第94話 欲しいのは信仰ではない
建物の横手へ回ると、視界がふっと開ける。壁に囲まれた小さな庭があり、石のベンチがひとつ、あとは低木がいくつか植えられているだけの簡素な造りだ。
装飾らしい装飾はない。だが、その分だけ人の気配が薄く、外の通りよりも静かに感じる。
女性はそこで足を止める。
ゆっくりと振り返る動きには余裕が感じられる。
「わたくしはグラントリー。赫竜教の主教を務めております」
軽く頭を下げる仕草も同に入っている。
――主教、か。
宗派ごとに呼び方が違うせいで、正確な序列はわからない。ただ、身につけている衣服と、さっきの対応を見る限り、それなりどころか、かなり上の立場と見ていいだろう。
俺も小さく頭を下げ、
「夕凪です」
「ええ、存じております」
間髪入れずに返ってくる。グラントリーは穏やかに微笑み、その視線はまっすぐこちらを捉えたまま揺れない。
「ここは辺境ですが、王都の噂くらいは耳に入りますもの」
……やっぱりか。
この町でも名前は通っているらしい。内容がどう転がっているかまでは、想像したくないが。
「実は、赫竜教に強い関心がありまして。それと、竜についてもぜひ知りたい」
「あらまあ、それは結構なことです」
グラントリーは目を細める。その表情に、警戒は見えない。むしろ、ほんの少しだけ、歓迎の色が混じっているように見える。
穏やかな調子を崩さないまま、静かに語り始める。
「赫竜教は、竜を信奉する教えです」
胸元に軽く手を添える仕草が、儀礼の一部みたいに自然だ。神前の前でやや目線を落とすように目を細める。
「竜は生物の頂点に立つ存在。不変であり、強さの象徴であり、支配者であり、そして世界の創造主です」
「竜神とは呼ばないのですね」
グラントリーは小さく笑い、
「この世に神など存在しません。他の宗教が神と崇めている存在。それが竜です。ですから竜神と申しますと“腹痛が痛い”のような重言になってしまいますわ」
角が立つ内容のはずなのに、妙に軽やかで、冗談めいてすら聞こえる。その分、芯の硬さが逆に際立つ。
「竜が予言や神託を下すことは?」
「ありません。竜は世界を見守る存在。人間だけ特別贔屓することはございません。竜に願わず、見返りを求めず、ただ正しく生きる。それが赫竜教の教義です」
思っていたより、ずっと“まとも”だ。
信仰にありがちな都合のいい解釈が少ないぶん、むしろ現実寄り。
「竜が人を襲うことはないのですか?」
「赫竜教が生まれるより、ずっと昔の話ですが、名をはせたいと願う者たちが、竜へ挑戦したことはあったそうです」
「結果は?」
「近づくことすら叶わず、相手にもされなかったようです」
淡々と、誇張も脚色もない、そんな言い方だ。
危害を加えない竜。人にとって都合がいい存在と言うべきか……。
「聞きづらいのですが、竜が支配者であるならば、領主の支配は受け入れられない、とお考えですか?」
グラントリーは、表情を崩さないまま、ゆっくりと首を傾げた。その仕草に、拒絶も警戒もない。
「その問いにお答えするには、歴史を語らねばなりませんわ」
「聞かせてください」
グラントリーは胸の前で手を組み、そのまま静かに語り出す。声の調子は変わらないが、さっきよりもわずかに重みが乗る。
「この地には、遥か昔から竜がいたのです。先住の民はその竜を祀り、敬い、共に生きておりました。それが赫竜教の始まりです」
滝や山を神格化するのと同じ構造だ。自然崇拝の延長線上にある、と考えれば筋は通る。
「しかし、やがて王国との戦争が起こりました。先住の民は敗れ、この地は王国の支配下に置かれます。その際に築かれたのが、この城塞都市なのです」
「つまり、都市の半数が赫竜教徒なのは」
「ええ。もともとこの地に住んでいた者が多いからです。王国への恨みは、もうほとんど残っておりません。戦争は過去のこと。わたくしたちは竜を敬いながらも、今の支配体制を受け入れております」
「過去の戦争に囚われるより、現状を維持する方が得策だと判断したわけか」
「わたくしたちは争いを望みません。竜もまた、争いを好まぬ存在ですから」
言葉の端に迷いは感じられない。しかし、それが逆に不自然だ。
質問に即答せず、わざわざ歴史から積み上げた。表の理屈は整っているが、その裏に何もないとは思えない。
「最後にひとつ、竜を見ることはできますか?」
「竜の御座所へ続く道には、不埒者を通さぬための関所が設けてあります。もし竜の御姿を拝したくば、赫竜教に入信していただくしか――」
「入ります」と、被せるように答える。
自分でも早いと思うくらいだが、迷っている時間が惜しい。
グラントリーの目が、ほんの一瞬だけ見開かれる。
「では、まず教義の――」
「それは後でいい。先に竜を見たい」
言葉が少し強くなる。悠長に段階を踏んでいる余裕はない。
グラントリーは、そこで初めてはっきりと息を吐いた。わずかに、だが空気が変わる。
「特別扱いは致しません。入信する気がないのでしたら、お引き取りください」
「そうですか、残念です」
短く返すと、それ以上の言葉は続かない。グラントリーもまた、何も言わない。
さっきまであったわずかな興味が、すっと消えたのがわかる。視線が外れ、そのまま静かに背を向ける。
呼び止める間も、別れの言葉すらなく、赤い背中はそのまま建物の中へ戻っていく。
「あっさり引きましたね、いいのですか?」と、背後からジュディの声がする。
――こいつ、いつの間にか敬語だな。
「正攻法を試したにすぎないからな」と振り返らずに答える。
宗教関係者が頑固なのは、嫌というほど見てきた。偏見と言われれば否定はしないが、少なくとも“例外に期待する”のは効率が悪い。
特に、自分たちの教義に関わる部分となれば、なおさらだ。
「正攻法?」
問い返されて、今度ははっきりとジュディを見る。
「クソ禿は、オマエに竜の住処へ案内しろと命じた。つまり、何か手があるんだろ?」
「はい、案内します」と、なぜか嬉しそうに即答した。
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