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おかえりなさい  作者:
■ ACT I: THE OUTCASTS' GATHERING

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6/7

第6話:いつもの夜

 吹き溜まりの下町において、時間は音もなく、しかし確実に境界線を塗り替えていく。夕暮れが完全に夜の闇へと崩れ落ちると、路地裏の古いネオンサインが一つ、また一つと明滅を始め、湿ったアスファルトに卑俗な極彩色を落とした。小料理屋『赤べこ』の建物の外では、秋の深まりを告げる夜風がさらに勢いを増し、軒先に吊るされた赤暖簾をバタバタと激しく煽っている。だが、店内に一歩足を踏み入れれば、そこには大ぶりの銅鍋から立ち上る濃厚な出汁の湯気が変わらぬ律動を刻み、古い木造の壁や柱に確かな熱量を分け与えていた。

 今夜、この場所には、誰一人として計画していなかった新しい「日常」が、静かに、そして深く根を張りつつあった。


――ガラガラッ。


 午後七時を少し回った頃、木製の引き戸が滑らかな音を立てて横に開いた。入ってきたのはタコだった。二メートル近い大柄な体躯を包む黒い長外套を片方の肩に無造作に引っ掛け、かつて路地裏を震撼させていたあの暴力的な足音の鋭さは影を潜めている。彼は慣れた足取りでカウンターの最奥、あの分厚い中華包丁が収められた木棚に最も近い丸椅子へと向かった。ここ数日の間に、そこは完全に彼の指定席としての不可侵領域となっていた。

「いらっしゃいませ」

 湯気の向こう側から、凛の平坦な声が響く。彼女の両手は、スープの中で適正な熱量を吸収しつつある豆腐の塊を崩さないよう、慎重にひっくり返す作業に没頭していた。

「おう」

 タコは短く応じ、傷だらけの黒い革手袋を杉の机の上に無造作に置くと、厨房の奥へと視線を巡らせた。

「お頭、いつものやつを頼む。葱はあまり入れるなよ。アンナのやつ、いつも加減ってものを知らねえからな」

「へえ、裏社会の顔役ともあろう大男が、新鮮な野菜の瑞々しさにも耐えられないような貧弱な味覚をしているなんてね」

 煤けた麻のカーテンを押し割り、トレイを抱えたアンナが姿を現した。三十歳になる彼女の鋭い目元には、かつてのような刺々しい敵意はなく、むしろ親しみを込めた嘲笑の色が濃く滲んでいる。

「凛ちゃん、この弱虫の器には、いつもの二倍の量の白葱を放り込んでやりなさい」

 タコは不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、それ以上の反論を試みることはせず、出汁の煙で薄黒く燻された天井を見上げて煙に巻いた。

 一方、テラスに面した窓際、小さな竹の盆栽の鉢植えが置かれた長机の席には、天野が静かに腰を下ろしていた。身に纏うグレーの長外套は相変わらずくたびれていたが、その顔線や手元は、路上を彷徨っていた頃とは見違えるほどに清潔に保たれている。彼は右手に乾いた木綿の布を握り、凛が洗い上げたばかりの磁器の湯呑みを、一枚一枚、職人のような手つきで丁寧に拭き上げていた。その挙動はどこか緩慢で怠惰な印象を与えたが、その薄開きの瞳は、店内の微細な変化を鋭く観察している。

「天野さん、そんなに悠長に布を動かしていたら、拭き終わる前に夜の埃がまた付着しちゃうわよ」

 タコの前に熱いスープの器を置きながら、アンナが鋭く叱責の声を飛ばす。

「おやおや、アンナさん。この労働の本質とはね、衣服の摩擦が磁器に与える繊細な感触を、五感で享受することにあるんだよ」

 天野はいつもの軽薄な、しかしどこか芯のある笑みを浮かべ、その小言を柳のように受け流した。

「あまりに効率だけを追い求めて急ぎすぎると、この器が持っている固有の魂のようなものが磨り減ってしまうからね」

「ただの怠け者の言い訳よ」

 アンナは吐き捨てるように呟いたが、その形の良い唇の端はわずかに吊り上がっており、そのまま足早にカウンターの奥へと戻っていった。

 凛は大きな銅鍋から熱々の鍋料理を掬い上げ、タコの前に設置すると、続いて天野のために用意した一回り小さな器をトレイに乗せて運んだ。今夜の『赤べこ』には、外部からの一般の顧客は一人も存在しない。しかし、この世界から阻害され、独自の傷を負った四つの魂が、同一の空間の中で、絶え間なく漂う出汁の香りを媒介にして確かに繋がっていた。

 彼らは互いに安っぽい笑みを交わし合うことはない。自らの暗い過去――タコが背負う血生臭い裏社会の因縁、アンナが中洲の歓楽街に残してきた夜の残滓、天野が凍てつくアスファルトの上で削り取ってきた絶望、そして凛が養父の遺産とともに引き受けた圧倒的な孤独について、言葉にして語り合うこともなかった。「私たちは仲間だ」とか「ここに集まれて嬉しい」などという、非論理的で感傷的な記号は、この店には必要なかった。

 だが、タコが鶏肉を猛烈な勢いで口へと運び、天野が磨き上げたガラス器を棚へ整然と並べ、アンナが凛の調味料の配合について「醤油の選択が保守的すぎる」と文句を言い始めたとき、この狭い空間は、一週間前のあの凍りつくような「広すぎる赤字の城」では完全になくなっていた。

 凛は彼らの中心に立ち、満たされていく器と、それぞれの規律に従って稼働する肉体を見つめていた。彼女の脳内にある経営論理は、今夜の商業的な純利益が極めて低い数値を記録していることを冷徹に計算していた。しかし、帳簿の数字とは裏腹に、あの巨大な銅鍋の中に仕込まれたスープの量が、もう「一人のためには多すぎる過剰資産」ではないという事実を、彼女の経済的感覚は確かに捉えていた。

「凛ちゃん、今日のスープ、いつもよりわずかに旨味の含有量が多いわね。もしかして、うちが指摘した鶏ガラの抽出時間に関する進言を、隠れて採用したのかしら?」

 アンナが木匙に残ったスープを舐めながら、探るような視線を向けた。

「うちはただ、計量器の示す数値を正確に反映しただけです」

 凛は平坦な声で応じ、アンナの濃厚な味付けを際立たせるために、全体の水分量を数パーセントだけ削減したという非公開の微調整の事実を、その無表情の奥に秘匿した。

 タコは器の底を叩くような小気味よい音を立てて完食すると、スープを味わっている天野の方をギロリと睨みつけた。

「おい、元ホームレス。明日の朝は、店のアスファルトだけじゃなく、横の細い路地も念入りに掃いておけよ。うちの若い連中が、あそこに煙草の吸殻を不法投棄していくのを見かけた。汚いままだと、お頭の規律に反するからな」

「おやおや、タコさん。それは僕の労働原価に対する追加投資を要求しているということかい? だとしたら、店主さんからの報酬として、明日の朝食のご飯をもう一膳増やしてもらわないと、計算が合わないね」

 天野はくすくすと笑いながら、温かいスープを胃袋へと流し込んだ。

 古びた下町の片隅で、夜はさらに深く、その濃度を増していく。窓の外に吹き荒れる秋の嵐は、帰るべき物理的な座標を失った人々にとって、どこまでも冷酷で容赦のない脅威であったかもしれない。しかし、『赤べこ』の頑丈な木製の引き戸の向こう側においては、この退屈で徹底された「いつもの夜」のルーティンが、彼らの身体を確かな安全圏へと繋ぎ止めていた。誰もその変化を口にすることはなかったが、この場所の意味は確実に変容していた。それは、凛が日銭を稼ぐためだけの寂れた飲食店ではなく、日々の共同労働の繰り返しによって、彼らの生存を不可分に結びつける、強固な結合体としての機能を果たし始めていたのだった。


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