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おかえりなさい  作者:
■ ACT II: FOUND FAMILY & BURIED PAST

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第9話:変な店

 いつきが『赤べこ』で初めて竹箒を握りしめてから、正確に一週間の刻が流れていた。その日の昼下がりも、博多の街は容赦のない冷たい雨のカーテンに閉じ込められていた。薄暗い店内に響くのは、トタンの屋根を叩く無数の雨粒の音と、それと同調するようにカウンターの奥から聞こえてくる、規則正しい包丁の打撃音だけだった。


――ト、ト、ト、ト。


 凛の手元で、肉厚な椎茸の傘が寸分の狂いもない等間隔の薄切りへと姿を変えていく。

 いつきは長机の最も隅にある丸椅子に腰掛け、両手で小さな顎を挟み込むようにして机に肘を突いていた。その丸い瞳は、相変わらずセメントの壁のように無表情な凛の横顔から、棚の配置を几帳面に調整しているアンナの背中、 tender 窓の外でただ茫然と雨だれを眺めている天野の怠惰なシルエットへと、不審そうに移り変わっていく。

「……やっぱりさ、この店って徹底的に変だもん」

 静まり返っていた店内の空気を切り裂くように、いつきが鼻にかかった声で呟いた。その声音には路上生活で培われた特有の斜に構えた皮肉が混じっていたが、同時に、どうしても隠しきれない純粋な好奇心の響きが含まれている。

 アンナは器を並べる手を一瞬だけ止め、形の良い眉を片方だけ吊り上げていつきを睨みつけた。

「何が変だって言うのよ、ガキ。床の清読原価を支払うだけで、その小さな脳みそが疲弊しちゃったのかしら?」

「違うもん!」

 いつきは弾かれたように背筋を伸ばすと、汚れた細い指先で店内の全方位を順番に指し示した。

「言葉通りの意味だもん! 見なよ、ここにいる奴らの顔ぶれを。店主のくせに二十四歳で、まな板の木切れみたいにガチガチに堅苦しい規律ばっかり言ってる凛。そんで、そっちのクソババアは口を開けばトゲだらけの癖に、この寂れたドブ底みたいな店には勿体ないくらい飯の味付けが美味すぎるもん。それから、外にいるあの不経済極まりない元ホームレスの居候に、極めつけは、この界隈の顔役を束ねてるっていうあの二メートルの化け物が、何でか凛のことを『お頭』なんて神聖な名前で呼んでペコペコ頭を下げてる。……こんなの、どう考えても空間の等価交換がバグってるもん。あんたたち、ひとつの部屋の中に大人しく収まっていい人間関係じゃないじゃん」

 アンナは言葉を失い、一瞬だけ呆然とした表情を浮かべた。彼女は調理台の奥にいる凛と視線を交わすと、その形の良い喉から、乾いた、しかしどこか自嘲気味な笑い声を漏らした。彼女はカウンターの杉の木面に腰を預け、作務衣の胸元で腕を組む。

「……まあ、あんたの観察眼は一銭の価値くらいはあるみたいね。確かにうちらは、綺麗に噛み合うパズルのピースなんかじゃないわ。ここはね、いつき。外のまともな世界から不適合品として廃棄され、他に行くべき物理的な座標を完全に失った行き止まりの人間が、最後に滑り込む吹き溜まりなのよ」

「じゃあ……」

 いつきは声を一段と小さくさせ、探るように身を乗り出した。路上で身に付けた凶暴な虚勢の鎧が、純粋な疑問の前に少しずつ剥がれ落ちていく。

「あんたと、その木切れ店主は、どうしてここで一緒にいるの? 二人は、どうやって出会ったんだもん?」

 凛は大根を刻む手を止めた。彼女は清潔な晒の布で両手の水分を静かに拭い去ると、綺麗に磨かれたカウンターの杉の表面に視線を落とした。彼女の澄んだ双眸は、眼前の木目を通り抜け、三年の刻を遡ったあの夜の過酷な記憶の底へと、一直線に沈み込んでいく。


***


 三年前の、ある冬の深夜のことだった。

 気圧配置の急変によってもたらされた凄まじい暴風雨が、裏の社会がうごめく不夜城を容赦なく叩きつけていた。濁流と化した雨水が路地裏のアスファルトを浸食し、廃棄されたプラスチックのゴミを浮き上がらせ、点滅する猥雑な店のネオンサインを歪んだ極彩色に反射させている。

 当時、二十一歳だった凛は、大型の頑丈な黒傘を差し、一人で深夜の闇を歩いていた。血の繋がらない養父のために、港湾地区の夜間市場で生鮮食品の流通経路と価格交渉を終えた帰り道だった。彼女の確実な足取りが完全に停止したのは、すでに営業を終了した高級夜御店の裏手、激しい雨に打たれて今にも崩壊しそうな段ボールの山の隙間に、一つの「異物」を発見した瞬間だった。

 それはアンナだった。

 しかし、その夜の彼女は、今のような地味で飾り気のない作務衣姿ではなかった。露骨に身体の線を強調した、絹製の夜会服を身に纏っていたが、その裾は泥水で無惨に引き裂かれ、厚化粧の施された顔線は、激しい雨水と多量の涙によって奇怪な絵の具のように崩れ落ちていた。アンナの細い肩は、低体温症の前兆で激しくガタガタと震えている。彼女はその夜、長年自らの笑顔と肉体的労働力を売却して尽くしてきた経営者と致命的な確執を起こし、一銭の退職金も与えられないまま、暴風雨の路上へと物理的に叩き出された直直後だった。

 凛は迷うことなく大股で接近すると、自らの黒傘を傾け、冷酷な雨の物理衝撃からアンナの身体を完全に遮蔽した。その代償として、凛自身の右肩の調理着は、一瞬にして冷水を含んで重く濡れそぼっていく。

 アンナは血走った赤い眼球を持ち上げ、泥水の中から凛の顔を睨みつけた。その瞳には、世界に対する絶望と、剥き出しの防衛本能が混濁している。

「……何を見てるのよ。失せなさい! あんたみたいなクソ生意気な子供に、安っぽい憐れみを恵んでもらう筋合いはないわ! どっか行きなさいよ!」

 アンナの声は、喉の粘膜が氷結したかのように酷く掠れていた。

 それでも、凛の顔線は一ミリも動かなかった。彼女はアンナの引き裂かれた衣服や衣服の乱れを嫌悪することもなく、かと言って、メロドラマのような過剰な同情の涙を浮かべることもなかった。ただ、冷徹な取引の開始を告げるように、平坦な音声を放つ。

「うちはあなたに対して、一銭の同情原価も支払うつもりはありません」

 二十一歳の凛の声は、轟く雷鳴の破裂音を真っ向から切り裂いて響いた。

「ですが、うちは今、『赤べこ』の厨房で稼働できる、適正な調理能力を持った労働力を至急必要としています。うちの父は寿命による減価償却が進み、毎夜重い鋳物鍋を維持する肉体的体力が底をつきかけています。もしあなたに、自らの意志で稼働できる健全な両手があるというのであれば、明日の朝、この座標へ来なさい。うちは無償の宿泊や食事は提供しませんが、あなたの労働に対して、市場価値に基づいた正当な報酬を支払うことを保証します」

 凛は割烹着の奥から、水滴でわずかに歪んだ一枚の店舗の名刺を取り出すと、アンナの膝元の濡れた段ボールの上へと静かに設置した。そして、一切の未練を残さず、黒傘を元に戻して激しい雨の向こう側へと背を向けた。抱擁も、温かい言葉の投資もない。彼女が提示したのは、冷徹な契約の選択権だけだった。

 翌朝、午前六時ちょうど。『赤べこ』の赤暖簾が掲げられたその瞬間、戸口の前には、凛の養父から借り受けたサイズの合わない衣服を羽織り、顔色を蒼白にしたアンナが直立していた。そして彼女が初めて厨房の聖域に足を踏み入れ、出汁の調合を開始した瞬間、彼女の持つ「味覚の構築能力」が、凛の機械的な計算を遥かに凌駕する至高の資産であることが証明されたのだった。


***


「――そういうことよ」

 アンナの言葉が、狭い店内の空気を三年の過去から現代へと引き戻した。彼女の形の良い唇に浮かぶ笑みは、今度は隠し事のない確かな温かみを帯びており、その視線は銅鍋から豪快に立ち上る琥珀色の湯気を見つめている。

「あの生意気な木切れ店主はね、あの夜、うちを慰めるような言葉なんて一言も投資してくれなかったわ。外套を貸してくれる優しさもゼロ。……でもね、その徹底した『等価交換の冷酷さ』があったからこそ、うちはこの店で、もう誰のためにも偽物の笑顔を作り笑いする必要がないんだって、心の底から理解できたのよ」

 いつきは何も言えずに、ただその物語を鼓膜の奥へと沈め込んでいた。彼女の視線が戻った先では、凛が再び使い慣れた包丁を握り直し、完璧な等価間隔で椎茸を刻む作業を再開していた。


――ト、ト、ト、ト。


 まな板を叩くその乾いた音が、いつきの胸の奥深く、路上生活で凍りついていた不信感の氷壁を、微かに、回数確実に溶かしていく。


「……ふん。やっぱり、徹底的に変な店だもん」

 いつきはもう一度同じ言葉を繰り返した。しかし、今度の彼女の乾いた唇の端には、十三歳の子供らしい、微かではあるが完全に嘘のない、本物の笑みが静かに浮かび上が上がっていた。彼女は机の上の晒の布を再び力強く握り締めると、今度は先ほどよりも遥かに大きなエネルギーをその前腕に込めて、長机の表面を隅々まで磨き上げる労働へと戻っていくのだった。


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