第96話 起こしてはいけない相手
俺はしばらく黙ったまま、火口の底を見下ろしている。
火口は途方もなく広い。
見渡す限り黒い岩肌が続き、その底は意外なほど平坦だ。溶岩も噴気もない。死んだ火山そのもの。
その広大な底の中心に、赤い塊が沈んでいる。
形を認識するまでに一拍かかる。鱗が重なり、光を鈍く返しながら、地面と一体化しているように見えるせいだ。
眠っている。
だが、その静けさがやけに重い。動いていないのに、押し寄せてくる感覚だけがある。
風の音が火口の内側をなぞるように鳴る。その音で思考が止まっていたことに気づく。
「遠いな……」
「どうしますか?」と、ジュディが、竜から視線を外さないまま問う。
「俺には行くという選択肢しか残されていない」
言い切ったあとで、喉の奥がわずかに詰まる。
竜が人を食ったという話は聞かない。理屈では、安全寄りの存在だと判断できるが、それにしても巨大というだけで十分すぎるほどの恐怖だ。
足を踏み出す理由を探している自分に、ふと気づき、それと同時にケイシーの顔が浮かぶ。
薄暗い地下牢。
じめっとした空間。
手足を鎖で繋がれ石壁に固定されている。
怯えながら涙を流すケイシー。
その前には、クソ禿が鞭を持ち、にやついている。
――やめろ!!
胸の奥が、じわっと熱くなる。怒りか、焦りか、区別はつかない。
「アイキャンフライ! ユーキャンフライ!!」
突然、サリーが叫ぶ。
間が悪いのか、絶妙なのか、判断に困るタイミングだ。
肩に入っていた力が、すっと抜け、小さく笑いが漏れる。
「おまえは飛べないだろ」
ふうと強く息を吐き、胸の奥に溜まっていた恐怖を追い出す。
そしてサンクチュアリを、ゆっくりと滑らせる。
斜面を下るにつれて、竜の輪郭がはっきりしてくる。
まず目に入るのは、折りたたまれた鱗の翼だ。分厚い鱗が何層にも重なり、羽ばたくための軽さはまるでない。どう見ても空を飛ぶための形ではなく、地面に沈み込むほどの重さを感じさせる。
さらに下へと視線を移すと、長い首が地面を這うように伸びている。
そして、地面に近い位置には、太く鋭い爪と、体重をしっかり支えるための力強い四肢がある。爪は大地に深く突き刺さり、脚は大型の獣を思わせるほど頑丈だ。眠っている今でさえ、その脚が動けば大地ごと揺れそうな迫力がある。
俺は一瞬だけ後ろを振り返る。
ジュディは火口の縁で止まったままだ。
こちらを見守っている。いや、あれは恐怖で動けないのだろう。だが問題ない、彼女は案内役だ。無理に連れてくる理由はないし、そもそも連れてきたくもない。
視線を前に戻し、さらに下る。
距離が縮まるたび竜の存在が膨らんでいく。視界の中で、というより、感覚の中で大きくなる感じだ。
よくわからない圧が肌をピリつかせる。
無意識にサンクチュアリの進みが遅くなっている。
理性は前へ行けと言う。
本能は全力で引き返せと叫ぶ。
そのふたつが胸の奥でぶつかり合い、息がうまく吸えない。心臓の鼓動が大きく響く。
それでも、立ち止まるわけにはいかない。
ここで引いたら、もう二度と近づけない気がする。
喉が張りついて声も出ないのに、声を届けるために進まなければならない。
じわりと進むたび、背中を冷たいものが撫でていく。
怖い。
けれど、怖いままでいい。
震えたままでも、前へ進むしかない。
声が届きそうな位置で止まる。
巨大な頭部が視界を覆う。
ワニに似た輪郭で、閉じた口の隙間から牙が覗いている。白く汚れがない。嫌にきれいで逆にぞっとする。
サンクチュアリごと、余裕で飲み込めるサイズ。考えたくないのに、脳が勝手に比較してくる。
規則的な寝息が低く響く。遠くで大型トラックがアイドリングしているみたいな、あの腹に残る振動に近い。
自分の鼓動が、やけにうるさい。
呼吸を意識する。
深く吸って、ゆっくり吐く。
繰り返すたびに、少しずつリズムが整っていく。
サンクチュアリの結界ならば、もしかしたら竜の攻撃を防げるかもしれない。そんな淡い期待がなければ、近寄ることすらできないほどの重厚な圧が漂っている。
刺激しないように、優しく声を落とす。
「起きてるか?」
声が自分の耳に届かない。
出したはず。しかし、声になっていない。
喉を擦る細い音だけだ。
情けない。
ここまで来て、声すら出せないのか。
両手で頬を叩く。
パンと乾いた音。遅れて、じんわりと痛みが来る。
ふうと強く息を吐く。
「起きてるか?」
ケイシーたちと普通に話せるのは、サンクチュアリの翻訳のおかげだろう。
試しに馬にも話しかけてみたことがあるが、あれはまったく通じなかった。こちらの言葉に反応する気配すらなかった。
推測だが、ある程度の知能がなければ、翻訳自体が成立しない。
そう考えると、竜が対象に含まれるかどうかは、完全に賭けになる。
「竜よ、話がある」
まぶたも、喉も、尾も、何一つ反応しないままだ。
「目を覚ましてくれないか」
返事はない。
その静けさに、ほんのわずかに安堵が走る。
けれどすぐに、不満が胸の奥でざらつく。
起きてほしい気持ちと、起きてほしくない願いが絡まり合い、どちらが本音なのか自分でも分からなくなる。
ただ、その曖昧さだけが、じわりと苛立ちに変わる。
「おい! 竜!」
なぜ俺が、恐怖を押し殺し、ここまで来なければいけないのか。
行き場のない感情が、目の前で気持ちよさそうに寝ている竜に向けられる。
だが声は、広い火口の中で拡散して、そのまま上に抜けていく。
「マスター、ストップ! ストップ!」
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