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斜面を降りると大地に無数に横たわる屍がいやでも目についた。登るときは無我夢中だったが、当初感じていた数より屍はずっと多かった。
これだけの数の兵士たちが折り重なって、その肌には早くも蛆が這い、炎暑に晒されて腐りつつある。腹いっぱいに肥えた蝿がぶんぶんと飛び回っており、不快な音が耳から離れない。砲声は止んでいた。死の気配に満ちていた。古い墓所の封印を解いて地下へ降りて来たかのようだ。
腰を曲げて適当な屍の山を掘り返し銃を探したが、いくら探しても我軍の三八式小銃は見つからなかった。つい先ほど斃れた戦友たちの遺体も、どこにあるのかわからなくなっていた。見つかるのはモシン・ナガンと呼ばれるソ聯軍の小銃であった。モシン・ナガンとその弾薬は山のように見つかった。てっきりここで腐りつつあるのは日本兵ばかりだと思っていたが、かなりの数の敵兵も混ざっている。露兵の多くは首や喉を斬り裂かれていた。腹を刺された屍も多かった。
逸る気持ちを抑えて深呼吸し、護身用なのだから別にソ聯製の銃を使っても問題ないだろう、と考えを改めた。そしてすぐに銃剣が装着されたままのモシン・ナガンと弾薬ポーチを適当に見繕って拾い、陣地のある将軍廟に向かって走り始めた。
広漠とした大地をひたすら走った。雲で日は遮られ、気温はむしろ下がったはずだが汗だくであった。地平線までなんの目標物もなく、あるとすれば炎上する戦車やトラックの残骸と、物言わぬ屍だけであった。息の続く限りを走り、耐えられなくなると少しの間歩き、息が整えば再び走った。
地平線の彼方から黒い影が横一列に並んで迫ってくるのが見える。影の正体についてもはや悩む必要はなかった。それは戦車の群れであった。まるで巨大な要塞に足が生えて押し寄せてくるかのように感じた。我が方に戦車がないのは明らかだったから、紛れもなくソ聯軍の増援であった。
自陣に向かって走っていたはずなのに敵軍が迫ってくるなんて。腰を抜かさんばかりに驚き、刹那茫然と立ち竦んだ。このまま立っていればじきに敵戦車の良い的となる。仕方なく来た道を引き返すことにした。
何里走ったのか、もはや確かめようがなかった。足は既にぶるぶると震えていたし、頭が熱くて重くて鉄兜を路傍に放り投げてしまった。自分がどこを走っているのかわからなくなっていた。来た道を戻ったはずなのに、あの背の低い焼餅のような丘さえ見失っていた。ついにへたり込んで息を整えながら雑嚢から地図を取り出した。地図は本来将校の持ち物で、元はといえば篠原少尉のだ。藁をもつかむ想いで取り出したものの、自分がどこにいるのかわからないのだから、地図も所詮は無用の長物であった。諦めて地図をしまい、全方位を見渡した。地平線以外何も見えない。この世の果てのような侘しい光景にため息が出た。空を仰いで雲の奥に太陽を見つけ、将軍廟の方角に見当をつけると再び走り始めた。
微かにエンジンの鳴るような音を聞いて膝を付き、耳を澄ませた。文字通り耳に手をやって注意深く。自動車が発するエンジン音で間違いない。状況を考えればソ聯軍のトラックの可能性が高いが、負傷者を回収しに来た我軍のトラックかもしれない。そうだ、増援や物資を満載した友軍のトラックかもしれない。その考えに取り憑かれ心が沸き立った。
身を伏せたまま進み、必死で自動車を探した。匍匐で進んでいると大きな弾痕の窪みを見つけ、転がるように身を忍ばせた。エンジン音は徐々に大きくなっている。そう遠くはない。問題は敵の車輌だった場合だ。
私は一つだけ手榴弾を持っていた。もう一つは斜面での戦闘で使ってしまった。この最後の一発が虎の子だ。モシン・ナガンを傍らに置き、その最後の手榴弾を持ってピンに指をかけた。そしてその体勢のまま窪地から顔を出して周囲を見渡した。不意に視界の隅にトラックらしきものが飛び込んできて慌てて首を引っ込めた。トラックはどんどん近づいてくる。楽器を演奏する音が聞こえた。陽気な声で歌うロシア語も。紛れもなく敵のトラックだ。完全に失望し、死んだふりでもすればやりすごせるかもしれないと考えた。そして、目を瞑って何も考えないように努めたがどうしても疑問が浮かんでくる。一体どういうことだろう。敵から逃げて走っていたはずなのに、逃げた先からも敵が来るなんて。トラックは窪地のすぐ脇を通り過ぎたが、誰も私に気が付かずエンジン音は次第に遠のいて行った。
穴から身を起こそうとしたが体が重かった。全身の震えが止まらないし、汗をかきすぎて頭痛がした。喉は血が出んばかりに乾いていた。もう走る力は残っていないと考じた。もう一度横になり、そのまま空を見上げた。灰色の雲は今にも雨を降らせそうだったが、いくら待っても雨は降らなかった。黒パンの残りを雑嚢から取り出したが、あまりに喉が渇いていたのでまた雑嚢に戻した。
その後立ち上がり、モシン・ナガンを持ったままゆらゆらと歩いた。腹を負傷した笹山よりもさらに遅かったと思う。そして、なぜ笹山があそこまで戦うことができたのか考え、二人はまだあの丘の上で生きて自分を待っているのだろうかと考えた。敵と撃ちあうでもなく、砲撃にやられるでもなく、こんな何もない場所で一人で死ぬのは嫌だった。滴る汗が血の一滴のように思えた。限界が近いと感じた。水はもう一滴も残っていない。空っぽの水筒すら重く感じたので捨てて行くことにした。
厚い雲の奥に太陽の熱を感じ、その方角とは逆に歩いた。銃さえ重く感じられ、私はこのソ聯製の銃も投げ捨ててしまおうかと随分悩んだ。しかし、銃を捨てると敗残兵そのものだと思うと結局は捨てられず、そのまま肩に背負い続けた。地平線まで何も見えなかった。戦車の残骸も兵士たちの死骸もここにはなかった。自分がどこに迷い込んでしまったのかと考えた。木の一本も生えず、大地はどこまでも平坦で、まるで巨大な皿の上を歩いているように思えた。ひょっとしたら、自分は既に死んでいて、いつの間にかどこかの地獄に辿り着いたのかと思った。地獄に来たのでもなければ、なぜ自分がここまで苦しまねばならないのかと思った。もうこの頃には篠原少尉のことも、丘の上で自分を待つあの二人のことも、全部忘れていた。脳裏を繰り返しよぎるのは、最期に水が飲みたいという渇望のみであった。
意識朦朧で汗を垂らしながら歩いていると、まるで虻の羽音のような耳障りな音が徐々に大きくなってきた。私は小銃を杖のようにして身をもたれさせ、天を仰いだ。太陽の方角から飛行機が近づいて来るのが見える。全部で二機だった。その独特のエンジン音に聞き覚えがあった。それは間違いなくソ聯軍の「I16」と呼ばれる単葉戦闘機であった。ずんぐりとした胴体に短い羽根。「I16」は形も独特で、鈍重な戦闘機だが頑丈で火力が強いことで知られていた。私は慌てて適当な窪地がないかを探したが、砂漠はひたすらに平坦で草一本生えていない。身を伏せ急いで穴を掘り、顔を突っ込ませた。不快なエンジン音はどんどん近づいてくる。眼を瞑って仮死を装い、動かずひたすら祈った。此の期に及んで、死が怖かった。怖くて怖くて仕方がなかった。砂の中は熱せられて呼吸も難しい。ただ黙って飛行機が行き過ぎるのを待った。しかし、祈りも虚しく空から機銃掃射の音が聞こえたような気がする。慌てて私は……
そこで漸く我に返った。完全に陽は落ち、周囲は真っ暗だった。自分の両足――太腿から下が存在していないことに気が付いた。足が千切れているのか、それとも――
私はそれでも足があるかのように立ち竦んでいた。そこではじめて、自分は本当に死んだのではないかと考えた。両足は太腿付近からすうっと透明になっていて、形を視認できなかった。しかし奇妙なことに、足の裏には砂を踏む感触が残っているような気もする。それはいわば記憶の残渣だったのかもしれないのだが――
そうだ、私は死んだのだ。死んだのに相違ない。あの時敵機に撃たれて死んだのだ。では、今ここに存在している「私」は一体?
足のない私はまるで幽霊だった。そして間もなく自分は幽霊なのだと認める気になった。他に考えようがなかったから。
しばらくして、自分が幽霊になってもまだこの殺風景な砂漠に居座っている事実に困惑した。どうせなら国に帰って、そう、故郷に帰って父や母や家族の皆に自分は死んでしまったのだと伝えたかった。最後まで戦い、敵機に見つかって戦死したのだと伝えたかった。不甲斐ない死に方をしたのではないと。生きて帰れず済まなかったと謝りたかった。今日まで育て、支えてくれた両親に感謝したかった。しかし、私は相変わらずここにいて、国に帰れず想いを伝えられずにいる。これはなにを意味するのだろう?
ドーン……ドーン……という音が彼方から聞こえた。それは聞きなれた音――紛れもなく砲声であった。自分は死んで、幽霊になってしまったというのに、この地の戦闘はまだ続いているのだ。
まったく、いつまでやるつもりかよと呆れたが、私が死んだからといって戦闘が終わるはずもない。当たり前だと思い直して苦笑した。私はただの一等兵で、少尉に仕える従卒――そうだ、自分は従卒なのだった。おそらく篠原少尉をずっと探していたが見つけられないまま死んでしまい、無念に思い化けて出てしまったのではないか?
それはあり得そうな話だった。私は生きている間、少尉を探すのに執着していたように思うし、結局少尉は見つからず、生死さえも判然としない。私は篠原少尉を見つけられれば浄土へ行けるかもしれないと考えた。なにしろ、私はこの戦場では徹底して命令に忠実であったし、軍人としての本分を違えず真面目にお勤めしてきたのだ。その結果、この外蒙の大地で東洋平和の礎として死を迎えたのだから。護国の鬼となる資格は十分ある。地獄へ行くいわれはない。少なくとも悪霊になるなんてとんでもない。未練さえ解消できれば、すっきり成仏できるはずだ。
私は生きていたときと同じように篠原少尉を探そうと考えた。ほかに考えようがなかったのだ。そして、足のない体で闇世の砂漠を再び歩き始めた。




