでの時間を耐えた。不意に、かなりの至近で狂女が泣き叫ぶような聴きなれた機関銃の発射音が断続的に響き渡った。そして、ワインコルクを抜いた時のようなポンという乾いた音がいくつも後に続いた。次の瞬間には恐ろしい激震と爆音が響き、続いてキュルキュルと音を立てて戦車が何輌も近づいてきた。その中にものすごい勢いで炎を吐き出す巨大な戦車がいて、あっという間に付近は火焔の海となった。戦車の群れは私の眼前を悠然と通り過ぎて行き、そのあとを露兵の集団が頭を低くして進んできた。何やらロシア語で指揮を飛ばす軍帽をかぶった指揮官風の男がいて、短機関銃を持って何人も部下を従えていた。私は窪地で身を伏せて見ていたが、露兵らは気がつかなかったのか、そもそも霊であるこの体が見えないのか。眼前を素通りして行った。照明弾が明るさを失い、火焔戦車の吐いた炎の波が徐々に収束して行くと、辺りは再び真っ黒な空に覆われ、見えるものも見えなくなってきた。私の特殊な目は、浸透してくる闇に迅速に順応した。このソ聯軍部隊の向かう先に友軍がいるはずだ。ついて行こうと決め、その後に続いた。


 完全に照明弾の灯りが消え、火焔が焼くべきものを焼き尽くして下火となると、不意に闇の奥から雷鳴の如き砲声が轟いた。一輌の戦車が直撃弾を受け炎上した。謎の砲撃はその後も続き、敵戦車は次々と装甲を撃ち抜かれて撃破されて行く。

 私は恐慌状態に陥った露兵部隊に、音もなく近づく集団を認めた。十五人ほどの我軍による夜襲斬り込みで、指揮官らしき男が軍刀を振りかざす背後に、銃剣や円匙を構えた鉄兜の兵士たちが続き、あっという間に戦車に飛び乗ると、円匙で機銃の銃身や砲塔を叩き始めた。火焔戦車には三名の兵士が張り付き、履帯に爆薬を仕掛けて擱座させた。火焔戦車は味方を傷つけるのを恐れたのか、はたまた故障したのか、沈黙したまま動かない。火焔瓶が無数に投擲され、爆発炎上する戦車も一輌や二輌ではなかった。

 露兵らは指揮系統を早々に失い、わあわあと叫びながら自己判断でそれぞれで銃を撃ちはじめた。日本兵たちは飛びついた戦車の背後に隠れて手榴弾を投げたり、敵陣を走り回って銃剣で背後から露兵を突いたりして、少しもじっとすることなく走り回っていた。そうなると露兵は日本兵を撃とうにも同士討ちを恐れ、照準を合わせられないでいる。我軍の指揮官風の男はその隙をついて奥深くへ浸透し、軍刀で敵将校を一刀のもとに斬り捌いた。その後を銃剣や円匙を持った兵士たちが殴り込んで、敵兵を刺す、斬る、殴るの修羅場となり、地面は紅く染まり、血の海はみるみる砂に吸い込まれていった。


 戦意を喪った露兵はまるで子供のように泣き喚き、武器を放り投げて四つ這い姿勢のままで逃げようとしたが、一人残らず狙撃されるか円匙を持った兵士に殴り殺されるか、或いは銃剣で喉を切り裂かれて絶命した。

 擱座した化学戦車は、どういう不具合なのかもはや火焔を吐き出すのは不可能な様子であった。我軍の兵士たちは戦車を寄ってたかって取り囲み、蓋を円匙で何度も叩き「ルキヴェールク!(手を挙げろ!)」「ダヴァイダヴァイ!(はやくはやく!)」などとはやし立て、大笑いしている。しまいには蓋がこじ開けられ、中から装甲兵三名が文字通り襟首を掴まれて引きずり出され、武器を没収された上で砂地に並んで座らされた。装甲兵らは泣いて逃げ回っていた雑兵とは異なり、手を挙げて降伏の意志を示していたものの憮然とした表情を崩さず、落ち着いた様子だった。我軍の将校が没収された拳銃を他兵士から受け取って安全装置を外し、ためらうこともなく装甲兵の一人の後頭部を撃った。我軍の兵士たちはそれを見てどっと笑い、手を叩いた。即死した仲間を見て、残る二人の装甲兵は一転して落ち着きをなくし、見るも哀れなほどにがたがたと震えながら「タスケテクダサイ」と日本語で何度も唱え、命乞いをしたが無駄だった。一斉に兵士たちが二人に襲いかかって銃剣で腹を突いたり、円匙で足や腕を殴って骨折させたりして緩慢に殺戮し、見ている兵士たちは敵の屍から調達した水やパンを飲み食いしながら「やれやれ、やっちまえ!」などと嗤い、狂ったように叫んでいる。私は震え上がってその始終を見ていたが、兵らの怒りと暴力性の所以は、思えば憎きソ聯軍の戦車や砲撃なのであって、数多の戦友を殺され自らも命の危険を冒しながら戦い、なおも戦い続けねばならぬのに、敵を生かして連れ歩く道理などあるはずがないのだ。戦いの源は敵に対する憎悪なのであり、綺麗言の通じない世界だ。霊となって初めてそれを認識した思いであった。


 私は、その十五名ほどの一個小隊とさえいえぬような、小規模の戦闘集団を唖然として見ていた。隊長と思われる軍刀を佩した男はてきぱきと指示を出し、部下たちは露兵の屍から物資の残骸をかき集めている。仮死を装う露人が見つかると、その場で片端から殺された。露兵らは皆例外なく野太い声で泣き叫んでいた。敗残兵は惨めなものだと思った。

 この若き隊長に見覚えがある気がしたのでじっと見ていた。ふとした瞬間に、鉄兜と略帽を脱ぎ、流れる汗を前腕で拭った。その顔を見て思わず声をあげた。篠原少尉その人だったのだ。まさか、無事だったとは。


 私の虚ろな体はいよいよ人じみてきて、興奮のあまり体は震え、目からは涙が溢れ、嗚咽が漏れ出た。ただ、私が泣いているのを知覚できるのはこの曖昧な意識の産物たる霊魂だけなのだが。

 少尉の精悍な顔は、この短期間の激戦の間にますます成長したように思われる。齢二四という私と大差ない年齢ながら、斯くの如き不毛なる戦場で残存兵を纏め上げ、圧倒的な火力を誇るソ聯軍と死闘を繰り広げているのだ。少尉への敬愛の念は、死んでますます昂まるばかりであった。

 私は思い余って少尉の前に駆けつけ、従卒の有田であります。少尉殿、ご無事で何よりでありますと挙手の敬礼をした。しかし、少尉は私の存在に何ら気づかぬ様子でぷいと後ろを向いてしまった。いたたまれない気持ちで少尉の後姿を成す術もなく見ていた。やはり、私は死んだのであり、このぼやけた肉体を正視できる者はいないのだ。小林が私を認識できたのは、おそらく彼もまた半ば以上此方側の世界へ足を踏み入れていたからであろう。さればこそ、小林と会話さえ可能だったのだ。

 寂しい気持ちで少尉の後ろをついて歩いた。かけるべき言葉さえもはやなかったが、気分は高揚し、希望を感じていた。篠原少尉がまだ生きて戦っているならこの戦はまだわからぬぞ、と思った。先ほどの篠原隊の壮烈な戦いぶりを見るにつけ、死んだ身でありながら未だこの戦の結末を見届けたいと感じた。


 改めて数えると篠原隊の兵士たちは全部で十六名で、この戦いによって死傷した者はなんと一名もなく、まさしく圧倒的な勝利と言えた。兵士たちは油断なく周囲を見渡し、敵兵の物資を持てるだけ持つと、持って行けない分は燃え盛る戦車の中に放り込んで焼却した。作業を終えると兵士たちは声を掛け合うでもなくお互いに頷きあい、音もなく闇の奥へと戻って行った。安息に満ちた我が家に帰るみたいに。

 今度こそ見失うまいと少尉のすぐ背後について進んだ。兵士たちは先ほどの大勝利に浮かれるでもなく、まったく口をきくでもなく、黙々と荒野を進んだ。闇の先には十名ほどの兵士たちが待っていて、篠原少尉の姿を認めると、先頭に立つ年輩の男が挙手の敬礼をした。

「ご無事で何よりです。奇襲は成功ですな」

 男は痩せていて、口髭を蓄えていた。階級は准尉だった。

「貴官の速射砲のおかげだ。感謝する」

 准尉はどうやら速射砲を持つ砲兵分隊の指揮官のようだ。軽機を持つ兵も混ざっていて、予備隊としての性質も併せ持つのだろう。既に潰滅した諸部隊や聯隊砲の寄せ集めと思われる。

「陣地に戻りますか?」准尉が尋ねた。

「恐らく夜明けまで敵の逆襲はないとは思うが、もう少し付近を偵察してから帰ろう。速射砲と軽機は丘に戻して、付近を警戒していてくれ」

 少尉はそう言うと露兵から奪った水や糧秣を予備隊へ渡した。

「少尉殿もお疲れでは? 誰かと代わらせましょう」

「いや、後悔はしたくないのだ」

 少尉は自らも含め五名選び出した。偵察に向かうらしい。私もついて行こうと思った。


 予備隊が所有するのは、九四式三七粍砲がわずか一門であった。それに軽機を担ぐ者と、擲弾筒を持つ目つきの鋭い兵士がいて、この男は身は小柄だがまるで将校の如くに威風堂々としており、兵卒であろうに刀を持ち、周囲もそれを認めているようであった。この男は頼まれたわけでもあるまいに無言で少尉の偵察班に加わった。最初からそう決まっているとでも言いたげな顔だ。

 こうして偵察班は六名となり、予備隊とわかれると身を屈め、窪地から窪地へと素早く移動して行く。少尉自らが選抜した精鋭だけあり、身のこなしは舌を巻くほど俊敏で、ついて行くのがやっとだ。付近を半里ほど巡回すると漸く窪地の中に身を潜め、誰が言うでもなく水を飲み、露兵から奪ったビスケットを口にした。

「美味いな」少尉が言った。

「塩がきいていますね」

 兵士の一人が応えるが、それ以上は誰も何も言わなかった。わずかなビスケットを少しずつ齧り、水筒の水を舐めるようにして口の中を湿らせていた。そのわびしい食事が人生で最後になるかもしれないのだ。

 食べ飲みするのを見ていると、喉の渇きと空腹感をますます強く感じた。自分はそのわびしい食事さえ味わえないのだ。孤独と寂寥感が胸を突き上げてくる。そのようなセンチメンタリズムは、生前よりも更に強くなっているようであった。私は既に死人であり、御国の為にご奉公したくても、もはや何もできない。働かざるもの食うべからず。食べられないのは仕方がないのだ、と自分に言い聞かせた。

「静かだな」

 少尉が双眼鏡を眺め、呟いた。そして目を瞑って耳を澄ませ、しばらくそのままじっとしていた。

「長い一日でした」

 先程の刀を持った兵が少尉に声を掛けた。

「いや、まだ終わらん気がする。よし皆、陣に戻るぞ」

 少尉が命令すると、兵士たちは急いで荷物をまとめはじめた。


 歩む先に背の低い丘があった。ぼんやりと闇に浮かぶ姿に見覚えがあった。まるで餅が焼かれてふっくらと膨らんだかのような……。紛れもなくかつて死闘が繰り広げられたあの丘だった。ついにここへ戻って来たわけだ。気持ちがはやり、一刻も早く丘を駆け登りたい衝動に駆られた。兵士たちは歩みを止めてその場に身を伏せ、注意深く周囲の様子を伺っていた。何やら穏やかでない雰囲気に、私も闇に目を凝らした。すると、我々から見て左手から、右手の丘に向かって歩いてくる集団が見える。長外套を着ているのがわかった。露兵だ。数は四〇名は下らないと思われる。一個小隊規模。装甲車や戦車は引き連れておらず、歩兵のみで用心深く散兵し、じわじわと丘へ接近しているように見える。夜間襲撃か、それともこの付近に散兵壕を掘って、明日の朝の総攻撃に備えるのか。どのみち敵の反攻は近そうだった。

「あの位置なら、丘の上の本隊に知らせれば瞬時に殲滅できるのだが……連絡の手段がない。さて、どうするか」

 少尉が双眼鏡を見たまま誰に言うでもなく呟いた。兵士たちは固唾を飲んで隊長の判断を待った。誰も口を挿もうとしないが、銃を持つ手を誰もが固く握りしめていた。

「よし、我らで夜襲をかける」

 少尉はあっさりとそう言った。

「陣内上等兵が擲弾筒を撃つのを合図に一斉射撃し、その後至近距離まで近づく。陣内はそのまま砲撃を続けよ。振動と音であそこに敵がいると示し、本隊より援護を待つ。あとは戦況により追って指示を出す。質問は?」

 兵士たちは無言のまま首を振った。陣内と呼ばれた先ほどの小柄な兵士は、膝立ちになって擲弾筒を地面に置き「距離約七〇メートル。榴弾を使用します」と言った。

「君にかかってるぞ」と少尉が声を掛けると陣内は黙って頷いた。

 誰かがごくりと唾を飲み込む音がした。たった六名で一個小隊へ夜襲をかけるなんて。もし丘の上にいるという本隊が、迅速に援護してくれなかった場合は全滅の危険もある。いや、危険すぎる。勝算はあるのか?

「砲撃準備……撃て!」

 少尉の合図とともにポン、と小気味良い音が鳴った。次の瞬間には耳をつんざくような爆音と激震が夜空に響いた。直後、兵士たちは自らの銃で敵部隊へ向かって一斉射撃し、その後少尉を先頭に身を低くして敵の目と鼻の先まで近づいて行った。ポン、と再び音が鳴り、敵陣で大爆発が起こり、鉄の破片と炎をばら撒いた。露兵たちは奇襲を受け、闇の中で大混乱に陥っていた。撃つべき敵も見当たらず、憐れな声で泣き叫び、膝をついておろおろとする者もいた。そのうちに丘の上から機関銃のけたたましい発射音が聞こえてきて、ただでさえ混乱した敵部隊を捕捉した。擲弾筒による砲撃と機銃掃射によって敵はたまらず逃げ出し、その後姿を少尉や他の兵士たちが狙撃した。鮮やかな奇襲と言えた。

「首尾よく行きましたね」

 兵士の一人が言ったが、「いや、何名かは逃した。皆殺しにせねばならなかったが……急いで本陣に戻るのだ、走るぞ!」少尉は言うが早いか、踵を返して走り始めた。兵士たちも慌ててその後を追った。私も急いでついて行った。しばらく走るうちに陣内も走りこんできて皆と合流し、一緒に全速力で丘へ走った。丘の根元の屍の山は、前に見た時よりも更に惨たらしく、汚らしく腐っていた。少尉ら六名は、丘の東側の麓に潜り込み、その付近に掘られた小さな壕の中へ潜り込んだ。

 

 皆が入り終わるかどうかという頃合いで、西の空から雷鳴が響いたかと思うと、凄まじい重砲撃が丘の上や西の麓、さっきまで我々が潜んでいた場所やその周辺に降り注ぎ、この世の終わりのような爆音に耳が千切れ飛んでしまいそうだった。逃げ帰った露兵が、後方で布陣する砲兵隊に我々の位置を知らせたのだろう。信じがたいほど正確な夜間砲撃であった。砲撃はそのまま一時間以上続いていた。恐らく数百発の重砲弾、榴弾、迫撃砲弾が降り注いだに違いなかった。壕の外の人間が生き残れるなんて想像もできない。この壕とて直撃を受ければ一瞬で全滅だろう。

 自分が既に死んでいることも忘れてがたがたと震え、ソ聯軍の砲撃がおさまるのを耳を塞いで待っていた。少尉は壕の壁に背中を持たれさせ、軍刀を脇に抱え眼を瞑っていた。他の兵士たちは鉄兜を深くかぶり、ただ時が過ぎるのを待っていた。死人の私でさえ怯えているのに自分に弾が当たるなんて欠片も思わないのだろうか。兵士たちは静かに落ち着いて座っている。私は刹那自分の身を恥じたが、この状況でも怯えない者たちこそ一種の狂気に囚われているのであって、自分の反応は正常だろうとも思っていた。最前線で命をやり取りする兵士たちは、後方で戦争や死から離れた者たちとは違う存在なのだ。私は直撃の恐怖に耐えながら、そんなことを延々と考えていた。

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