第90話 憎しみの意味
「ジェラルド殿下が死んだ」
そう領主が言う。
けれど、意味が入ってこない。
「……は?」と、間の抜けた声が漏れる。
頭の奥で、遅れて、あの光景が浮かぶ。
王城の庭園。騎士たちの輪。
王と王子が向き合い、言葉を交わしたあの場面。
「おぬしはその場におったそうじゃな」
「……ええ」
「理由は分かっておろう」、眉間に深い皺が刻まれる。
「陛下とキサマが交わした不戦の誓い。ジェラルド殿下は、それを認めなかった。
この地は辺境じゃ。国境を守る砦でもある。
守るためには軍が要る。
兵が要る。
武具が要る。
軍備の増強は必須じゃ。
それを理解してくださっていたのがジェラルド殿下だったのじゃ」
怒鳴りはしない。声も荒げない。それでも、底に沈んだ苛立ちが、はっきりと滲んでいる。
「だが陛下は違う。不戦の誓いじゃと……愚かな話じゃ。
ジェラルド殿下はそれを止めようとした。
力ずくでもな。
じゃが失敗した……」
握る拳に力が入るのが見える。
「分かるか異世界人。
儂ら辺境の者にとって、ジェラルド殿下は希望だったのじゃ。
じゃから、キサマが、心底憎い」
言葉に、沸々とした熱が混じる。
弁明なら山ほどある。
だが、あの場の空気を知らない相手に並べたところで、意味はない気がする。
王都からここまで、いくつもの人間を経由して伝わった話だ。どれだけ形が変わっているのか、想像するだけ無駄だろう。
それに、王子を説得できなかったのは事実だ。
いや、あいつは、説得する気すら削がれる類の相手だった。
「異世界人は結界に守られているそうじゃな」
明確な敵意。そんなやつの質問に、素直に答える気にはなれない。
否定も肯定もせず、そのまま視線だけを受ける。
辺境伯は小さく鼻を鳴らし、
「おい。祭司を呼べ」
「ハッ」と、控えていた騎士が即座に動き、館の中へ駆け込む。
待つ時間が、妙に長く感じる。囲まれているせいか、それとも外れない視線のせいか。肌を刺す感覚が続く。
しばらくして、館から男が姿を見せた。礼服を着ている。動きが優雅で、足取りも静かだ。
「よろしくお願いします」と、辺境伯が、わずかに頭を下げる。
――この男、侯爵より立場が上なのか?
祭司は何も言わず、サンクチュアリの前まで歩いてくると、静かに手をかざした。
そして、ゆっくりと口を開く。
「精霊よ。
隔たりの影を見守るものよ。
この場を覆う見えざる縛めを識り、その結び目にそっと触れたまえ。
閉ざされた道理をほどき、滞りし気配を本来の在り処へと導きたまえ。
精霊よ、この願いを聞き届け、静かなる解放をここに示せ」
――精霊? この世界には精霊がいるのか。
それにリンダと呪文の系統が違う。マクダウェル教ではないな。
「どうですかな?」と、辺境伯が問う。
祭司はしばらく手をかざしたまま動かず、それからゆっくりと首を横に振る。
「……分かりません。精霊の力が通じないということは、この世の理から外れているのかもしれません」
祭司は深く頭を下げる。
「お力になれず申し訳ありません」
「いえいえ、ご足労感謝いたします」
辺境伯は穏やかに返す。その声音は先ほどまでの硬さが嘘みたいに柔らかい。
騎士がすぐに側へ付き、丁重に案内する。祭司は余計な言葉を残さず、そのまま館の外へと去っていく。
にしても、宗教の影響力がそこまで強くないのは、リンダたちとの付き合いで分かっている。それなのに、あの態度だ。侯爵が自分から頭を下げるほどの相手。
弱みでも握られているのだろうか。
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