第13話:猫の手
その夜、『赤べこ』は突如として、古びた中央駅の改修工事に従事する総勢十五名近くの肉体労働者の集団による襲撃を受けることとなった。普段は世界から見捨てられたように静まり返っている小さな店内は、一瞬にして足の踏み場もないほどに満杯となる。空間は労働者たちの野太い笑い声と、酒精の満ちた硝子器が衝突する甲高い音、そして同時に点火された三つの追加の銅鍋から豪快に吹き出す琥珀色の出汁の湯気によって、白く濃厚に埋め尽くされていった。
カウンターの向こう側は、まさに小規模な戦場というべき極限の稼働状態にあった。
「凛ちゃん! 四番テーブルの鶏肉の在庫が二食分不足しているわよ!」
視界を遮る濃い煙の向こうから、アンナの鋭い叱責の叫び声が響いた。彼女の両手は、味噌の調合比率を狂わせない驚異的な速度で大ぶりの鍋を攪拌し続けている。
「うちは現在、適正な分量を再構築しています」
凛の声は平坦だったが、その指先は驚くほど迅速に駆動していた。使い慣れた包丁が杉のまな板を叩く音が、一ミリの狂いもなく一定の拍子を刻み続ける。
――ト、ト、ト、ト、トッ!!!
「いつき! そのトレイを最奥の座敷へ運びなさい! スープの自重で液体を飛散させたら承知しないわよ!」
アンナが再び鋭い指令を発し、ずっしりとした重量を持つ木製の配膳盆をいつきの手へと委ねた。
「分かってるもん! あたしの耳元の至近距離で大声を出すんじゃねえもん、クソババア!」
いつきは鼻にかかった声音で吠え返し、しかしその身体は驚くほど俊敏に駆動した。大人の密集する椅子の隙間を、飢えた野良猫のような身軽さで潜り抜け、トレイを運んでいく。
普段であれば極限の不経済を体現している天野でさえ、今夜ばかりはグレーの外套の紐を腰の回りに固く縛り付けざるを得なかった。彼は荒い呼吸を繰り返し、真っ白な息を吐き出しながら、裏の貯蔵庫と厨房の間を何度も往復し、大根の詰まった重い麻袋や鋳物のコンロ用の木炭をその細い肩に担いで搬入していた。
その喧騒の渦中、部屋の最も隅にある指定席では、タコが微動だにせず直立していた。彼は今夜、一銭の料理も注文していなかった。料理を消費する代わりに、その猛禽のような昏い眼球は、酒精によって理性を失いかけた労働者たちの挙動を冷酷にサンプリングし続けていた。彼らが無作法な挙動を起こさないか、あるいは会計の段階で対価の支払いを拒絶する不法行為に及ばないか。タコがその場に鉄の錨のように沈座しているという事実それ自体が、店内の混沌を規律へと繋ぎ止める、絶対的な防衛線として機能していた。
午後十一時、木製の引き戸がようやく内側から固く施錠された。最後の顧客の集団が夜の闇へと退散した後の店内には、空になった多数の器と、不規則に積み上げられた汚れた硝子器の山だけが残されていた。
『赤べこ』に、再び重々しい静寂が帰還する。
いつきは緊張の糸が切れた瞬間に床板の上へと崩れ落ち、そのまま仰向けになって燻された天井を見つめながら、激しい呼吸を繰り返した。
「あー……あたしの魂が、今完全に肉体のシステムから離脱して空中を浮遊してるもん。疲労の限界だもん……」
「見事な稼働率だったわよ、ガキ」
カウンターの縁に身体を預け、晒の布で額の汗を雑に拭い去りながら、アンナが疲弊した声で呟いた。彼女は、冷たい水の入った洗い場の前に背筋を伸ばして直立し、すでに最初の一枚の器を磨き始めている凛の背中へと視線を向けた。
「凛ちゃん、あんたの肉体は鋳鉄の合金で構築されているわけ? なんでそんなに疲労の色がゼロなのよ」
「うちはただ、店舗運営に必要な運動エネルギーを消費しているだけです」
凛の声は平坦だったが、その前腕の駆動速度は、普段よりも数パーセントの遅延を記録していた。
壁際に腰を下ろし、自らの硬直した脹脛を骨張った手で揉みほぐしていた天野が、くすくすと低く笑った。
「おやおや、昔の人はよく言ったものだね。今夜のような状況を、裏の社会じゃ『猫の手も借りたい』と表現するんだよ。僕たちの処理能力を超えた需要に対して、たとえ猫の手のように通常は労働に寄与しない非効率な存在であっても、等価交換の現場に投入したいと切望するほど忙しかった、という意味さ」
いつきは床に転がったまま首をわずかに傾げ、不満そうに天野を睨みつけた。
「猫の手? 猫なんて竹箒を握ることも、器の衛生管理をすることもできないじゃん。徹底的に非論理的な言葉だもん」
「それは比喩だよ、いつきちゃん」
天野はいつもの怠惰な、しかしどこか含みのある笑みを浮かべた。
「つまりね、極限の崩壊の危機において、どのような微小な労働力であっても――たとえ世間から無価値と廃棄された存在であっても、その稼働が全体の生存確率を上げるために決定的な投資になる、という意味なんだよ」
タコがゆっくりと椅子から立ち上がり、床の上に横たわるいつきのすぐ傍らへと歩み寄った。そして、自らの肉厚な手のひらで、温かい白湯の注がれた磁器の器をいつきの目の前へと静かに設置した。いつきは一瞬だけ呆気に取られた表情を浮かべたが、すぐに身体を起こすと、微小な声音で感謝の意思を表明し、その器を両手で抱え込んだ。
「この店にいる猫は、無駄な音声の排泄が多すぎる」
タコは低く、地鳴りのような声音で吐き捨て、目元の端だけでいつきを一瞥した後、再び凛へと視線を戻した。
「だがな……もし今夜、この無価値な猫の手どもがこの座標に存在していなければ、お頭のこの城は、押し寄せる需要の濁流に耐えきれずに、完全に赤字の底へ沈没していたはずだ」
凛の、スポンジを動かす手が、ピタリと停止した。
彼女はゆっくりと身体を反転させ、店内の各所に分散して頽れている四人の姿を、その澄んだ双眸で順番に、静かに見つめていった。
口を開けば刺々しい罵言を放つが、料理の付加価値を守るために全ての体力を投資したアンナ。路上生活の怠惰に染まっていたはずが、多量の汗を流して物流の義務を果たした天野。かつては他人の資産を掠め取る側だったが、今は両手を赤く腫らしながら重い配膳盆を維持し続けた若きいつき。そして、一銭の経済的報酬も発生しない空間で、ただ防衛の壁として四時間の時間原価を無償で投入し続けた裏の社会の顔役、タコ。
彼らは全員、かつて外のまともな世界から「不適合品」として拒絶され、生存の価値を否定された存在だった。この下町の路上においては、一銭の価値も持たない、ただの傷ついた猫の手に過ぎなかった。しかし今夜、この『赤べこ』の古い木造屋根の下において、それらの微小なパーツは強固に噛み合い、単一の律動に守られて、この場所を維持するための不可欠な稼働資産へと昇華していたのだ。
彼らの間で、「防衛してくれてありがとう」といった感傷的な通信は交わされなかった。「うちらは最高の結合体だ」などという、メロドラマのような欺瞞の記号も必要なかった。
凛はただ、大きな陶器の薬缶を手に取ると、清潔な四つの磁器の湯呑みに対して、熱いジャスミン茶を一定の分量で正確に注ぎ分けていった。そして、それをカウンターの杉の表面へと、コン、コン、と確実な音を立てて等間隔に配置していく。
「厨房の小さなコンロで、銅鍋の底に残された正規のスープを再び加熱しています」
凛の声は清澄で、どこまでも頑固で、平坦だった。
「今夜の帳簿において、未販売在庫として処理された絹ごし豆腐と、数食分の鶏肉が内部に残存しています。もしあなたがたの肉体が、まだこの座標からの移動を欲していないというのであれば、まずは洗面所にて両手の衛生管理を徹底しなさい。消灯の刻限を迎える前に、これらを共同で消費します」
アンナはフンと鼻を鳴らしたが、その形の良い唇の端には、隠し事のない確実な温かい笑みが浮かんでおり、そのまま自らの湯呑みを受け取った。天野は大きく身体を伸ばしながら直立し、いつきは丸椅子の上へと弾かれたように飛び乗り、その丸い瞳に再び生命の輝きを灯した。タコは無言のまま、カウンターの輪の中に椅子を引き寄せ、自らの象徴でもあったあの黒い長外套を、生まれて初めて自らの意志で脱ぎ捨てて机の脇へと掛けた。




