第7話 結界の法則
リンダの足取りが、わずかに鈍る。
森は相変わらず勝手に道を開けているのに、彼女の歩幅だけが少しずつ小さくなっていくのが分かる。
俺はサンクチュアリを止める。
滑っていた景色がぴたりと止まり、静けさだけが残る。
ふと視線を落とすと、彼女の手が目に入る。
白い指先が、まだらに赤黒く染まっている。あれは、暴漢たちの血だ。
その手を見れば、嫌な記憶を思い出すだろう。
そうだ!
ヘッドボードにケトルが置いてあるのを思い出す。
「リンダ、手を洗おうか」
彼女は小さく首を振り、
「いいえ。森の中で水は貴重ですから、このままで大丈夫です」と、手を後ろに隠す。
確かにそうかもしれない。けれど、できれば嫌な記憶を早く忘れさせてやりたい。
しかし無理強いするのも気がひける……。
ならば――
ケトルを持ち上げ、軽く揺らすと、中で水が動く音がはっきり響く。
「水が結界を通るのか確認したいんだ。悪いけど水を受け止めてくれるかな?」
「え?」
驚くリンダを置き去りにし、ケトルを結界に寄せる。
注ぎ口が結界にコツンと当たる。
やはり通過はしない。
そのままゆっくり傾けると、水だけがすり抜けるように外へ流れ落ちていく。
リンダが受け止めるように両手を差し出す。
指の間をすべる水が血をさらい、地面へと細く落ちていく。
「木の実と同じように“自然物なら通過するのではないか”という仮説は立証された。実験につきあってくれてありがとう」
そう言うとリンダの眉がふわりと上がる。
「お役に立てて何よりでございます」
彼女は指をこすり合わせ汚れを落とす。
血は顔にも付いている。
「顔に浴びたら気持ちいいんじゃないかな」
そう言うと、彼女は少し驚いたように瞬きをしてから、今度は顔へと手を運ぶ。
頬をなぞるたびに汚れが薄れていき、白い肌が少しずつ戻ってくる。
「冷たくて、気持ちがいいです」
しばらくその様子を見ていて、ふと違和感に引っかかる。
これだけ水を流しているのに、手に持ったケトルの重さがまるで変わらない。
普通なら、とっくに空になっているはずだ。
けれど、考えかけて、やめる。
ここで理屈を探しても、たぶん答えは出ない。
そこに一陣の風――
リンダの服がふわりと揺れ、風にあおられた裾が一瞬だけめくれる。
無意識に視線が下がる。
太ももの内側に張りついた布の隙間から、赤黒い染みがのぞく。
布の奥、隠れている部分に血が飛んでいるのが分かる。
脱がされていた上着は返り血を浴びていない。
だから、外からはほとんど分からない。
その差が、逆に妙に生々しい。
運が良かったと言っていいのか……。
そんな判断をする自分に、わずかな引っかかりを覚えながら、俺はケトルを持つ手を止めたままでいる。
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