1
すばる文学賞2次選考通過作品
改稿しています
1
夜の帳が大地を覆いつくそうと腕を伸ばしはじめている。気がつくと茫然と立っていた。記憶がない。いつからここにいるのかも思い出せない。顔はきっと白痴のごとく呆けていたであろう。うわの空で宙を見上げた。空を覆う濃紺の闇が、こうして見る間にも黒く色を変えてゆき、星の瞬きが勢いを増してくるのがわかる。
寒いが、美しい夜だ。
能天気にも夜空に見惚れてしまった。月や北極星、オリオン座など、極星の輝きを無意識に探した。その輝きは子供の頃を思い出させた。
私は別府の温泉地の山の麓で生まれた。よく兄や弟と夜遅くまで遊び、時にはこうして兄弟で星を見た。もっとも、暗くなるまで家に帰らなかった我らに対する母の仕置きは苛烈なものであったが、今はそれさえも懐かしい。
星から視線を下ろすと、周囲を見渡した。何も見えなかったので、周囲が暗いのだと思った。目が暗さに慣れると、今いる場所が本当に何にもないただの荒涼とした砂漠だとわかった。岩も転がってなければ草一本生えていないのだ。
一体全体どういうことだ、なぜこんなところに独りでいるのだっけ。よく思い出すのだ。こういう時こそ冷静さを無くしてはならない。
随分長い時間、頭をひねってようやく思い出せた記憶は、ある寒い朝であった。それほど昔の話ではない。つい最近だ。そう感じた。聯隊全部が総攻撃をかけるからと、乏しい装備をかき集めてくたくたになった体に鞭打ち、やっとのことで歩き出した朝のことだ。本当に寒い朝で、我々は薄い生地の防暑衣を着ただけであった。皆がちがちと歯をならし、腕をさすっていた。午後になると四〇度にまで上昇するのに、朝晩の冷え込みは尋常でなく、零度以下になることさえあったのだ。
予想はしていたけれど、重い背嚢を背負って歩き始めると陽も昇りはじめ、一転して額から汗が伝いはじめた。
まったくとんでもない土地だな。
歩きながら内心で密かに毒づいた。自分だったらこんな土地に五銭だって払う気はない。たまに地鼠が穴を掘ってるだけで何にもありゃしない。だだっ広いだけの醜い荒野だ。満州と国境を接する外蒙は、ほかに形容しようのない土地だ。連日の激しい戦闘により遊牧民は皆逃げ出してしまったようで誰もいない。風の音が寂しく鳴り響いているだけであった。
憂鬱だった。とても疲れ切っていた。
気温はどんどん上昇して行き、行軍する私たちの体温も同じようにぐんぐん上がって行った。喉が渇いたが水はまだ飲めない。水を飲むのも飯を食うのも、上が指示を出さねば許されない。無論それは辛い行軍をうまく乗り切るための知恵なので、誰も不満など口にできないのだが。
多分皆も同じように感じていた。戦友たちはあまり口をきかず歩いている。喋ればもっと喉が渇く。当然の話だ。私は他よりも更に重い背嚢を背負って歩いていたから、少しずつ皆から遅れ始めた。なぜ皆よりも重い荷を背負っていたかといえば、私は隊長の篠原少尉専属の当番兵で、いわゆる従卒と呼ばれる立場だからだ。他の兵隊と違って、歩哨や、土方などの重労働を免除される役得もあるが、いつも隊長の傍で身の回りのお世話をせねばならぬ身。隊長がいつお使いをいいつけても良いように、いつも身も心も緊張させていなければならない。行軍の際には隊長の荷物を背負うのが当然の勤め。
どんどん暑くなる中、私は他の兵隊よりももっともっと重い荷を背負い、ひいひい言いながら歩くことを余儀なくされているのだ。
遅れ始めた私に気付いて、篠原少尉が並んで歩いてくれる。
「おい、有田。遅れているぞ。もう根をあげたのか?」
その表情にはからかうような笑みが半分、心配も半分といったところだ。篠原少尉は稀に見るほどの美男子だ。鼻が高く、長い睫毛はまるで女のようだ。にも拘らず背が高くて体中に筋肉がついている。少尉の完全武装した姿は男でも見惚れてしまうほど絵になる。武家の生まれで、腰の刀は年代物の名刀らしい。縦襟の褐色の制服姿で佩刀し、ぴかぴかの赤茶色の軍靴を履いている。さぞ内地ではもてただろう。といっても、少尉は国に奥様を残して出征し、子供はまだないという状況とのこと。福岡県と大分県の県境の小さな村の生まれで故郷が近いこともあり、私が従卒に命ぜられたときも少尉はとても気さくにあたたかく接してくださった。精悍な面構え、威風堂々とした軍人精神、規律を何よりも重んじる性格、部下にも偉ぶらず徹底して理知的な気性は、まさに天性の指揮官の器と思えた。古兵たちにも一目置かれていたように思う。まだ士官学校を卒業して二年目とは思えない。そして、このソ聯との戦で短期間に随分成長したように思う。私がこんなことを言うのは滑稽だが、少尉は将来将軍になる器かも知れない。小隊の皆もそう思っているに違いない。私は少尉を尊敬し、自分の任務に忠実であろうと思っていた。要するに真面目に仕えていたのだ。
その少尉が、私のごとき従卒の背負う荷を代わりに背負い落伍せぬようにと心配までしてくれる。まったく自分の不甲斐なさに頭を垂れるばかりだ。従卒が足手まといになってどうするのか。本来なら私のほうが少尉に何が何でもくっついて歩き、少尉が求めれば即座に必要なものをお渡しせねばならないのに。一体どうしたことか、情けない。
ただ、一方で少尉の気持ちがとてもありがたくもあった。一介の従卒にまで微に入り細を穿つ心配り。ますます少尉への敬愛の念が高まるのを感じた。「もともとこれは俺の荷だ。気にするな」
少尉は気さくにもそう言い、その後は黙って横に並んで歩いてくれた。
「少尉殿、前に出ましょう! 私はみるみる元気が出て参りました」
私がそう言うと少尉はにこりと笑い「そうか。ならば前に出ようか。隊長が後ろにおると恰好がつかんからな」と言い、小隊の前へ前へと早歩きで進んだ。私はその後ろについて今度こそ離れまいと先を急いだ。
地鳴りのような砲声が遠くで聞こえる。岩を叩くような乾いた音の連続。散発的な爆発音。様々な音や振動が足元に伝わって来る。機関銃や重砲、迫撃砲の音に相違ない。あれを味方の発する音と楽観する者はもはやいない。中隊にはトラック一両なく、徒歩で半分砂漠、半分草原といった外蒙の大地をひたすら進んでいるのだ。ここには身を遮るような起伏もほとんど見えない。おかげで途方もなく遠方まで見渡せる。振り返ると、朝出発した聯隊司令部の置かれる将軍廟がくっきり見えた。もう四里は歩いたはずなのに。その光景はまるで蜃気楼のようで現実味がなく、我々の覇気を奪っていくようであった。一方で、ソ聯軍の砲撃の音は不気味に着実に差し迫るのを感じる。危険とわかっている場所へ、自らの足で一歩一歩近づくのは何ともいえぬ不快な心持ちがした。
風景が一変し始めたのはそれから間も無くのこと。地平線に黒い塊がぽつぽつと見え始めたかと思うと、誰かが声をあげ、すぐに焼け焦げたソ聯軍の戦車だとわかった。戦車は彼方此方に散らばって、どこか我々を癒すような視覚的な効果があるように思えた。理由はうまくいえないのだが、この荒漠とした大地に、何かが存在しているだけで安心できたのだ。我軍将兵の勇猛果敢の結果だと思えば勇気付けられる気もした。兵士たちはおどけて戦車の残骸の上に乗って、あーいい眺めだ、と笑っていた。ただ、そうやって周囲をよく見ると、黒焦げの戦車の周囲には、無数の屍が半分砂地に埋もれるようにして散らばっているのがわかる。粗末な軍服が戦闘によって焼け焦げ、更に酷暑の熱線に晒されて微動だにせずに埋まっているのを見ると、ただただ哀しい気持ちになった。真っ黒の屍たちは、ひょっとしたら露兵であったかもしれないのだが、サイダー瓶の破片が散らばっているのを見つけて、皆が我軍将兵の仏に相違ないと理解した。
鉄と肉が散らばる荒野を歩き進んでいると、更に砲撃の音が強まって来るのを感じた。我々は、これから自分たちがどこへ行こうとしているかさえ知らなかった。何のためにどこを攻撃し、占領するのかさえ司令部は教えてくれない。従卒の立場を利用して少尉に尋ねても良かったが、皆が等しくわからない中を歩き進むというある種の静寂に満ちた秩序を乱したくなかった。ともすれば知ることで恐慌に駆られ、前へ進む勇気を無くしてしまうかもしれなかった。自分に自信がなく、敢えて何も聞かずに皆と同じように黙って荒野を歩いた。
いまやソ聯軍の砲撃の音は、すぐそこで炸裂したかのごとく近くで聞こえた。地平線を黒煙が禍々しく覆い、世界の終わりのようだった。微かなエンジン音が聞こえたかと思うと、地平線からトラックが一両ふらふらと未舗装の大地を進んできた。皆が驚いて身を伏せたので、私も倣った。
「怖がらんでよい。あれはソ聯のトラックだが、我軍が鹵獲したものだろう」
少尉はそう言って、一人だけ立ったまま双眼鏡を眺めている。私は少尉の前に身を呈すよるようにして立ち、トラックが来るのを銃を構えて見据えた。中隊全部の兵隊がのそのそと大地から起き上がり、誰かが「あのトラックを貸してもらえんのやろうか」と言った。それに対して、それがええわ、頼んでみたらどうか、と声をあわせる者もいたが、トラックには正面から見てもわかるほど負傷者が満載されていて、その半分はとっくに死んでいるのではないかと思われた。軍服は泥と血で赤黒く汚れ、顔は朱に染まった繃帯でぐるぐる巻きにされて、もともと国防色のくすんだ軍服を更に汚らしいものに見せていた。
負傷兵の哀れにして痛ましい姿に兵士たちは絶句しつつも、自分もすぐにあんなトラックに乗せられて来た道を引き返すだろうという、諦めの境地も同時にあった。そのほうがなんぼか楽かもしれんと皆そう思っていたのかもしれない。勿論口に出す者はいなかったが。
更に迫真を帯びる地鳴りの音に、誰が言うでもなく兵士たちは略帽の上に鉄兜を深くかぶって身を低め、銃を構えて歩いた。正面にほんのわずかに起伏した、小さな小さな丘が見えてきた。あたかも焼餅がいいあんばいにふっくらしてきた様を連想させ、なんとなく部隊はその焼餅の方角に向かって歩いているようであった。私はちらちらと少尉の横顔を見つめた。少尉はそれに気づいていたようだが、何も言わず厳めしい表情のままであった。あれが攻撃目標なのだろうか。丘の上はこちらからは何も見えないし、あたかもただそこにあるきりの無人の丘陵のようにも見える。
そのとき、中隊全部に小休止の合図がかかり、兵士たちは給水を許可された。総攻撃の兆候だ。あの焼餅を占領するつもりか。
「しかし、ありゃ近くに見えるがまだだいぶ遠いように思うがなあ。ただ近づいてったら敵のいい的やないんか」
隊の中で最古参の藤田上等兵がぼやくのが聞こえる。藤田は三九歳の後備兵で、本来ならばこのような過酷な任務に耐えられるような年齢ではないが、五月より開始された連日の戦闘により、兵員不足は切迫している。どんな兵隊でも動けるなら動員もやむなしな情勢だ。
藤田の言う通り、このまま真っ裸で進めば中隊はいい的になる。散兵壕を掘ろうにも砂地が柔らかすぎてあまり深く掘れそうにない。そもそも遮蔽物一つない中で、敵が壕を掘るまで黙って待っていてくれるわけもない。円匙で穴掘り中に脳天を撃ち抜かれる光景が容易に浮かんだ。
まさかそんな無茶なことをやらせやせんでしょう……と、誰かが藤田の言葉に答えた。トラックも戦車もないのだから、このままただ丘に向かって走るよりほかにないのは明らかだ。壕を掘ろうにも時間が足りない。子供にでもわかる勘定だ。
「聯隊砲が援護してくれるし、機関銃も十分にある。銃砲弾で鳴りを潜めて近づくのは大したことはないと思う」
篠原少尉が水筒の蓋を閉めながら言うのを聞いて、部隊の仲間たちはお互いに頷き合い、隊長がそう仰るなら大丈夫やと笑った。
「さあ、有田。ああは言うたものの、どうするかね」
少尉が小声で私に言葉をかけた。中隊命令で必要量の弾薬と繃帯、野戦糧食を除いて重い背嚢は地面に埋められることになり、皆が円匙で砂地を掘り、不要な荷物を埋めている。突撃が近い。
「このまま行けば全滅するのは間違いない。司令部はなに考えとるのか」
まさか少尉が弱音を口にするとは。ますますもって生きた心地がしなかった。
「せめて、部下を死なせぬようにせんとな」
少尉はそれきり言葉をきった。私にできるのは黙って付いて行くだけだ。他になにができたろう。
砲弾の炸裂する音に、榴弾が散らばる無数の風を切るような音がヒュンヒュンと混ざるようになり、ザザーと夕立が来たかのような地面を叩く無数の音が聞こえる。それが榴弾の破片が飛び散って地面を舐める音らしい。けたたましく鳴り散らされる機関銃の音、迫撃砲がポンと跳ねるような音と、それに続いて炸裂する凄まじい爆発音。耳が割れんばかりに騒々しい。例の背の低い丘は目の前に迫っていた。こちからからはやはり人影ひとつ見えず、無人のように見える。中隊より伝令兵が息も荒く走りこんでやって来て「聯隊本部より命令です。第三中隊は友軍と共に、ただちに総攻撃に移れとのことです!」と語気荒く叫んだ。
少尉は頷き、軍刀をすらりと抜いて皆を振り返った。「あの丘を確保する。他小隊に遅れを取るな。総員突撃に進め!」と爆音に負けぬような大声で命令を下した。少尉は軍刀を掲げ、真っ先に部隊の先頭に立ち、兵士たちは身を起こして喊声を発し後に続いた。私も観念して少尉から離れぬよう必死で走った。各分隊の機関銃班が援護射撃を開始したが、少尉が言うような聯隊砲の支援は見られなかった。そのうちにソ聯軍の砲撃や機銃掃射は我中隊に照準を合わせ、恐ろしい大火力でこちらを捕捉し始めた。敵の火力は圧倒的で、まるで地獄の炎が地底より現世に噴き出してきたかの如しだ。
何よりも怖かったのは、兵士たちの間で一升瓶と通称される十五糎榴弾だ。爆発と共に無数の鉄塊が辺りにばらけるのだが、避けるのはまず不可能と思えた。頭を下げて運を天に任すしかない有様だ。周囲でぎゃあぎゃあと悲鳴が聞こえるのがわかったが、立ち止まれば自分も死ぬとわかっている。恐怖を消すように叫びながら、全力で走り続ける。兵士たちはいつしか指揮も統制もないまま、地面に伏して目の前の砂地を手や足の爪で掘り、申し訳程度の窪みを作って身を潜り込ませた。息も絶え絶えに砂地に顔面を突っ伏して、鉄兜を両手で覆っていると「おい有田、尻を下げろ! 尻を撃たれるぞ、おい有田!」と誰かが私に言う声がした。私は尻を下げて完全にうつ伏せの姿勢になった。いつの間にか歩兵銃を落としている。これはとんだ失態! 陛下より賜った銃を落とすだなんて大目玉だぞ。この時にはまだ自分が死ぬかもしれないとは思っていない。ドーンドーンという爆発音と榴散弾の飛び散るバーンというものすごい音、ヒュンヒュン鳴りながらスパンスパンと地面を跳ねる機銃弾の音。これらはほとんど絶え間なく砂地を蹂躙し、身を伏せる兵士たちに襲いかかった。自分がまだ生きているのがいかにも不思議という様相だ。なぜ弾を食らわんのだろう? たまたまなのか角度の悪戯なのか、潜り込んだ窪地が敵の死角になっているのではないか、と言い聞かせ自分を安心させようと試みた。恐る恐るうつ伏せから仰向けへと姿勢を変え、後頭部を砂地に押しつけるようにして首を左右に回し、状況を見極めようとした。すぐ後ろには、鉄兜をかぶったまま顔面に無数の砲弾の破片を受けた兵士が死んでいた。おそらく尻を下げろと言ってくれた兵だろう。しかし、顔が完全に粉砕されていたので誰なのか判別できなかった。すぐ両隣の窪地の斜面には、同じ下っ端の兵隊が鉄兜をおさえてうつ伏せの姿勢のまま、目と口を固く閉じて震えていた。左にいる兵隊は、ひゅううう……ひゅううう……と、風の鳴るような奇妙な声を漏らしていた。この銃砲弾の雨の中でも聞こえるのだからかなり大きな音で発せられていたはずだ。その風のよう音は人気のない寂しい墓地を連想させた。不吉な予感を覚えたのだ。
首を一寸も挙げられない激烈な戦場の中で、そういえば自分は従卒で、仕えるべき少尉がどこへ行ったのかと思い出した。この針山をひっくり返したような有様ではさしもの篠原少尉といえど既に戦死したかもしれない。心配だ。かといって自分に何ができよう。銃を持たぬ身でこの鉄の雨の中、たとえ少尉の傍に行けたとして何ができよう。自分にできることは何もなかろう。ここでこうしていればひょっとしたら生き残れるかもしれない。ここはどうやら死角のようではないか。助かるかもしれない。まだ敵に向かって一発も撃たないのに中隊は潰滅したようだ。この有様で人の心配などいかにも愚かだ。このまま寝ていれば良いのだ。そうだ。そうしよう。
「ここは何中隊か。おい、貴様ら何中隊か!」
ささやかな安息は、長く続かなかった。まるで樽のような体型の背の低い筋肉質の中尉が突然現れて、私とその隣で寝そべる兵士の襟首を引っ掴み、ものすごい形相で叫んだ。
「ここは第一大隊第三中隊第二小隊であります!」 風の音を口から漏らし続けていた兵隊が、驚くような大声を張り上げた。よく見ると藤田上等兵だ。背の低い中尉は、私の襟首から手を放して藤田の襟を両手でひっつかみ「貴様らの小隊長はどこにおるか!」と取り殺さんばかりの形相で叫んだ。
「自分は存じ上げません。小隊長殿は抜刀突撃をかけられました。安否不明であります」
「この腰抜けどもが。隊長だけを先に行かせおって!」
中尉は激昂して藤田の頬を思い切り殴った。自分が篠原少尉の従卒だと明かせば殺されるかもしれないと何も言えずに震えて見るばかりだ。
「大隊長も中隊長も安否不明につき、この笹山中尉が第三中隊の指揮を執る。命令! 残存兵力すべてでもってあの丘を奪取せよ。中隊長代理たる我に続け」
叫ぶやいなや笹山中尉は腰の刀を勢い良く抜き放ち「突撃に進め!」と声を枯らさんばかりの大声で叫んだ。頸部には動脈が浮き出、顔は殺気立って真っ赤だった。
笹山に続いて十名ばかりの兵が丘に向かって走りいでた。壮烈にして勇猛なる姿は神々しいばかりであった。私は自分も「一緒に行こう。共に死のう」と確かに感じた。素手のまま体を起こして一緒に突撃しようとしたが、藤田が私を抱きかかえるようにして制止し「よせ、やめとけ、行くこたねえ」と言った。
「何をするのです?」
驚いて藤田を見ると、彼はつまらないものでも見るような目でただ首を横に振った。
「我々も行きましょう。一緒に死にましょう!」 もう片方の隣にいた兵隊が突如熱っぽく訴えるので、私と藤田はたじろぎ唖然として見ていたが、そいつは「行きましょう!」と言うばかりで一向に動こうとしない。
「行きたきゃ一人で行きやがれ、この馬鹿が!」と藤田が怒鳴りつけると、兵隊は悔しそうに砂地に顔を突っ伏して泣き始めた。その砂まみれの顔をよく見ると、この兵隊が初年兵の飯島二等兵だとわかった。七月の攻勢で欠員の出た分を補うために、内地からやって来たばかりで、当然これが初陣だった。刹那、自分の立場を忘れて飯島に同情した。ここが初陣とは。北支にでも派兵されていれば、今頃支那人から鶏でも取り上げて美味い飯にありつけただろうに。こんな鶏どころか水もない、何にもない砂漠が延々続くきりの戦場で、ソ聯軍の重砲と機関銃陣地に向かって三八と銃剣だけ持たされて突撃せよと命令されるなんて。貧乏くじなんて言葉では済まされない。
こうしている間にもソ聯軍の十五糎榴弾が至近にて炸裂し、ばら撒かれた鉄の破片が上空から降り注いだが、やはりこの窪地は角度の偶然か仏の御心か我身にかすりもしない。藤田がその鉄の破片の一粒に手を伸ばし、その両端についた歯型のギザギザを指でなぞり「なんて恐ろしい弾を作りやがるんだ……。露助の奴らめ」と言った。
自分の身が安全と理解するにつれて、だんだんと少尉の安否が気になり始めた。従卒の身でありながら仕えるべき少尉だけを死なせ、自分一人おめおめと生き残るなど恥以外のなにものでもない。急に生き残ることが怖いように思えてきた。さっきまで死にたくない、ここでじっとしていよう、と臆病風に吹かれていたのにも関わらず。
「上等兵殿、私は篠原少尉をお探しせねばなりませんが、何か良い案はありませんか?」
「そんなうまい案があるわけねかろうが。あの中尉の言うことが本当なら、もう聯隊は潰滅しとる。軍旗もおそらく無事では……。おれらは部隊と共に死なねばならんちゃ。とはいえ、死にたくはないけ、どうするかのう」
藤田は北九州の片田舎出身らしく、その地方独特のなまりは、人の良さと荒っぽさの双方を兼ね備えている。私と飯島は、藤田が次に何を言うのか固唾を飲んで見守った。藤田は我々の真剣な目線に気付くと、一転して馬鹿にしたように笑った。「なに、ここでじっとしとればいいんよ」
藤田の言葉は私と飯島を安心させるかのような、戦場とは思えぬ能天気な響きを持っていた。
「俘虜になるのでありますか? それは嫌であります。自分はここで死にたくあります!」
飯島が真っ赤に泣き腫らした顔で絶叫する。藤田はごそごそと繃帯嚢をまさぐり、なんと陛下より聯隊全部に賜った恩賜の煙草と燐寸を取り出し、何のためらいもなくそれに火を点け煙を呑んだ。
「だったらてめえ、階級順やろう。ちょうどいいあんばいに二等、一等、上等と綺麗に並んどるんやけ、てめえがまず行ってこいや。その次は有田。おれは最後に突撃するけえ」
私は中隊命令に逆らって藤田が私物を埋めていなかったのに驚き、繃帯嚢から恩賜の煙草が出てきたのに驚き、あっさりを火を点けてしまったのにも驚いた。それとは対照的に藤田の瞳は落ち着き払っていて、もうどう見ても死ぬ気はない様子であった。うまそうに恩賜の煙草を吸い、私にも「吸うか?」と身振りで奨めてくる始末。
急に気持ちが落ち着いてきた。しょせんこの場で従卒は私一人で、少尉を探す義務を負っているのも私だけなのだと観念した。そして、この二人はこの場に残し、自分一人だけはソ聯軍の射線に出てでも少尉を探さねばならないと強く思った。
「仕方がありません。私一人で少尉殿をお探しします」
藤田はそれを黙って見、吸い込んだ煙をゆっくりと吐いた。飯島は自分がどうすべきか考えあぐねているようであった。
「よせよせ! 下らん死に方はするな。少尉がお前の親父と言うわけでもないやろが。こうなったからにはなんの義理立ても必要ないけえ、自分が生き残る道を模索するほうが利口やで」
藤田は煙草を根元まで吸って放り投げた。
「上等兵殿のように、合理的に物事を考えられたら良かったのですが。私も一応は帝國軍人なのであります」
私はすっかり落ち着いて笑みさえ浮かべていた。藤田は私の顔を見て諦めたように首を振った。
「行くんか、そうか、本気のようやね。うむ、まあ気をつけて行けや」
「上等兵殿には冷静にして頂き、やはり行かねばならんと思い出させて頂きました。感謝しております」
藤田は目を瞑り何も言わなかった。飯島はと言えば、やはり体が震えて動けない様子だ。
「お前はここに残れ。無理はするな。ここで上等兵殿と共に戦線を離脱し、聯隊の惨状を後方の第六軍司令部へとお伝えするのだ。それも大切なお勤めだぞ。良いな?」
私は初年兵に精一杯の恰好付けを言った後、飯島から食糧と水を半ば以上ひったくるようにして受け取り、窪地から身を躍らせた。彼方に見える丘陵は、すぐに砲煙に覆われて見えなくなり、私は視界を塞がれたまま、悲壮な覚悟を胸に秘めて前へ前へと走った。




