↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
おかえりなさい  作者:
■ ACT II: FOUND FAMILY & BURIED PAST

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/24

第8話:お腹が空いたんだもん

――ガラガラッ、バタンッ!!!


 『赤べこ』の木製の引き戸が、タコの強靭な手によって確実な質量とともに閉ざされた。外の雨は勢いを増し、古びたトタンの屋根を激しい濁流のような音で叩き続けている。しかし、店内に満ちる空気はどこまでも暖かく、数種類の鰹節と濃口醤油が調和した、濃厚で心を安らげる出汁の香りが充満していた。

 タコは鷲掴みにしていたいつきのフードの襟元を無造作に離し、その小さな身体をカウンターの前に向かって軽く押し出した。いつきはよろめきながらも即座に体勢を立て直すと、警戒心を剥き出しにして、入り口の木戸に近い壁際まで数歩後退した。一対の丸い瞳が、まるで檻に閉じ込められた野良猫のように激しく左右に蠢き、脱出するための隙間や窓がないかを必死に模索している。

「そこに座れ」

 タコが低く、一切の異論を挟ませない重々しい声音で命令を下した。

「うちはそこに座れとは指示していません」

 カウンターの奥から、凛の平坦な声がタコの言葉を冷徹に遮った。彼女は仕入れ籠を調理台に置くと、小さな竹の盆栽が置かれた長机の、最も隅にある空席を指し示した。そこは普段、天野が清掃作業の合間に腰を下ろす領域のすぐ隣だった。

「そこの席に座りなさい、ガキ」

 いつきはフンと鼻を鳴らし、寒さと恐怖で細かく震え始めていた両腕を胸元で固く組んだ。自らの脆弱さを虚勢で覆い隠そうとする、路地裏の子供特有の防衛本能だった。

「あたしにはいつきって名前があるんだもん! こんな薄汚い変な店に座るわけないじゃん! 早く離さないと、大声で警察を呼んでやるんだもん!」

 その時、厨房と給仕場を隔てる麻のカーテンを押し開けて、アンナが純白の絹ごし豆腐を載せた木製のトレイを抱えて姿を現した。彼女はいつきの姿を、その濡れ鼠のような髪から、泥に汚れただぶだぶの衣服、そして爪先の擦り切れた靴に至るまで、値踏みするような鋭い視線で一瞥した。アンナは深く溜め息をつくと、トレイをドンと机に置いた。

「凛ちゃん、一体どこからそんな濡れた野良猫を拾ってきたのよ」

 アンナの声は刺々しかったが、その目元には冷酷な拒絶ではなく、奇妙な観察の光が宿っていた。

「見たところ、最低でも三日は風呂に入ってないわね、その汚らしさは」

「市場でうちの財布を不法に掠め取った犯人です」

 凛は表情を一切変えないまま、籠から大根を取り出しながら事実のみを述べた。

「へえ、財布泥棒ねえ」

 アンナは形の良い唇の端を吊り上げ、いつきを射すような視線で見つめた。いつきはその圧力に耐えかねて、さらに壁際へと身体を縮こまらせる。

「この店の店主から資産を奪おうなんて、いい度胸じゃない。ガキ、あんたを捕まえたのがタコで運が良かったわね。もし外の東口の連中に見つかってたら、今頃は重りをお腹に括り付けられて、夜の玄界灘に沈められていたところよ」

「うるさいんだもん、クソババア! あたしはお金が必要だから盗んだだけだもん!」

 いつきは自らの内面を蝕む恐怖を打ち消すように、路上で身につけた最も粗暴な罵声を張り上げた。

 しかし、その激しい言葉の残響が店内の空気に溶けるよりも早く、彼らの間に割り込むようにして、ある「音」が鳴り響いた。


――グゥウウウ……ルルルゥッ。


 それはいつきの外套の奥から響いた、あまりにも長く、あまりにも正直な、飢餓の極限にある内臓の絶叫だった。その音は温かい『赤べこ』の空間にあまりにも明瞭に木霊し、いつきが言葉の刃で必死に構築しようとしていた虚飾の防壁を、根底から無慈悲に粉砕していった。

 次の瞬間、いつきの顔は耳の先端に至るまで、爆発したように真っ赤に染まった。彼女は溢れ出そうになる涙を堪えるために下唇を烈しく噛み締め、猛烈な羞恥と、内臓を焼き焦がすような飢餓感の拒絶反応のなかで、深く頭を垂れた。

 タコはふん、と鼻を鳴らして笑いを堪えるように不自然な咳払いをし、アンナはただ呆れたように首を振って深い溜め息を吐き出した。

「……だってお腹が空いたんだもん!」

 いつきは突然、堰を切ったように激しい叫び声を上げた。その声音は微かに震え、決壊しかけた涙の水分を含んでいる。彼女は弾かれたように顔を上げ、絶望と怒りが混濁した瞳で凛を睨みつけた。

「あんたたち店を持ってる大人は、毎日あったかいご飯を食べてるから分からないんだもん! 胃袋が雑巾みたいに絞られて、痛くて眠れないまま橋の下で一晩中お腹を抱えてる気持ちなんて、知りもしないんだもん! あたしはただ、ご飯が食べたかっただけだもん!」

 凛の大根を刻む手が、完全に停止した。彼女は一対の澄んだ、しかし一切の感傷を交えない瞳でいつきの顔をじっと凝視した。凛の論理回路は、この場面においても極めて実利的に駆動していた。彼女は安っぽい同情の目を向けることはしなかった。なぜなら、憐れみという無形資産では、目の前の胃袋を物理的に満たすことは絶対に不可能であることを知っていたからだ。同時に、彼女は泥棒という行為の道徳的是非について、説教を垂れるような非効率な真似もしなかった。

「うちは、飢餓という生理現象の苦痛については理解しています」

 凛の声は清澄で、冷徹だった。いつきの感情的な叫びを、刃物のように鋭く切り落とす。

「ですが、あなたがどこの地表で睡眠をとり、どのような理由で他人の所有権を侵犯したかという個人的な背景には、一切の関心を持ち得ません。赤べこにおける規律は絶対です。食べたいなら、その対価を支払いなさい」

「お金なんて一銭もないって、さっきから言ってるじゃんだもん!」

 いつきは理不尽な現実に対する不満を爆発させるように叫んだ。

「うちは、法定通貨による決済のみを要求しているのではありません」

 凛は即座に応じると、カウンターの下から新品の竹箒と、清潔な白い晒の布を取り出し、いつきの目の前のテーブルの上へと無造作に提示した。

「あなたの持つ肉体的労働力を投資しなさい。タコとその手下が靴底に付着させて店内に持ち込んだ、雨水の汚れをこの床から完全に除去する清掃原価を支払うのです。この床が完全に乾燥し、衛生管理基準を満たしたと確認できた瞬間、うちは店内の正規の顧客と全く同一の熱量を持った、特製の温かい鍋料理をあなたに提供します」

 いつきは完全に言葉を失った。眼前に転がされた竹箒と白い布を見つめ、それから凛の無表情な顔を見上げた。そこには、市場の大人たちが自分に向ける、害獣を見るような蔑みの視線は一切なかった。選択権は完全にいつき自身の手に委ねられていた。説教もなく、強制もない、純粋な経済取引の提示。

 長机の端で、先ほどから静かに磁器を拭いていた天野が、唇の端をわずかに吊り上げて微笑んだ。

「ねえ、お嬢ちゃん……そのブラシを受け取りなさい。ここの小さな店主さんはね、食べ物の等価交換に関してだけは、絶対に嘘を吐かない主義なんだ。その床の雨水を拭き取る仕事は、僕が経験したテラスのコンクリート磨きに比べたら、一万倍はイージーな労働だから。僕を信じておきなさい」

 いつきは天野の顔を数秒間凝視し、それから再び凛へと視線を戻した。胃壁を切り裂くような飢餓の物理的苦痛が、ついに路上で培ってきた頑固なプライドを打ち負かした。十三歳の少女は躊躇いがちに一歩前へ進み出ると、細く震える両手で、竹箒の冷たい柄を握り締めた。

「……本当に、あったかい鍋をくれるんだもん?」

 いつきは声を極限まで小さくさせ、探るように呟いた。

「床を綺麗にした後で、あたしを警察に突き出すための罠じゃないんだもん?」

「うちは警察という国家権力との非効率な事務手続きに、自らの時間原価を投入するほど暇ではありません」

 凛は平坦に言い放つと、再び愛用の包丁を手に取った。

「働きなさい。スープが完全な沸騰に達するまで、あと二十分です」

 いつきはそれ以上、反論の言葉を持たなかった。彼女は竹箒を床に突き立てると、不器用ながらも猛烈な執念を込めて、木床の水分を拭き取る作業を開始した。


 二十分の刻が正確に流れた頃、『赤べこ』の床からは一切の水滴と泥汚れが消え去り、本来の美しい木目が鈍い光を反射していた。いつきが激しい息を弾ませながら、部屋の隅に箒を立てかけたその瞬間、凛の細い両手が、ずっしりとした重量を持つ分厚い磁器の器をカウンターの上に設置した。

 器の中からは、黄金色に輝く熱々のスープが豪快な湯気を立ち上らせていた。柔らかく煮込まれた分厚い鶏肉、味が芯まで染み込んだ大根、そしてアンナが仕込んだ瑞々しい白葱の細切りが、完璧な配合率で美しく盛られている。その隣には、炊きたての白い米が山盛りにされた熱い茶碗が添えられていた。

 いつきは丸椅子に飛び乗るようにして腰掛けると、竹の箸を引っ掴み、スープの熱さも顧みずに一切れの鶏肉を口の中へと猛烈に放り込んだ。


「――はふっ、熱っ! でも……めちゃくちゃ美味いんだもん……っ!」

 いつきは口の中を熱さに悶えさせながら、掠れた声で呟いた。その瞬間に耐えきれなくなった涙が両目から溢れ出し、琥珀色のスープの表面に小さな波紋を作って落ちていった。彼女は我を忘れ、猛烈な勢いで箸を動かし、米を、肉を、汁を胃袋へと掻き込んでいった。

 それは、ただ料理の味が至高であったからではない。これまでの人生において、常に恐怖に怯えながら gang の目を盗み、暗い路地裏を逃げ回ることでしか手に入らなかった食事。それが今、自分の両手で箒を握り、床を磨き上げたという「労働の成果」として、誰に怯えることもなく堂々と摂取できているという事実に、彼女の魂は震えていた。人間としての尊厳の味が、その熱いスープには確かに溶け込んでいた。

 凛はいつきが使い終わった汚れた布を受け取ると、それを洗浄するために無言で洗い場へと向かった。彼女の顔は相変わらずセメントのように硬質だったが、その足取りは、カウンターから聞こえてくるいつきの力強い咀嚼音と同調するように、どこか確実なリズムを刻んでいた。

 博多の荒涼とした夜の底で、一人の若き財布泥棒が、今確かに自らの意志で『赤べこ』の規律を受け入れ、その聖域の住人としての最初の第一歩を踏み出したのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。