第7話:財布泥棒
その日の昼下がり、吹き溜まりの下町の空は、底の抜けた泥のような分厚い曇天に覆われていた。湿気はいつも以上に粘り気を帯び、伝統的な青空市場の喧騒をどこか不穏で、不快な熱気へと変えている。凛は竹編みの大きな買い物籠を腕に抱え、押し合う人混みを縫うように歩いていた。籠の中には、みずみずしい大根、純白の絹ごし豆腐、そして数束の新鮮な白葱が収まっている。彼女の頭脳という名の仕入れ帳簿は常に高速で回転し、布製の黒い財布の中で刻一刻と減少していく今週の運転資金の残高を、一円単位で冷徹に弾き出していた。
老舗の古びた万屋の角、湿ったアスファルトが急に狭まる路地の境界線を通り抜けようとした、その瞬間だった。
対向から走ってきた小柄な影が、凛の右肩へと強烈な質量をもって衝突した。
―――バシッッ!!!
「――あっ、ごめんっ!」
鼓膜を刺すような、声変わり前の幼さの残る甲高い叫び声が響く。
凛の身体が一歩だけ側方に揺らいだ。彼女は持ち前の強靭な前腕の筋肉を駆動させ、籠の中の豆腐が物理的衝撃によって崩壊するのを最小限のバランスで防ぎきる。彼女が即座に首を巡らせたとき、視界に映ったのは、色褪せた緑色の大きすぎるフード付きの外套を羽織り、だぶだぶのズボンを揺らしながら逃走する子供の背中だけだった。その影は、露天商の狭い隙間を、まるで飢えた野良猫のような異常な俊敏さで潜り抜けていく。
凛の手は、思考よりも先に割烹着のポケットへと伸びていた。
空白。
数日分の『赤べこ』の仕入れ原価、すなわち今後の店舗運営の生命線とも言える全財産が収められた、あの黒い布財布が完全に消失していた。
「泥棒」とも「待て」とも、凛は叫ばなかった。その顔線は相変わらずセメントの壁のように静止していたが、頑なな顎の骨がギリ、と音を立てて引き締まる。現金の喪失は、明日の厨房の火を絶やすという壊滅的な「赤字」を意味する。それは彼女の経営理念における、最も許されざる規律違反だった。
凛は万屋の預かり所に仕入れ籠を無造作に預けると、迷いのない足取りで、その小柄な影が消えた路地の奥へと歩を進めた。彼女の脳内にある下町の不規則な路地裏の地図が、逃走経路の確率論を瞬時に計算していく。
一方、放棄されて久しい古い米倉庫の裏手にある、逃げ場のないどん詰まりの路地裏。
緑色のフードを乱暴に跳ね除けた子供は、荒い呼吸を整えながら壁に背を預けた。乱雑に切り揃えられた短い髪の下から覗く一対の丸い瞳は、周囲の気配を警戒する猛禽のように鋭く尖っている。
子供の名はいつき。十三歳。この剥き出しの吹き溜まりの路上で、たった一人で生存本能だけを武器に生き延びてきた、若き財布泥棒だった。
「へへっ、思ったよりずっしり入ってんじゃん」
いつきは乾いた唇の端を歪な満足感で吊り上げ、凛から掠め取った黒い布財布の口を開いた。数枚の千円札と、養父の形見である古い銀貨が一枚。整然と並べられた紙幣の序列を見つめ、いつきはフンと鼻を鳴らした。
「この財布の持ち主、絶対にクソ真面目でつまんない奴だ。中身が綺麗すぎて気持ち悪いもん」
しかし、いつきの自嘲的な笑みは、次の瞬間に完全に凍結することとなった。
上空の希薄な陽光を遮るように、巨大な「黒い質量」がどん詰まりの路地の入り口に立ち塞がり、いつきの小さな身体を完全に濃厚な影の底へと沈めたからだ。
「――他人の所有権に不法に接触する。そいつはな、この東口の界隈じゃ、両手首の骨を叩き折られてドブに捨てられても文句の言えねえ大罪だぞ、ガキ」
地を這うような低く濁った重低音が、コンクリートの壁を震わせて木霊した。
いつきは全身の毛を逆立て、弾かれたように頭を跳ね上げた。
そこに立っていたのは、タコだった。街の顔役としての本能的な殺気を剥き出しにした大男が、黒いシャツの胸元で腕を組み、冷酷な剃刀のような眼光でいつきを完全にロックしている。彼の背後には、肉厚な体躯を誇示する二人の手下が壁のように並び立ち、唯一の退路を物理的に完全封鎖していた。
いつきは布財布を背後に隠し、冷たいコンクリートの壁に背中がめり込むほどに後退した。
「お、お前……タコの一味かよ!? あたしはあんたらの縄張りじゃ盗んでない! ここは市場の共有地で、あっち側の場所だもん!」
いつきは自らの震える声を隠すように、敢えて尖った声音で吠えついた。それは防衛本能が破れかけた子供の、必死の威嚇だった。
「確かにここは俺の直轄地じゃねえ」
タコが一歩、前へ踏み出す。重い靴底が砂を噛む音が、いつきにとっては死刑宣告のカウントダウンのように響く。
「だがな、その汚い指先が触れている財布の所有者は……俺たちの『お頭』だ。お頭の資産に損害を与えようとする不届き者は、この街のすべての規律に対する宣戦布告とみなす」
いつきは窮鼠の爆発的な速度で前方に突進し、タコの巨躯の腋の下を潜り抜けようと試みた。しかし、長年裏社会の抗争を生き抜いてきたタコの動体視力と空間把握能力は、子供の小細工を許さない。タコは無造作に右手を伸ばすと、電光石火の速さでいつきの緑色のフードの襟元を背後から鷲掴みにした。
――――ブンッ!!!
質量を持たない人形のように、いつきの身体が宙へと吊り上げられる。爪先が地面から数十センチメートル浮き上がり、まるで悪さをした子猫のように、空中で無様に拘束された。
「離せっ! クソ男! 離せだもんっ!!!」
いつきは狂ったように身体を悶えさせ、虚空を激しく蹴りつけ、タコの太い腕を噛みちぎろうと歯を剥き出した。
「静かにしろ、ガキ。鼓膜が震動して不快だ」
タコは感情を一切交えずに吐き捨てると、いつきの指先から黒い布財布を強引に奪い取り、自らの長外套のポケットへと収めた。そして、路地の入り口から接近してくる正確な足音に気付き、首を巡らせた。
路地の闇を切り裂くように、凛が姿を現した。速足での移動により、その割烹着の胸元はわずかに上下していたが、澄んだ双眸はどこまでも平坦で、揺らぎがなかった。彼女はタコの手によって宙ぶらりんにされているいつきの姿を、ただの客観的な事実として見つめる。
「お頭」
タコはいつきを吊り下げたまま、凛に向かって深く頭を垂れた。そして、ポケットから黒い布財布を取り出すと、至高の宝物を返還するかのような厳粛な手つきで凛へと差し出した。
「このクソガキが犯人です。お頭の規律を汚した罰として、今すぐこの場で両手の関節をすべて破壊しましょうか。二度と他人の資産に触れられねえように」
いつきは暴れるのを一瞬だけ止め、信じられないものを見る目で凛を凝視した。あの狂犬と恐れられるタコが、自分と大して年齢の変わらないような少女を「お頭」と呼び、絶対的な服従を示している。その異常な光景に、いつきの脳内は恐怖と混乱で飽和状態となった。これから受けるであろう肉体的な破壊を予期し、いつきは硬く目を閉じ、全身の筋肉を強張らせた。
しかし、凛は差し出された財布を受け取ると、中身の現金額と銀貨の存在を数秒で確認し、再び割烹着の奥へと滑り込ませただけだった。彼女の視線は、恐怖で顔を蒼白にしているいつきの顔へと注がれる。
「うちには、破砕された人体の骨屑などという、経済的価値のないゴミは必要ありません」
凛の声は、秋の最初の雨粒よりも冷徹に響いた。
「この子供は、今日のうちは仕入れにかけるべき適正な時間原価を著しく棄損しました。機会損失は重大です。したがって、その失われた時間に対する等価交換として、この労働力を回収します。赤べこへ連れて行きなさい」
タコはわずかに眉をひそめ、その非論理的とも言える寛大な処置に一瞬だけ戸惑いを見せたが、即座にその思考を排して頭を下げた。
「御意、お頭」
「離せ! あたしはそんなクソみたいな店に行きたくないもん! 離せだもん!」
いつきは再び激しい罵声を張り上げたが、タコはその大声を完全に無視し、彼女の衣類を掴んだまま、物言わぬ荷物のように路地裏の奥へと引きずっていった。
上空の曇天が耐えきれなくなったように、ついに大粒の雨をポツポツと降らせ始めた。湿った下町の喧騒が雨の音にかき消されていく中、いつきは自らの意志とは無関係に、これからの人生の全座標を根底から覆すことになる『赤べこ』の赤暖簾の向こう側へと、強制的に連行されていくのだった。




