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おかえりなさい  作者:
■ ACT III: THE BOND OF THE CAT'S PAW

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第15話:酔っ払いと夜風

 口コミという名の人々の声によるつながりは、独自の経路を通じて、静かに、しかし確実にその効果を発揮していた。あの昼下がり以来、吹き溜まりの下町のどん詰まりにある路地裏には、シワの寄った背広を身に纏った者や、薄手の夜会服の生地を寒そうに震わせる余所者の姿が明らかに増加していた。秋の深まりを告げる冷酷な夜風がさらに勢いを増し、どこかで落ち葉を燃やす煙の臭気と、道路からの粉塵を無慈悲に巻き上げている。

 『赤べこ』の古い引き戸が滑るたびに、軒先に掲げられた赤暖簾が物理的な風圧によって烈しく翻った。


――ガラガラッ。


 午後十時を迎えた頃、首元のネクタイを不自然に緩めた壮年の男が、足元を千鳥足に狂わせながら店内に侵入してきた。その顔線は多量の酒によって赤黒く染まり、吐き出す呼気には安物の酒の不快な臭気が濃厚に混じっている。男はカウンターの丸椅子の一つへと、物理的な自重をそのまま衝突させるように頽れた。


――ドスンッ。


 重い衝撃音が響き、男はそのまま頭の激しい痛みに耐えるように、綺麗に磨かれた杉の木面の上へと重い頭を投げ出した。

「あったかいものを……何でもいい、胃袋に……」

 男の口から漏れた言葉は焦点が定まらず、酷く掠れていた。中央駅の本社で上役から強要された接待の酒席により、肉体の制御システムが完全に破壊されているのは明らかだった。

 カウンターの奥で、洗浄の完了した清潔な器の残数を黙々とカウントしていた凛は、一切の感情を排した瞳でその男を凝視した。凛の脳内にある実利的なロジックは、即座に眼前の状況を分析する。この極限の泥酔状態にある肉体に対し、通常の脂分を含んだ鶏肉の鍋料理を提供することは、消化器官に対する過剰な負荷となり、不経済な結果を招く可能性が高いと瞬時に弾き出したのだ。

 凛が代替案の構築のために動くよりも早く、アンナの身体が駆動した。三十歳になる彼女は、厨房の奥から自らの調合専用に確保している真鍮製の小さな鍋を手に取り、凛の前へと歩み寄った。

「凛ちゃん、この哀れな犠牲者の処理はうちに投資させてちょうだい」

 アンナの声は低かったが、その目元の奥には、夜の街で長年夜の住人たちの生態を観察してきた者だけが持つ、深い理解の光が宿っていた。深夜まで理不尽な酒による毒素を強制注入され、肉体と精神の双方を摩耗させている労働者の生存苦痛を、彼女は誰よりも精緻に把握していたのだ。

 アンナは小さなコンロに点火した。彼女は凛が維持している大ぶりの銅鍋から、正規の出汁を掬い上げるような真似はしなかった。代わりに純粋な水を沸騰させると、そこに細かくすり潰した新鮮な生生姜、水分を絞った大根おろし、各家庭の規律によって醸造された米酢を数滴、 warm して味覚の緊張を和らげる白味噌のペーストを正確な比率で投入していった。

「いつき、裏の備品棚から、熱いお湯を含ませた手ぬぐいを持ってきなさい」

 アンナは手元から視線を逸らさずに厳格な指令を発した。

「分かってるもん!」

 いつきは鼻にかかった聲音で応じ、迅速なステップで裏の部屋から湯気を立てる清潔な布を回収すると、それをアンナの手元へと委ねた。いつきは長机の端で静かに佇んでいた天野の隣に直立し、アンナの無駄のない調理稼働をその丸い瞳で凝視していた。

 アンナは熱い手ぬぐいを几帳面な手つきで四角形に折り畳み、泥酔した男の震える手のひらのすぐ傍らへと静かに設置した。間もなくして、真鍮の鍋から小さな磁器の器へと、完成した特製のスープが注ぎ分けられる。立ち上る真っ白な湯気は、生生姜の鋭い刺激を孕みながらも、男の周囲を汚染していた酒の臭気を物理的に中和し、カウンターの空気を清浄なものへと書き換えていった。

「これを飲みなさい、旦那様」

 アンナの声は刺々しかったが、その調子には、職人としての絶対的な信頼性が宿っていた。

 壮年の男はゆっくりと重い頭を持ち上げ、くすんだ双眸で器を見つめた。彼は震える両手で磁器の境界線を包み込むと、熱い液体を一口ずつ、慎重に喉の粘膜へと流し込んでいった。


 その瞬間、生生姜の持つ力強い熱量と辛みが食道を直撃し、酒によって炎症を起こしていた胃壁を優しく保護するように包み込んでいった。米酢と大根おろしの成分が、肉体内部に残留していた毒素の分解プロセスを急速に活性化させていく。男の顳顬で烈しく鳴り響いていた痛みの震動が、目に見えて減退していった。男は鼻から深く、長く、滞留していた呼気を出力した。それは、自らの胸壁を一日中締め付けていた不条理な義務の重りを、ようやく地表へと降ろすことができた人間の放つ、安堵の絶叫のようだった。

「あ……これは、信じられないほど……腹の奥が温かい……」

 男の口から漏れた声音は震えていた。次の瞬間、彼の目元から一滴の水分が前触れもなく決壊し、杉の机の上に小さなシミを作って落下した。

「頭の……あの割れるような痛みが、完全に消えていく……」

 男はその特製のスープを最後の一滴に至るまで完全に消費すると、器をコンと静かに置いた。彼は背広の内ポケットを不器用な手つきで探り、一枚の千円札を取り出すと、それをカウンターの上に設置した。

「本当に助かりました……この素晴らしい回復薬の対価は、いくらお支払いすれば計算が合いますか、お嬢さん」

 アンナはその現金を回収しようとはしなかった。彼女は空になった器を無造作に引き寄せると、男の前に置かれた紙幣を、冷淡な手つきで彼の側へと押し戻した。

「そのスープの販売価格はゼロよ」

 アンナは平坦に言い放ち、そのまま男に背を向けて洗い場へと向かった。

「うちの店じゃね、ただの生姜の茹で汁から利益を計上するような不経済なシステムは採用してないの。その現金はね、あんたが安全に自宅の座標へと帰還するための、深夜移動車の決済代金として保存しておきなさい。外の夜風はね、あんたの想像以上に冷酷よ。路上のアスファルトの上で機能停止されたら、こっちの営業妨害なんだから」

 男は完全に虚を突かれた表情で立ち尽くした。彼はアンナの作務衣の背中を見つめ、それから、レジスターの脇に直立している凛の無表情な顔を見上げた。凛はアンナの独断による無償の提供に対し、一切の論理逆転を行わなかった。凛の経営ロジックは、顧客が店内で完全に機能停止して倒れ、それによって発生する救急手続きや店舗の信用棄損という重大な機会損失を考慮した場合、一掴みの生生姜と一匙の味噌という微小な原価を償却することの方が、長期的な生存確率において遥かに合理的であると冷徹に肯定していたのだ。

 壮年の男は丸椅子から立ち上がった。彼は厨房の領域に向かって、自らの背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま深く一礼を捧げると、侵入してきた時とは見違えるほど確実な足取りで、古い引き戸を開けて外へと退散していった。


――ガラガラッ、バタン。


 引き戸が完全に閉ざされ、夜の静寂が戻る。いつきはカウンターの前に歩み寄り、不審そうな丸い瞳でアンナの横顔を睨みつけた。

「ねえ、クソババア……。あんたが一番、この店に労働をしない怠け者が入ってくるのを嫌がってたじゃん。何で今夜は、あんな酒に溺れた無価値な酔っ払いに、無償でスープのエネルギーを投資したんだもん?」

 アンナはスポンジを動かす手を止め、湯気の残る洗い場を見つめながら、深く、長い溜め息を吐き出した。

「あの人はね、いつきちゃん。労働を放棄した怠け者なんかじゃないわよ」

 アンナの形の良い唇に、成熟した大人の、嘘のない確かな温かい笑みが静かに浮かび上がる。

「あの人はね、外の冷酷な世界で、自らの大切な家族の生活基盤を維持するために、自らの肉体を酒という毒素で破壊しながら命懸けで戦ってきた戦士なのよ。うちらに必要なのはね、夜が訪れて世界が完全に凍りついたとき、安っぽい欺瞞の慰めの言葉じゃないわ。ただ胃袋の底を物理的に暖めて、自分が明日も一人の人間として生存しているっていう事実を自覚するための、本物の熱量だけなのよ」

 凛は男の残していった熱い手ぬぐいを回収し、それを洗浄するために、四隅を綺麗に揃えて折り畳んだ。彼女の顔線は相変わらずセメントの壁のように硬質であり、メロドラマのような感傷の涙を浮かべることは絶対にない。しかし、自らのシステムの中に、アンナという優秀な構成員がもたらす「数値化できない本物の暖かさ」が存在しているという事実に対し、彼女の理知は深い敬意を抱いていた。

 薄暗い『赤べこ』の聖域の中で、この場所の固有の機能は、彼らの具体的な共同労働によってさらに強固に規定されつつあった。古い木壁の向こう側、外の世界で吹き荒れる冷酷な夜風の脅威から逃れてきた者たちにとって、アンナの放つ本物の暖かみは、単なる一杯のスープの質量を超え、摩耗しきった魂の欠損を確実に修復する、至高の防衛システムとして機能していた。明日もまた、この生きた厨房の火が駆動を続ける限り、世界から見捨てられた者たちの座標は、この場所において等価交換の形で守られ続けるのだった。


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