第14話:配信禁止
その日の昼下がり、やる気のない薄い雨が、『赤べこ』の古い硝子窓を静かに濡らしていた。店内の平穏は、突如として現れた、蛍光の黄色い上着を羽織ったうら若き娘の侵入によってかき乱されることとなる。彼女の右手には、三本の脚がついた自立式の固定器具に据えられた高機能な移動式電話機が握られ、その先端で円形の小型電球が不自然なほど烈しく明滅しながら、厚化粧の施された顔線を白々と照らし出していた。
「はーい、はい、皆さんこんにちは! 今日の配信はね、あの伝説の吹き溜まりと呼ばれる下町の路地裏に、大人気の仮想空間制作者である私が突撃していまーす!」
娘は意図的に声帯を絞り込んだ甲高い声音を放ち、古い木造の店舗にはおよそ調和しない、人工的な熱量を狭い空間に撒き散らしていた。
――ガラガラッ。
彼女は靴底の泥を拭い去る等の最低限の衛生管理を行うこともなく足を踏み入れ、手元のアタッチメントを稼働させてレンズを全方位へと巡らせた。その光軸は、部屋の隅の長机で微睡んでいた天野の顔線を一瞬だけ捉え、その強烈な光量によって彼の眉根を不快そうに歪めさせた後、滑らかにカウンターの正面へと移動していく。
凛は大ぶりの銅鍋の向こう側に直立していた。その表情は相変わらずセメントの壁のように静止していたが、澄んだ双眸は、自らの顔面に真っ直ぐに向けられた撮影機材のレンズを完全にロックしていた。
「わあ、見て見て! この店の店主さん、すごく若くてミステリアスな雰囲気が漂ってまーす!」
黄色い上着の娘は、通信機器を凛の顔線のすぐ近くまで肉薄させた。
「すいませーん、お姉さん! 私、今ここでインターネットの視聴者に向けて、編集なしの生放送中なんです。この店の自慢のメニューを、今すぐこの場で評価させてもらってもいいですか?」
麻のカーテンを押し開けて厨房から出てきたアンナの足取りが、ピタリと停止した。彼女は細い目をさらに険しく細め、その撮影機材を冷酷な拒絶の視線で見つめる。いつきも厨房の戸口の隙間から丸い瞳を覗かせ、その不条理な喧騒に対して不快そうに眉をひそめていた。
凛は娘の問いに対して、音声による応答を行わなかった。彼女の手はいつも通りの等速で駆動し、帳簿用レジスターの下から、黒い塗料で文字の記された小さな木製の看板を回収すると、それをレンズの真ん前へと、コンと確実な音を立てて設置した。
そこには、墨の跡も鮮やかに、以下の四文字が厳格に刻まれていた。
【配信禁止】
「うちは、電子媒体による実況中継の受け入れを一切拒絶します」
凛の声は清澄で、事務的で、そして一切の交渉の余地を残さないほどに硬質だった。
「今すぐその機材の主電源を遮断しなさい。もしあなたが純粋な食事の消費を欲するのであれば、うちは一人前の鍋料理を提供します。ですが、もしこの空間にいる構成員の顔線を無断でデータ化し、不特定多数の視線に晒すことが目的であるというなら、即座にこの座標から退去してください」
中継を行っていた娘は完全に虚を突かれ、画面の向こうに向けて作られていた偽物の笑顔が一瞬にして凍結した。彼女は数歩後退し、自らの職業的な愛想を維持しようと試みたが、その声音には明らかな狼狽が混じり始める。
「え? でも……お姉さん、私のこの生放送、今リアルタイムで数千人以上の人間が視聴してるんですよ? 経営の苦しいこんな寂れたお店にとっては、一銭のコストもかからない最高の宣伝になるじゃないですか! インターネットで一気に拡散されて、明日から大行列になりますよ!」
「赤べこは、商業的な飲食を提供する店舗であり、大衆の見世物小屋ではありません」
凛の論理は一ミリの変形も許さなかった。その声のトーンはどこまでも冷徹である。彼女の脳内にある経営ロジックは、一時的な流行による架空の付加価値などよりも、日々の労働の疲弊を癒すためにこの場所の静寂を求めてやってくる、固定顧客の快適性を防衛することの方が遥かに高価値資産であると弾き出していた。
「うちの顧客は、路上での過酷な肉体労働を終え、胃袋を静かに満たすためにこの敷居を跨いでいます。あなたの放つ人工的な光量と音声の振動は、彼らの消費環境を著しく棄損しています。通信を遮断しなさい。さもなければ、うちは今夜、コンロの種火を一切駆動させません」
娘は凛の硬質な瞳を見つめ、それから、作務衣の胸元で腕を組み、かつて夜の街の頂点を極めた者特有の圧倒的な威圧感を放っているアンナの立ち姿へと視線を移した。さらに最悪なことに、引き戸を滑らかに押し開けて入ってきたタコが、二メートルを超える巨躯の影を投げかけながら、裏の社会の重厚な殺気を無言で店内に充満させ始めていた。娘の首筋に、本能的な恐怖の鳥肌が立つ。
自らが頼りとしていたインターネット上の数字という盾が、この頑固なシステムの前には一銭の価値も持たないことを理解した娘は、ついに不満そうに口を尖らせて撮影器具を降ろした。
「はぁーあ……分かりましたよ、分かりました。中継は切ればいいんでしょ。本当に融通の利かない店長さんね」
彼女は画面の表示を確認して通信を終了させ、円形の電球を消灯すると、自らの機材を鞄の奥へと押し込んだ。そして、深い溜め息を吐き出しながら丸椅子の一つへと腰を下ろした。
「じゃあ、普通の鍋料理を一人前ください。ここまで歩いてきて、物理的に本当にお腹が空いちゃったんだもん」
凛は一度だけ頭を下げ、その無表情な顔線を元に戻した。
「一人前、千円になります。調理の完了まで、十分の刻を要します」
厨房は瞬く間に、かつての適正なリズムへと回帰していった。
――ト、ト、ト、ト。
凛の包丁が食材を刻む乾いた音と、銅鍋の中でスープが沸騰する低音の律動が再び狭い空間を満たし、先ほどまで室内を汚染していたデジタルな騒音を静かに洗い流していく。
十分の後、凛は豪快な湯気を立ち上らせる分厚い磁器の器を、娘の目の前へと設置した。アンナの仕込んだ味噌の芳醇なコクと、生姜の刺激的な香りが、冷たい空気の中に濃厚に溶け出していく。
蛍光の上着の娘は小さく鼻を鳴らし、竹の箸を割り、躊躇いがちに一切れの絹ごし豆腐と琥珀色の汁を口へと運んだ。
その瞬間、彼女の丸い瞳が限界まで見開かれた。
一日中、カメラのレンズの前で偽物の笑顔を維持し、過剰な情報発信によって硬直していた彼女の全身の筋肉が、その熱量を感知した瞬間にドッと弛緩していく。彼女は咀嚼の速度を落とし、空っぽの胃壁へと染み渡っていく本物の温もりを、細胞の一つ一つで咀嚼していた。
「……なにこれ、めちゃくちゃ美味しい」
娘の口から漏れた呟きは、先ほどまでの甲高い人工的なものでは完全になくなっていた。それは、疲弊しきった一人の人間が放つ、嘘のない本物の声音だった。彼女は机の上に放置された通信機器のことなど完全に忘却し、一心不乱に器の熱量を胃袋へと掻き込んでいった。
全ての固形物とスープを消費し、カウンターの上に一枚の千円札を設置したとき、彼女が凛を見る目は、最初とは完全に異なる敬意を孕んだものへと変容していた。
「さっきはごめんなさい、お姉さん」
彼女は鞄を肩に掛けながら、小さな声で呟いた。
「インターネットの世界には、ここのことは一切流さないわ。……だけどね、私の本当の友達にだけは、文字通信で教えてあげるつもり。この街のどん詰まりに、世界で一番あったかいスープを出す、最高に頑固で変なお店があるってね」
凛はその現金を回収し、レジスターの引き出しへと収めると、カチャン、と確実な金属音を響かせた。
「ありがとうございます。お腹が空いたなら、いつでもその座標へ戻ってきなさい」
娘は今度は嘘のない綺麗な笑みを浮かべ、古い引き戸を今度は細心の注意を払って静かに閉め、夜の闇へと去っていった。




