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 しばらく歩いたが何も起きなかった。闇の奥にうっすらと見える地平線と、星が輝く空を交互に見ながら歩いた。足裏はいまやはっきりと大地を踏みしめる感触を知覚していた。それどころか脛から足先にかけては、ゲートルの巻かれる感触さえありありと知覚できる。とはいえ改めて足元を見ると、やはりそこには薄く霞んだ足の切れ目があるばかりだ。自分の現在の体の限界を知りたいと思った。私の本来の体はどこぞの荒野で朽ち果てているはずだが、現にこうして世界を知覚できるのもまた事実なのだから。


 まず星明かりがあるとはいえ、地平線まで闇を見通せる自分の目に興味を持った。昼間のように明るくというわけには行かないが、視界は宵闇程度には明るく、また蒼かった。ただ、よく見える目をもってしても眼下に広がるこの世界に眺めるに足る存在がないのが残念だった。とりあえず、生きていた頃と同じかそれ以上に目はよく見えるようだと思うことにした。


 次に興味を持ったのは耳だ。遠くに響く砲声がはっきりと聞こえ、いまだ戦闘が継続されていると認識できる。どうやら鼓膜は空気の振動を知覚できるらしい。試しにこの耳が自分自身の声をどう知覚するのかを試してみたいと思った。そして、試しにあー、いー、などと声を出してみたのだが、それははっきりと耳に伝わるのであった。ただし、音として知覚するというよりはどこか自然と伝わるとでもいえば良いのか、頭の中に直接響いてくるかのような、うまくはいえないがそういうものに近かった。それでも聞こえるなら良いではないかと考え、そっくり声に出してみた。口が音を発しているのか、空気を振動させ得る能力を持っているのか、はたまた耳が音の振動を正確に知覚しているかはっきりしなかった。確かなのは自分の声が聞こえ、敵の砲撃の音が聞こえるという事実だ。それで十分ではないかと考えた。


 次に興味を持ったのは皮膚の感触であった。足の裏が大地を知覚するように、頬は己の手を知覚するのだろうかと疑問に思った。試しに自分の頬をつねってみた。指は幾分かは残された皮膚のたるみを知覚できたし、頬はつねられてそれなりの痛みを感じるようだった。ただやはりぼんやりとした感触だ。試しにもう一度つねってみたが、やはりぼやけた感触でしかなかった。

 霊魂となったこの体でも敵に撃たれれば痛みを感じたり、致命的な位置であればもう一度死ぬのだろうか? 気になるのはそこだった。もし痛みを感じたり死ぬのであれば、私は一度死んでいるのにも関わらず二度目の死を迎えるということになる。そんな話はどんな伝承や神話やお伽噺でも聞いたことがなかった。或いはそういう物語はあるのかもしれない。死者がもう一度死ぬなどという荒唐無稽が。聞いたことがないだけなのかもしれない。ひょっとすればさる英雄が悪霊を成敗した話などはその類なのかもしれない。成敗された悪霊はニ度目の死を迎えた訳だ。しかし、それを人は成仏と呼ぶのかもしれないが。

 理屈でいえば足の裏の砂礫を感じられるのであれば、腹部に弾を食らえば痛いと感じ、死ぬのもあり得るかもしれない。そうだ、十分にあり得る。そもそも露兵には私の姿が見えるのだろうか? 見えるならば撃ってくるかもしれない。なにしろ私は霊魂になった今でも帝國陸軍の軍服を着ているのだから。

 だんだんと深く考えるのにも疲れてきた。霊魂の身となった今、今更「ニ度目の死」を過剰に恐れる必要もあるまい。とりあえずこの難問を放置することに決めた。これは信頼するに足る他者が存在しない以上、確認できそうにない問題だったからだ。そのとき考えれば良い。私は先に進むことにした。


 しばらく歩くと嫌でも思い出したのが喉の渇きと空腹だ。死ぬ直前と同じ程度に不快に感じられ、いつまでも居座り去って行く兆しさえなかった。その痛苦に満ちた感覚は私を困惑させるとともに、いいようのない不安をもたらした。舌や口腔機能は幽体となった身体でいかに変化したのか?

 手元に食べ物はないが、足元の砂でも舐めれば「砂の味」や「砂を噛むような感触」は知覚できるかもしれない。跪いてみると指先は砂を知覚している。思い余って砂を舐めてみた。舌にはざらざらとした感触があったがどうやら舌に砂がくっついたわけではないらしい。砂を舌上で継続的に転がす感触もない。私は起き上がり、次に大きめの礫を探し拾おうとした。指は石のひんやりとした硬い感触を知覚したが、それを拾ったり、持ち上げたり、転がすことはできなかった。どうやら私には現世の物体に何らの影響も与えられないらしい。さればこそいかにも幽霊なのであった。私なる存在はいまや霊魂として此の世にたまたまとどまっている不確定な存在、いわば浮遊霊なのだ。ということは、私の発する声を自身は知覚できるが、どうやら空気を振動させているわけではないらしい。私の声をおそらく他者は認識しえないであろう。そう結論するしかなかった。

 では、この渇きや空腹を慰める手段は今のところ皆無なのか。或いはこの寒さも。私の幽体はノモンハンの夜の底冷えをも正確に知覚している。なんという惨めで哀れで情けない有様か。何の因果でこの世にこうして居座っているのであろうか。あまりの情けなさにしくしくと泣けてきた。頬には涙が伝っている。涙の温かさを知覚できる。しかし、おそらく他の誰も私がこうして泣いていることに気がついてはくれないのだ。あまりといえばあまりの孤独に気が済むまで泣き続けた。 


 一通り泣きに泣き、立ち上がり、そして歩き始めた。空を見上げて北極星を探し、将軍廟に帰るためとりあえず北東へ足を向けた。本当は自分がどこにいるのかさえよくわからなかった。生前、既に自分の位置を失念していて、そのために野垂れ死んだも同然なのだから。自分の屍の位置さえ満足にわからない。周囲を見渡してもそれらしきものはない。つまり私は死んだ後、霊魂となってどこか違う場所へと運ばれたのだ。ますますもって、自分の居場所などわかるはずもない。朧げな記憶では、我中隊は将軍廟を出発して南西の方角へと進んだはずだ。そして、じきに戦闘に巻き込まれて部隊は潰滅した。北東へ戻れば、いずれは将軍廟に辿り着けるだろう。それにさっき聞こえたソ聯軍の砲声は、北の方角から聞こえてくるようだった。北に行けば少なくともソ聯軍には出会えるであろうし、北東へ進めばソ聯軍を食い止めようとする我軍の防衛線にぶつかるはずだ。そのように見当をつけ闇夜を進んだ。


 昼間の熱気が嘘のように寒い夜だった。遠くで鳴る雷のようなソ聯軍の砲声を別にすれば、辺りは墓地のようにひんやりとして静かだった。北東へ北極星の位置をあてにしてひたすら歩いた。いくら歩いても疲れはなかったが、単調で何の目印もない砂漠を歩いていると気持が落ち込んだ。しきりにぶつぶつと不満を口にした。なんだってこんな、なんの資源もない荒野で戦をせねばならぬのか。そのために一体何人の兵が死んだのであろうか。高い教育を受け最高の訓練を受けた皇軍兵士たちをこのように無碍に使い捨てるかの如く……。あまりの愚行に今更ながら腹が立ってきたのだ。


 ぶつくさ言いながら歩いていると、大地はいつしか背の低い草地へと姿を変えていた。足裏の感触もさわさわと柔らかに変化した。草地を歩いていると大きな大きな砲弾痕へと差し掛かり、中心の一番凹んだ窪地に我軍兵士の屍を見た。酷い状態であった。臓腑は飛び出していたし両足は千切れていた。顔の右半分には無数の鉄のギザギザの破片が突き刺さっている。一升瓶か重砲か、それとも戦車に足を轢き潰されたか。傷口には蛆が湧き、鼻の穴や口からは巨大な太った蠅が何度も何度も出入りしている。惨めで痛々しい姿には言葉もなく、思わず手を合わせた。目を瞑り屍を前にして南無阿弥陀仏と経を唱えた。国のために尽くし、外蒙の大地にて華と散った忠勇なる魂よ、とこしえに安らかならん。

 ふと風が吹くような奇妙な音がするのに気づいて目を開けた。鼻と口の周りでたむろする蠅が驚いて飛び立って行った。音はそこから聞こえるようであった。つまり、惨めな屍に見えた兵士はまだ息があったのだ。


 私は唖然とした表情でその生ける屍を見ていた。幽霊に唖然と見下ろされるとは兵士の有様はよほど酷いものであった。まさか私の視線に気づいたのでもあるまいが、兵士はうっすらと瞼を押し上げ、虚ろな輝きを持つ眼球をぐりぐりと動かした。まだ彼に息があるかどうか半信半疑だった。腰を曲げて食い入るように兵士の目を見つめ――おい君、まだ生きているのかねと問うてみた。すると半死半生のその兵士は「僕は小林一等兵です。あなたは?」と末期の鈴虫のようなか細い声で問い返してきたのだ。これには本当に驚いた。

 ――自分は有田一等兵。第二小隊で小隊長殿の従卒をしておる。

 私がそう答えると、小林と名乗ったその兵隊は微かに首を上下させ「私は第三小隊です」と言い、その後げほげほと苦しげに咳をした。血が溢れて血の気のない唇が紅く染まった。私はいたたまれない思いで二の句も継げずににいた。

 私の顔を見ながら小林は「帰りたいですね。郷に帰りたいですね」と言った。 

 ――君も大分かい? 

 私は問うた。

「宮崎です。生まれも育ちも延岡ですよ。今頃は、きっと、みんな縁側で並んで月でも見ているのかな」

 小林の口ぶりにはその地方独特の素朴な調子が含まれていた。空を見上げると闇の中にくっきりと月が輝き、強い光で砂漠を照らしていた。小林は仰向けに倒れたまま月を見て故郷の家族を思い出したのかもしれない。

 ――何か思い残すことはあるかね?

 私は重ねて問うた。小林はもう一度げほげほと力なく噎せると「私がここで死んだと中隊の誰かに教えてくれませんか?」と言った。私はわかったと答えた。

「有田さんはおいくつなんですか?」

 小林は思い出したようにそう問うた。

 ――二十二さ。

「なんだ、ほとんど同じ歳じゃないか」

 小林はそう言うと顔をくしゃりとさせて笑い、その顔のまま死んだ。

 小林の顔に群がる蠅を手で追い払おうとしたが、蠅の奴らはどこ吹く風で前足を器用に動かし、まるでおどけるように顔を洗っている。蠅一匹追い払う程度の影響力も持たぬとはやはり紛れもなく幽霊だ。とはいえ、小林は私を認識した。会話まで可能であった。その事実は私に多くの示唆を与えた。私のこの体を生者は認識できるらしい。或いは小林が瀕死の今際の意識の中にあったからだろうか。生者が私を認識できるのなら、小林の遺言を仲間に伝えるのも可能だろう。

 私はもう一度小林の屍の前で手を合わせ、再び歩き始めた。


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