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おかえりなさい  作者:
■ ACT III: THE BOND OF THE CAT'S PAW

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12/24

第12話:街の騒音

 その夜、吹き溜まりの下町の喧騒は、いつも以上に粘り気を持った悪意となって路地裏を侵食していた。安物の酒精の臭気、地下の酒場から吐き出される濃厚な紫煙、そして地表を不快に揺らす低周波の重低音が、幹線道路のどん詰まりから絶え間なく木霊している。雨は上がったばかりだったが、その爪痕として残された黒いアスファルトの水溜まりは、不安定に明滅を繰り返す赤と青の夜のお店の灯りを浴びて、不気味な極彩色にギラついた。

 『赤べこ』は、その狂気と混沌が支配する夜の歓楽街の境界線、薄暗い路地の街角にひっそりと直立していた。まるで、街の喧騒という名の怪物がこれ以上踏み込むことを拒絶する、最後の絶対防衛線のように。

 いつきは古い木製の引き戸の前に立ち、竹箒の柄に体重を預けながら、鋭い瞳で路地の動向を監視していた。毎夜のルーティンである掃き掃除はほぼ完了しつつあったが、彼女の鼓膜は、赤暖簾からわずか二十メートルほど離れた路地の入り口で発生した、不穏な摩擦音を確実に捉えた。

「おい! どこを見て歩いてやがるんだ、クソババア!」

 夜の冷たい空気を切り裂いたのは、粗暴で、品性を欠いた男の怒号だった。

 そこでは、ひとつの小柄な人影が横へとよろめいていた。『赤べこ』の厨房に対して、毎日のように新鮮な大根や白葱の調達を担っている市場の壮年の女性だった。彼女が抱えていた竹籠は無惨にアスファルトへと落下し、中からいくつかの泥のついた根菜類が、濡れた地面の上へと転がり落ちていく。その目の前には、衣服の乱れた、酒精の匂いをぷんぷんと漂わせる二人の身なりの良い男たちが、下劣な笑い声を張り上げて直立していた。片方の男が、転がってきた大根を自らの靴の先端で小気味よさそうに蹴り飛ばす。

「あ、あの……申し訳ありません、旦那衆。うっかりしておりまして……」

 老いた女性は細く震える声を絞り出し、男たちの嘲笑を浴びながら、泥水に濡れた食材を必死にかき集めようと地面に這いつくばった。

 その光景を網膜に捉えた瞬間、いつきの胸の奥にある若き生存本能が、一気に沸点へと達した。この下町の片隅に対して芽生え始めていた帰属意識、そして今や自分を『赤べこ』の正当な労働者として認識してくれる市場の人々との等価交換の絆。それらが、彼女の幼い自尊心を烈しく突き動かしたのだ。いつきは後先を計算することなく竹箒を壁に立てかけると、猛烈な足取りでその摩擦の中心へと突進していった。

「おい! 酒精に脳みそを溶かした生ゴミども! 年寄りをいじめてんじゃねえもん!」

 いつきは鋭い叫び声を上げ、汚れた細い指先を、体躯の大きな男の顔面へと真っ直ぐに突き付けた。

 二人の男たちの下劣な笑いが、ピタリと停止した。彼らは緩慢に首を巡らせ、充血した赤い眼球でいつきを凝視した。その瞳の奥には、裏の社会の暴力とは異なる、特権階級が弱者に向ける独善的で危険な侮蔑の光が宿っていた。

「あ? どこの馬の骨とも知れんクソガキが、誰に向かって口を利いてやがる」

 体躯の大きな男が鼻で笑い、その物理的な質量をもっていつきを圧迫するように一歩前へ踏み出す。いつきがその圧力から退避のステップを踏むよりも早く、男の肉厚な手のひらが、彼女の細い肩を容赦なく烈しく突き飛ばした。


―――バシッッ!!!


 いつきは完全に身体の均衡を喪失し、その小さな肉体は冷たく湿ったアスファルトの上へと無様に叩きつけられた。色褪せた緑色のズボンが一瞬にして泥水に汚れ、セメントの地面と激しく摩擦した右肘から、生々しい赤い血液が微かに滲み出す。その瞬間、路上生活で幾度となく味わってきた、あの剥き出しの「恐怖」が彼女の胸壁を冷酷に締め付けた。『赤べこ』の強固な木壁という聖域の外側に出てしまえば、自分はやはり、都市の暗がりに漂うだけの、何一つ力を持たない脆弱な子供の幽霊に過ぎないのだという現実を、彼女の脳細胞は嫌というほど自覚させられた。

男は冷酷な笑みを浮かべたまま右足を振り上げ、地面に蹲るいつきの脇腹を物理的に粉砕せんと、その靴底を振り下ろそうとした。いつきは反射的に両目を硬く閉じ、これから来るであろう激痛を予期して全身の筋肉を硬直させた。

 しかし、その肉体的破壊の衝撃は、いつまで経っても訪れなかった。


―――ゴォンッ。


 路地の奥から響いてきたのは、地響きのような、圧倒的な質量を感じさせる重厚な足音だった。その一歩がアスファルトを踏み鳴らした瞬間、どん詰まりの路地の気圧が急激に低下し、辺りの空気が一瞬にして絶対零度へと氷結していくかのような、凄まじい威圧感が爆発した。男たちの下劣な笑い声は、その不可視の圧力によって物理的にへし折られ、完全に消失した。

いつきは恐る恐る、重い瞼を持ち上げた。

 そこに直立していたのは、タコだった。

 二メートルを超える裏の社会の巨躯が、いつきと二人の男たちの間に、強固な防壁として割り込んでいた。漆黒のシャツのボタンは大きく外され、そこから首筋を這い上がって顎のラインにまで達する、あの獰猛な龍の墨が裸電球の光の下で不気味にうごめいている。彼の昏い眼球は感情を完全に排しており、眼前の男たちを、まるで処理すべき無価値な肉片としか認識していないかのような、絶対的な捕食者の冷徹さを宿していた。

 タコの背後からは、肉厚な体躯を誇示する四人の手下たちが闇の中から音もなく染み出し、一切の光を遮断するように腕を組んで並び立つ。それは、どのような物理攻撃をも通さない、コンクリートの防壁そのものだった。

「お、お前……一体何者だ!?」

 大きな男は虚勢を張って吠えつこうとしたが、その声帯は恐怖によって激しく震え、生存本能の命令に従って、足元は一歩、また一歩と後退を開始していた。

 タコは言葉による通信を試みなかった。彼はただ一歩前へ進み出ると、強靭な右腕を電光石火の速さで駆動させ、男の顎の骨を完全に鷲掴みにした。そして、その質量を上空へと強引に吊り上げる。男の踵が地面から浮き上がり、彼は肺の中の酸素を確保するために、爪先立ちの状態で無様に身悶えするしかなかった。

「この界隈じゃな、下水のドブネズミでさえ、足音を立てずに歩く規律ってやつを知っているぞ、余所者」

 タコの声は低く、そして地鳴りのように重かった。男の耳頭のすぐ近くで、明確な殺意の振動となって響き渡る。

「お前がその汚い指先で触れたガキはな、俺が毎夜、仕入れ原価を支払って料理を食う店の構成員だ。俺の守るべき防衛領域を汚したその対価、おい、今すぐその突っ張った足首をごっそりへし折って、帳簿の帳消しにしてやろうか?」

「ひ、うあ……申し訳、ありません……!」

 もう一人の男は、タコの長外套の襟元に刻印された、あの東口を統括する冷酷な組織の紋章を網膜に捉えた瞬間、全身の骨が消滅したかのようにその場に頽れ、湿った路面の上に平伏して激しく命乞いを始めた。

 タコはゴミを投棄するように右手を放し、男の巨躯を水溜まりの中へと乱暴に叩き落とした。

「俺の脳細胞が変形して、お前たちを挽肉にするロジックを完成させる前に、その視界から完全消滅しろ」

 タコの冷酷な通告が終わる前に、二人の男たちは這いつくばった姿勢から弾かれたように立ち上がり、幹線道路の歓楽街の闇に向かって、二度と首を巡らせることなく全速力で逃走していった。路地裏には再び、いつきの荒い呼吸の震動音だけが静かに残される。

 タコはゆっくりと身体を反転させ、地面に座り込んだままのいつきを冷淡な目で見下ろした。彼は衣服の汚れを払うための手を貸すことも、あるいは子供を慰めるような「怪我はないか」といった安っぽい感傷の言葉を投資することもしなかった。

「ガキ」

 タコの声は、いつもの平坦で重々しい調子へと回帰していた。

「自分の稼働効率に見合わない戦力しか持っていないなら、狂犬の前で二度と吠えつくな。お前の固有の義務は、赤べこの木床の衛生管理を徹底することだ。路地裏の英雄気取りの不経済な真似は、うちの帳簿には計上されてねえんだよ」

 タコはそれだけ言い捨てると、何事もなかったかのように背を向け、使い込まれた杉の引き戸に向かって大股で歩き始めた。

いつきはゆっくりと立ち上がり、ズボンに付着したコンクリートの粉塵と泥水を雑に拭い去った。タコの言葉はどこまでも粗暴で、配慮に欠けるものだったが、いつきの胸の奥には、どのような都市の暴力をも寄せ付けない、絶対的な安全圏に守られているという確信が満ち満ちていた。

 いつきは自らの竹箒を再び握り締めると、引き戸を滑らかに押し開けたタコの大きな背中の影を追うようにして、静かに店の中へと足を踏み入れた。

 一歩跨いだ瞬間に、凛の維持し続けている、あの濃厚で温かい出汁の香りが彼女の全身を優しく抱擁する。外の世界がどれほど不条理で騒がしくとも、ここには、明日も変わらず自分を人間として稼働させてくれる、本物の『我が家』の熱量が静かに沸き立っているのだった。


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