第99話 最強のカード
「赤いの。ひとつお願いがあるんだけど」
軽く呼びかけながら、結界をコンコンと叩くと、硬い感触が返ってくる。
「俺、この結界に閉じ込められているんだ。壊せないかな?」
言ってから少しだけ間が空く。
無茶振りだとは思うが試す価値はある。
「いいだろうユウナギ。言葉を教えてくれた礼だ」
竜がゆっくりと首を持ち上げる。さっきまで背景の一部みたいに動かなかったのに、いざ動き出すと規模が違う。まるで岩山が、そのまま意思を持って起き上がったみたいだ。
巨大な頭がこちらへ迫る。落ちてくる巨石みたいな勢いで、一気に視界が赤に埋まる。
顎がゆっくりと開いていく。
赤黒い洞窟のような口腔が、まるで世界そのものを呑み込むように迫ってくる。
「ちょっ、待っ――」
言い切る前に、
ガァンッ!!
鼓膜を殴るような音が叩きつけられる。反射的に肩が跳ねた。
だが、サンクチュアリは微動だにしないまま、ただそこにある。
「うわっ!!」
叫び声が勝手に出る。次の瞬間、耳をつんざく音が続く。硬いもの同士がこすれ合う、嫌な響きだ。
竜はそのまま顎に力を込めている。
ギリ……ギリギリ……。
歯が何かを押し潰そうとする音が、断続的に響く。結界に食いついているのは分かるが、見ていられない。
俺は思わず枕を掴み、そのまま顔を埋める。視界を塞いでも音だけは容赦なく入ってくる。
――お願いなんて、しなきゃよかった!
しばらくして、音が止む。あれだけ激しかった激音が、嘘みたいに途切れる。
竜が顎を離す気配。圧が抜けるような、そんな感覚だけが伝わってくる。
俺は恐る恐る顔を上げる。
サンクチュアリは何も変わらず、結界にひびひとつない。
竜は小さく鼻を鳴らす。さっきまでの激しい音が嘘みたいに、涼しげな仕草だ。
「壊れぬな……。この結界、世の理から外れている」
全力で噛み砕こうとした直後とは思えない落差に、こっちの感覚がおかしくなる。
「赤いのでも無理なのか……」
思わず口から漏れる。あれだけの衝撃だ。音だけでも十分すぎるほどだったのに、結果がこれでは納得しろという方が無理だ。
結界に触れると、何も変わらない硬さが指先に返ってくる。
「ユウナギの願いは果たせなかった。別の願いでも良いぞ」
――別の願い。
頭の奥に、すっと浮かぶ。
『ケイシーを助けてくれないか』
だが、すぐに打ち消す。
そんなことを頼めば、怪獣映画みたいに、全部まとめて踏み潰される惨劇が目に見える。
クソ禿がどうなろうと知ったことじゃない。だが、巻き添えで町が消し飛ぶのは話が別だ。
まぶたを閉じて、他に竜が叶えられそうな願いを考える。
しかし、思い浮かぶのは、ケイシーの笑顔。
光に透ける髪の色。言葉を選ぶ前に少しだけ首を傾ける癖。柔らかな声。
思い返すほど、胸の奥がじんと痛む。
竜との戦闘を避け、助力を得るという目的は達成できた。
ケイシーを無事に救出する。そのために使える強力なカードだ。出すタイミングは慎重に決めたほうがいい。
「すぐには思いつかないな。貸しにしておいてくれないか」
「良いだろう」
竜の口元が、わずかに歪んだ気がする。だが、硬い鱗に覆われた顔からは、やはり表情は読み取れない。
クウと俺の腹が鳴る。そう言えば昼から何も食べていない。
「そろそろ帰るよ、お腹もすいてきたし」
「人間は食事をするのだったな」
背筋がゾクリと逆立つ。
無邪気な子供が蟻の巣に水を流し込むように、コイツは食欲ではなく好奇心で――
「頼むから、試しに人間を食べてみようとか思わないでくれよ」
「ああ、無駄なことはしない」
「無駄……か」
人間の命など試す価値すらないと言いたいのか、それとも、食欲のない己に食事など無意味だと言いたいのか……。願わくば後者であって欲しい。
「ユウナギ。また来い。話をしよう」
「また来るよ。約束する」
さっきまで警戒していた相手に、こんな約束をするのも妙な話だが、不思議と違和感はない。
軽く手を振ると、竜は返事をするみたいに、ゆっくりと瞬きをした。
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