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夜が深まるとますます温度が下がってきた。体は大気の冷たさを正確に受け止めている。空気は澄んでいた。満点の星空の下、寂しい草地が延々と続く荒野を歩いた。彼方にうっすらと見える赤い火が、暗い夜空に黒い煙の束を映し出していた。赤い火は、その付近で戦闘が行われていることを意味するはずであった。生きている間は怖くて仕方がなかった戦闘も、今は生きてそこで戦う誰かに会える、唯一残された可能性であった。いつしか灯りに誘われる夏の羽虫のように、迷わず砲声の根元に広がる赤く暗い戦場を目指していた。
草地が途切れ、再びごつごつとした砂礫が地面に混ざりはじめた。砂地と貧相な草原が交互に混ざりあっている。透明の足が砂地にずぼりと沈み込むのを感じる。
砂地の彼方此方に朽ち果てた屍が散らばっていた。また、ばら撒かれた鉄の破片や炎上して黒焦げになったソ聯軍の装甲車や戦車も無数にあった。小銃や円匙が乱雑に散らばり、熱で折れ曲がった小銃がまるで墓標のように大地に深く突き刺さっていた。墓地のように静かだった。たくさんの屍が転がっていた。生きている者はいなかった。生命の痕跡はとっくの昔に失われ、そのまま何百年も経過した別の惑星のようだった。何か時間の流れを超越したような荘厳な空気さえ漂っていた。
歩いていると言い様のない不安に苛まれた。もしや自分が死して既にかなりの時間が経過しているのではないか。浦島太郎のお伽話のように、時間の流れがおかしくなっているなんてことはあるまいな、と危惧した。先刻死を看取った小林の笑顔を思い出し、不安を振り払おうと試みた。そして、雑然とした戦跡を進んだ。
ふと闇の奥に何かの気配を感じて歩みを止めた。しくしくと泣く声が聞こえる。とある屍に覆いかぶさるように、我軍の軍服を着た男が地面に這いつくばっていた。すぐ下の屍は黒焦げで四肢がひん曲がり、眼窩は黒くおぞましい空洞と化していた。蠅がたかり、肉の表面には蛆が蠢いていた。私はその男の顔をしかと見ようと身を屈めたが、男は顔を見せようとはしない。手で顔を覆い、ただ喉を鳴らして泣いているのだ。
――大の男がこんなところで何を泣いておるのだ?
堪らず男に言葉をかけた。
男は答えずただ泣くのみだ。この捨て置かれた黒焦げの屍から遊離した霊魂ではないかと思った。死んだのが悔しくて堪らず、化けて出たのか。とすればこいつは自分と同類といえる。ますます捨て置けない気持ちとなり、繰り返し言葉をかけた。
――おい、君はもう死んだのだから、そんな風に泣いても始まらないのだぞ。君はまだ自分の屍の場所がわかっているから恵まれているではないか。私を見ろ。自分の体の場所もわからず、こうして放浪しておるのだ。さあ立つが良い。君も一緒に来るのだ。
言葉が聞こえているのかいないのか。男はただ泣き続ける。
……イ……ツイ……ア……
――なんだと?
何かを呟いているらしい。よく聴こうと耳を澄ませた。
アツイアツイアツイアツイアツイ
アツイアツイアツイアツイアツイ
アツイアツイアツイアツイアツイ
アツイアツイアツイアツイアツイ
アツイアツイアツイアツイアツイ
幽体の肌が泡立つのを感じた。この男はもはや正気ではないようだ。顔は火傷の痕で醜く歪んでいる。声は嗄れ、全身は小刻みに震えている。
私が死ぬ直前の耐え難い喉の渇きと空腹を、霊となった今も感じているのと同様、この男は生きたまま焼き殺された苦痛から、今なお解放されず苦しんでいるのであろう。なんという業の深きこと、かける言葉もない。踵を返し先へ進むことにした。友軍に小林やこいつのことをどうにかして伝え、遺体をしかと国へ持ち帰り、家族の元に送り届けることが供養となろう。非業の霊たちも成仏するに相違ない。帝国軍人がこんな不毛の土地で怨霊となるなど不名誉極まりない。故国から離れた砂漠では、護国の鬼とて何もできないではないか。
――待っておれよ、必ず君のことは友軍へと伝える。そこで待っていたまえ。
そう言い残し男と屍から離れようとした刹那、いつの間に忍び寄っていたのか、黒い布をまとった踞る人影が目の前にいた。
それがなんなのかまったくわからなかった。食い入るように見たが、黒い人影はぴくりとも動かずそこにいた。しくしくと泣く声が明らかに恐怖の念を帯びた恐慌の叫び声へと変化した。振り返ると、火傷の男は醜い顔を露わにし、まるで猛獣のように人ならぬ悲鳴を上げた。不意に黒い人影は、ものすごい速さで男に躙り寄り、包み込むように黒い布のような体を大きく広げた。闇が広がるようにも見えた。火傷の男は包み込まれ、まるで断末魔の絶叫のような哀れな声をあげ続け、やがて静かになった。
黒い人影は、火傷の男を呑み込む前と変わらぬ大きさで再び大地に蹲った。次に襲われるのは自分なのではないかと考えたが、黒い人影はいつまで経ってもその場から動かない。ずっと同じ場所に座っているだけだが、じっとこちらを見ている気がする。少しずつ後ずさるようにして距離を取り、逃げるように走り始めた。




