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砲声と爆音がドロドロと混ざり合う。黒煙に覆われた薄暗い大地を無我夢中で走った。ヒューンという風を切るような音が聞こえた。急いで身を伏せた。案の定その直後に爆音が聞こえて砂塵が濛々と巻き起こり、無数の鉄片が砂地を舐めるザザーという乾いた音が続いた。
手足の指を動かしてみる。怪我はなさそうだった。堪え難いほどの高熱と、ガソリンが燃えるような臭いがした。砂煙が収束した頃合いに恐る恐る身を起こすと、すぐ眼前に炎上する戦車があった。この戦車の影に倒れ込んだので助かったのだ。ベーテー戦車と呼ばれるソ聯軍の快速戦車であった。戦車の残骸は勢い良く燃え続けていた。ソ聯軍の絶え間ない砲撃は間断なく続いているが、ふとした瞬間に爆音がやんでぞっとするほどの静寂が空間を支配した。すると、戦車の燃えるメラメラといった炎の揺らめきが、風に吹かれてごーごーと恐ろしい音を立てるのが耳につき、怖くなった。冥界から誰かに呼ばれてるみたいな不吉な情景に思えた。聴き慣れない音と高熱に耐えられず、戦車の影という地の利を捨ててまた走り始めた。足元には無数の黒焦げの屍が散乱している。多くは大抵四肢が千切れていた。まだある者は下半身が丸ごと無くなっていたり、首がちょん切れていた。味方の遺骸なのか、露兵なのかは判別できなかった。腹わたからこぼれ出た糞と血とが混ざりあって酷い光景だった。見ていられず目を細めて走った。
銃砲撃が再開され、周囲は再びけたたましい喧騒に包まれた。鉄兜で顔を隠すようにして下を向いたまま走った。そして、これだけ降り注ぐ鉄塊の僅か一つにでも身が触れれば生きて帰れないのだとふと思った。ひとたびその事実に気付くとあっという間に恐怖が襲ってきた。足が震えて姿勢が崩れるのを制御できない。たぶん、走ってはいたが相当のろのろして見えたはずであった。
丘の斜面にへばりつく友軍の姿が見えた。最初は戦死した友軍兵士の死骸なのかと誤認したがどちらでも構わないと思った。私は斜面に倒れこむように身を伏せ、反射的に腹の下の地面を手で土竜のように掘り始めた。
「おい、そんなことはせんでも良い。ここは連中の死角のようやけのう」
年輩の兵士がそう言った。
自分の太腿が濡れているのに気がついた。慌てて負傷したのかと両足をさすった。どこも痛くはない。擦り傷ひとつ負っていなかった。
「漏らしてしまったようです」
私はいかにも場にそぐわぬ間の抜けたことを言った。声は自分でも驚くほど掠れていた。喉がからからだった。
「それがなんか。小便なんかがなんやっちゅうんか」
年輩の兵士はそう言って嗤った。顔に覚えがあったが、たぶん他中隊の兵士で名を思い出せなかった。襟の階級章を見ると私と同じ一等兵だ。
少し冷静になってきて他の兵士の状況を確認しようと首を回した。他にも斜面にうつ伏せになっている兵士がいたのだが、皆何をするでもなくここで寝そべっている。何を待っているのかわからないが、質問しにくい空気もあった。それに、喉があまりにからからで声を出したくなかった。水筒を開けて水をひとしきり飲んだ。水筒はすぐに空になった。斜面に並んだ兵士たちの、一番左側にいたのが私だったのだが、一番右奥にいるのは明らかに将校だった。将校は身長のわりに長い軍刀を抜いたまま、仰向けに倒れていた。先ほどの笹山中尉とわかった。
そうか、さっき突撃して行った部隊にようやく追いついただけのことなのだ。
笹山中尉は腹に弾を食らっている。巻きつけた繃帯が赤く染まっていた。笹山中尉は息荒くぜいぜいと苦しげに呼吸をしていた。目は閉眼し、意識があるのかないのかさえよくわからない。ここで伏せているのは私を含めても全部で六名であった。
「これからどうするのですか?」
状況を呑み込めず耐えかね、ついに質問した。
「隊長が気を取り直されるのを待っちょるんよ。この場で将校は笹山中尉だけやけのう」
年輩の兵士がそう答えた。
「さっき戦車とやり合うたんだが、そんとき機銃弾を食らってしもうたんよ。腹に食らうと助からんけえのう。しかも死ぬのに随分時間がかかる。他の奴らもここに来るまでにみんな死んでしもうた」
「何を待っておられるのです?」
私は重ねて問うた。
「なんか、最後に命令してくれんかなと思っちょるんよ」
沈黙が流れた。奇妙な時間だった。この刹那、砲撃さえ鳴りを潜めていた。
死にかけの将校の最後の命令を? いくら考えても理解できず目眩を覚えた。
「兵隊は命令がないとなんもできんけえ」
別の兵隊がそう言うと皆が頷いた。
「どなたか篠原少尉殿を見ませんでしたか?」
無駄だとわかっていたがおかしな義務感に駆られてそう問うた。皆は案の定首を振るのみだ。
「探してどうするんか。どうにもならんやろうが」
年輩の兵士だけが苛立たしげに答えた。
先ほど突撃をかける様子はまさしく神々しくも思えた兵士たちが、今では弛緩した顔つきの敗残兵に見えるのに驚いた。これからどうすれば良いのかわからず、ここにぼんやりと伏せているしかないのだから、私も彼らと大差はない。
しばらく為す術も無く座っていると、呻きをあげて笹山中尉が目を覚ました。
「隊長殿、しっかりなさってください」
傍らの兵士が呼びかける。笹山中尉は苦悶の表情を浮かべて上体を起こし「貴様ら何をしとるのか、命令はまだ生きておるぞ、丘を攻撃せんか、漸くここまで来たのだぞ」と言った。そして、どこにそんな力が残っていたのか、軍刀を鞘に納め、杖代わりにして立ち上がり「この斜面を回り込んで敵陣地に奇襲をかけ、敵兵を掃滅したのち占領する。敵の数はそう多くないはずだ。各自手榴弾をいつでも放れるようにしておけよ……」と言い、自らも手榴弾のピンを口で抜き、血走った目でよろよろと歩き始めた。先ほどまで覇気のない表情であった兵士たちは、笹山の背が放つ異様な迫力に絆されたのか「よっしゃ、そろそろ潮時やな。ここで死のう」と言う者がおり、皆が頷いた。
自分が篠原少尉を探さねばならぬことを思い、この決死隊に加わらずに済む理由にならないかと考えた。しかし、いくら考えても自分一人がここに居残る合理的理由にはなり得ないように思えた。諦めたような境地で手榴弾を二つ手に取り、両手に一つずつ握りしめて後に続いた。これらを除けば私に残った武器は銃剣だけだった。
斜面を裏手に回ると、我軍兵士の血塗れの遺体が散乱していた。ある者は手足が千切れ飛び、ある者は顔に真っ黒な穴が空いていた。どこに行ったとて乾いた砂の臭いしかしない戦場だが、その一角だけはじめじめとしていて、蒸せかえるような血と臓腑と糞尿の臭いがした。皆頭を下げて周囲をきょろきょろと見回し、顔は真っ黒で目だけがぎらぎらしていた。足の萎えた老人のようによろよろと進む笹山中尉だが、後ろについて歩く我々はさながら金魚の糞のように見えたに相違ない。しばらく進むと、笹山中尉が急に地に膝をついて軍刀にもたれかかった。足元からは血が滴っている。ついに限界が来たのかと思ったがそうではなかった。中尉は膝をついたまま首から下げた双眼鏡で丘の上を見た。つられて上を見ると、丘の頂上に背の低い赤旗が風になびいているのが見える。赤旗はソ聯軍の陣地であるのを示すと同時に、味方に誤爆されぬよう立てる目印でもあった。
「丘を登りますか?」
笹山の傍らの兵が、そう尋ねた瞬間頭を撃たれて地面にどうと倒れた。他の兵士たちは呆気に取られ一斉に地面に身を伏せた。まるで空気を切り裂くような奇怪な発射音がいつまでも途切れることなく続いた。それは気の触れた女の叫び声のように聞こえた。不穏で耳障りで、けたたましい。
「機関銃だ、機関銃だ!」と叫んだ兵士が、次の瞬間には身を伏せたままの姿勢で背中を撃たれた。皆がごろごろと転がりながら声を出すまいと歯を食いしばった。どこから撃っているのか、上を見上げるのも恐ろしくてできない。笹山中尉が突如立ち上がり片手に持った手榴弾を鉄兜に打ち付け、丘の上に放り投げると同時に身を伏せた。爆音と同時に丘の柔らかい斜面から砂埃が巻き上がった。なおも機関銃の発射音は続いたが、砂埃の奥からわずかに発射炎が見えた。一人の兵士が奇声を発しながら丘を駆け上り、発射炎に向けて手榴弾を投げ、次の瞬間には胸を撃たれて倒れた。続く爆音に機関銃は沈黙した。機を逃すまいと笹山中尉が軍刀を抜き、砂煙の中に突っ込んで行く。私と年輩の兵士は赤旗に向かって手榴弾を投げ、笹山の後に続いた。私は銃剣を抜いて逆手に持ち、誰であろうと出会い頭に刺し殺すつもりで丘を全力で駆け上った。噴煙の晴れた先には、偽装された機関銃陣地があって、奥の壕の中に手を挙げた露兵が三人並んでいた。その一人が「コウサンシマス!」と声を張り上げた。なぜ撃たなかったのだろう? 満身創痍の将兵三人、この水冷式の重機関銃でもってすれば、あっという間になぎ倒せたはずだ。
露兵は「コウサンシマス!」と必死な形相でもう一度叫んだ。笹山は意に介すことなくずんずんと近づいて行き、手を挙げる兵士を問答無用に袈裟斬りにした。年輩の兵士は銃剣を突きつけ「イジシュダー!(こっちへ来い)」と叫び、文字通り襟首を掴んで、恐怖のあまりひきつった顔で怯える二人を壕から引きずり出した。露兵二人はまだあどけない顔で恐らく少年兵士であろう。笹山は泣いて怯える二人の少年兵の膝を後ろから蹴って跪かせ、躊躇うことなく背中を撫で斬りにして行く。鉄兜の庇から覗く笹山の顔にはなんの表情もなく、死人の如く蒼白で、眼だけが相変わらず血走って真っ赤だった。笹山の鬼気迫る様子に私は凍り付いた。吹き出す血飛沫を浴び、朱に染まる姿はさながら地獄の鬼のようで、足がすくんだ。三人とも斬殺し、丘の頂上に刺さった赤旗を引っこ抜いてへし折ると、笹山はようやく地面に倒れ込んでそのまま昏倒した。
「まったく、鬼神のようなお方やな」
年輩の兵士は、笹山の腹から滴る血を止めようと処置し始めた。そしてその後、壕の中に残された機関銃を改め「弾詰まりを起こしたんやな。砂が間に挟まったんかな」と修理を試みているようだった。壕の中にはまだ山ほど弾が残されていた。私はいかに機関銃が壊れたとて、まだ少年だからとて、あの状況で即座に降伏する露人の弱兵ぶりに拍子抜けした。戦友を殺され、たっぷり苦しめられた我々だ。降伏したからと赦す道理などあるはずがないのに。私は斬られた露兵たちの懐を改め、わずかな量の黒パンと水筒に残された水を見つけ、年輩の兵士と分けて腹におさめた。その水がなんとうまく感じられたことか!
「おれは山口」
年輩の兵士は口を拭い、漸く名乗った。
「まさか生き残るとは思わんかったけ、名乗る必要もないかと思っちょった。君の名は?」
「有田勲一等兵です。第二小隊長篠原少尉の当番兵を勤めております」
私も名乗った。山口は「あー、それで少尉を探しちょったんか」と言った。
「治りそうですか?」
私は問うた。
「なに、壊れちょらんよ。弾が詰まっただけや。ちょっと分解して掃除すれば治るやろ。君は笹山中尉を診ちょってくれんか」
砲声が遠くで聞こえていた。この付近での戦闘は収束したのだろうか。私は昏倒したままぴくりとも動かぬ笹山の傍らに膝をつき、その表情を見守った。やはり顔は真っ白で、ついに死んでしまったように見えたが、わずかに鼻が動いて呼吸しているのがわかる。笹山が首から下げている双眼鏡を使って周囲を見渡せないかと考えた。恐る恐る手を伸ばして双眼鏡の首紐をするりと抜き、立ち上がって周囲を見渡した。双眼鏡の奥には、何ら変わり映えしない荒涼とした風景が広がっている。戦車の残骸、黒焦げの死骸、茶色の砂と背の低い草が交互に続き、ところどころに大きな砲弾痕が確認できる。地平線には無数の黒煙が立ち昇っている。まだ戦闘が続いているのは疑いない。しかし、この丘周辺は不気味なほど静かだった。敵も味方もみんな死んでしまったかのようだった。空は曇天に覆われ、まだ日は高いはずなのに不思議なほど辺りは暗かった。蒸し暑く、汗がこめかみをとめどなく伝った。
双眼鏡に見惚れていると、背後から私の首根っこを掴む者がいて、ぎょっとして振り向くと鬼のような形相の笹山中尉であった。
「貴様、何をのんびり見ておる。ここは遊覧船か? 早く走って友軍を呼んでこい。まだ日暮れは先だぞ。敵がいつ逆襲してくるかわからんのだぞ……」
中尉は声を出すのもやっとという様子で、足はもつれて首を掴む手は小刻みに震えている。しかし、眼だけは相変わらず我々兵卒を射すくめるような輝きを放っていて、その声は小さいが地獄から響いてくるような低い声だった。
私は震え上がり「はい、ただちに……」とやっとのことで返事をした。そして、中尉に露兵から奪った水を差し出すと、彼はそれを飲み干し、また倒れるようにして地面にへたり込み、地面に大の字になって再び昏倒した。今度こそ意識を失ったように見えた。中尉が意識を失う間際に下した命令は、紛れもなく中隊長代理が発した正式な命令であった。私は命令を受けたからには行かねばならなかった。山口がこちらを見ている。
「気をつけてな。友軍を必ず呼んできてくれや」
眩しいものを見るかのように目を細めていた。
私は挙手の敬礼をし「必ず呼んで参ります」と言った。山口も敬礼を返し「行きがけに銃を拾って行けよ」と言った。
丘の下には無数の友軍兵士の屍があり、その中に小銃も一緒に落ちているはずだ。見つけるのは難しくあるまい。私は丘を駆け下り、振り返ることなく走り始めた。




