第89話 只より高い物はない
「あ、町が見えてきましたよ」と、二階からケイシーの弾んだ声が落ちてくる。
もちろん、前を見ながらサンクチュアリを移動させているので気づいている。
地平線の先に細い線が浮かんでいる。それがゆっくりと輪郭を持ち、やがて石の壁だと分かる。空を横切るように伸びる城壁は途切れがなく、端が見えない。
「ここが、この国で最後の町……」
何気なく呟く。この気持ち、感傷でもないし、感動でもない。何だろう……達成感?
門の前には列ができている。荷車が軋み、御者が手綱を引きながら順番を待っている。
門の両脇には槍を持った衛兵。姿勢は固く、視線もよく動く。警備はやや厳重だが、辺境と考えれば妥当か。
俺は列の最後尾に向けて、サンクチュアリをゆっくり進める。視線は多少集まるが、すぐに逸れていく。
その時、
「ユウナギ殿」と、不意に名を呼ばれる。
顔を向けると、鎧姿の騎士が一人、こちらへまっすぐ歩いてくる。
見覚えのない男だ。門番とは違う。装備はよく磨かれ、動きに無駄がない。
騎士は俺の前で足を止めると、わずかに顎を動かし、街道の脇を示した。
「あなたはこちらです」
「列に並ばなくていいんですか?」
「必要ありません」
言葉は丁寧だが、感情は乗っていない。事務的な対応だ。
「分かりました」
軽く頷くと、騎士はすぐに背を向ける。振り返りもせず、そのまま城門の脇へと進んでいく。
その後に続き、列の横を通り抜ける。
何人かがちらりと視線を寄こすが、それだけだ。衛兵たちも同じで、俺たちを止める気配はない。
アミューズメントパークのアトラクションに優先的に乗れるパス。それを思い出す。お金と引き換えに待ち時間を短縮できる、資本主義を体現したかのようなシステムだ。
対価のない優遇なんて存在しない。この騎士が便利を図るのも何か理由があるはず。
気づけば、順番待ちをすることもなく、俺たちはあっさりと町の中へ入れた。
視界が開け、空気の質が少し変わる。
人の数は多いのに、ざわつきが少ない。声や足音は確かにあるのに、どこか抑えられていて、全体が静かにまとまっている。
前を行く騎士は、一度も振り返らない。こちらを気にする素振りもなく、一定の歩幅で進み続ける。案内というより、ただ“連れていく”動きだ。
「ありがとうございました。それでは失礼します」
騎士の動きを断ち切るように、素早く一気に言う。
彼はゆっくりと振り向くと、
「私は、案内するように命令を受けています。ついてきてください」
と、その声に温度はない。淡々と説明しているだけだ。
「お断りしたいのですが」
「ここは高い壁に囲まれた城塞都市。例えるなら鳥籠です。主の許可なしに出ることは叶いません」
俺には“鳥居”がある。町から脱出するのは簡単だ。けれど、“過去に行った場所”という縛りがあるから、隣国側へは出られない。
前へ進むためには許可をもらうしかない、か……。
「わかりました」
そう返事をすると、騎士は踵を返し、再び歩き出す。
しばらく進むと、建物の密度がふっと途切れ、視界が開ける。
町の中心に近いのだろう。そこに、高い塀で囲まれた大きな屋敷が構えている。
その造りには覚えがある。
石の塀、重厚な門、左右対称の配置。細部は違うが、全体の構成はよく似ている。ケイシーが働いていた領主邸と、ほぼ同じ設計だ。
嫌な記憶が蘇る。俺を軟禁していた、あの男のことを……。気分が一段落ちる。
騎士が門へ近づくと、控えていた兵士が慌てた様子で動く。金具の鳴る音とともに、重い門が内側へ開いた。
「こちらです」
短く告げて、騎士は再び歩き出す。
その背中に従う形で、俺はサンクチュアリをそのまま進める。
敷地の中に入ると、空間が一気に広がる。石畳の左右には手入れの行き届いた芝生が続き、低木がきっちりと列を揃えている。
「ここで待機してください」と言い、騎士は石畳の縁へ移動すると姿勢を正す。
サンクチュアリを止め周囲を警戒する。広い庭には、俺と案内してきた騎士しか見えない。
その時。コトン、と軽い音が上から落ちてきた。視線を上げるより先に、梯子がかすかに軋む。
少しして、ケイシーが二階から降りてくる。
最後の一段を踏み外さないように確かめてから、石畳の上に立つ。
「ユウナギさん」と、声に少し緊張が混じっているように感じる。
「ああ。たぶん領主の館だ」
そう答えると、ケイシーは小さく頷き、背筋をすっと伸ばす。肩の位置がわずかに上がり、視線も落ち着く。以前も似た表情を見たことがある、偉い相手に会うと判断したときの仕事の顔だ。
その時、別の騎士が、背後からすっと姿を見せる。足音がやけに静かで、気配だけが先に近づいてきたように感じる。いや、気配を消して近づいたのか。
「お前、こっちへ来い」と、短く言うと同時に、ケイシーの腕を掴む。
ケイシーの肩がびくりと跳ねた。一瞬だけ固まり、それから反射的にこちらを見る。驚きと、ほんの少しの迷いが混ざった目だ。
「待て。どこへ連れて行く」と、考えるより先に声が出る。
騎士は足を止めず、
「別室だ。ユウナギ殿。あなたには領主様がお会いになる」
「それは――」と、言葉を継ごうとした、その時。
館の玄関扉が、重い音を引きずるように開いた。木と金具が擦れる低い響きが、庭の空気を一段沈ませる。
同時に、中から騎士たちがぞろりと現れる。
彼らが素早い足運びで迫ってくる。
一瞬で間合いが詰まる。
気づけば、サンクチュアリの周りをぐるりと囲まれる。
最後に、館の奥から、ひとりの男が姿を現す。
禿げ上がった頭に、体毛の薄い肌。背丈は高くないが、石段を下りてくる足取りには妙な重みがある。ゆっくり歩いているだけなのに、視線が勝手に引き寄せられる。
質の良い外套を肩に掛け、そのままこちらへ向かってくる。
その一歩ごとに、周囲の騎士たちの空気がぴんと張り詰めていくのが分かる。誰も声を出さない。ただ、その男を中心に、場の重さだけが静かに増していく。
この館の主。それだけは、説明されなくても分かる。
男は俺の前で足を止めた。距離は一歩分。近すぎず、だが逃げ場を感じさせない位置だ。そのまま、じっとこちらの顔を見てくる。
遠慮がない。視線が滑ることもなく、まるで家畜の値を測る商人みたいに、こちらの価値を一方的に決めていく。
「儂はナサニエル・コル・アンダースン。この地を治める者じゃ」
低く潰れた声が、腹の奥に沈む。
ミドルネームが“コル”、確か侯爵だったはず。
なるほど、この館の規模も、この厳重さも、すんなり腑に落ちる。
「異世界人、おぬしの噂は嫌というほど耳に入っておる」
嫌というほど、か。
言い方に棘がある。歓迎の気配は最初からないが、ここまで露骨だと逆に分かりやすい。
「ジェラルド殿下が死んだ」
一瞬、意味が入ってこない。
「……は?」
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