第67話 知らないものは大きく見える
ダニエルがトイレに向かって歩いていく背中を見送る。
その姿が木立の道の向こうに消えると、広場が急に広くなった気がする。
静かだ。
風の音と、遠くの鳥の気配だけが耳に残る。さっきまでは振る剣の、ブン、と空気を割く音が続いていた。それがないだけで、こんなにも空気が変わるのか。
間を置かず、足音が聞こえる。
ダニエルが、もう帰ってきたのかと思い、視線を向ける。しかし、姿を見せたのは、ついさっき別れたばかりの里長だ。
迷いのない足取りで俺の前まで来る。
体を起こし、彼女と向き合う。
「どうかなさいましたか?」
「いやなに、ユウナギさんと、もう少し話をしてみたくてねぇ」
――まさか、一人になるのを待っていた、か?
「そうですか。話し相手が務まるかわかりませんが、それでも良ければ」
そう返すと、里長はゆっくりと椅子に腰を下ろす。
少しの間。風が葉を揺らす。
「この里は、外からの変化にあまり強くなくてね。長く閉じた暮らしを続けてきたせいか、些細なことでも、皆が不安を抱いてしまうの」
視線の奥に、里全体を見ているような色が伺える。個人の感情と、集団の空気を切り分けて話しているようだ。
――内集団バイアス、か。
自分たちの枠を守るための、ごく自然な反応だ。排除までいかなくても、距離を取ろうとするのは当然だろう。
「その気持ちは理解できます。未知の存在が突然現れれば、どんな集落でも警戒するでしょう。私は、この広場から動かずに、できる限り里民の皆さんを刺激しないよう慎重に行動します」
里長の呼吸が一つ浅くなって、肩が、ほんのわずかに縮む。
「ユウナギさんを拒むつもりはないんだよ。ただ……あなたがどのような力を持ち、どんな常識で動くのか、まだ知らないことが多いのさ」
「“知らないものは大きく見える”というのは、どこでも同じですね。必要であれば、私のことを説明します。誤解を生まないためにも」
「ええ……、そうね……、なら、ひとつだけ確認させておくれ。ユウナギさんは、この里に何を求めて来たんだい?」
――やっぱりそこか。
さっきの言い淀みの正体がはっきりする。
ここを曖昧にしたままでは、いくら言葉を重ねても信用は積み上がらない。
里の視察。それだけなら、わざわざ異世界人を連れてくる必要はない。俺の存在そのものが、説明を要求している。
「あなたが“念のため”確認したい気持ちも理解しています。里を守る立場なら、まずそこを確かめるのは当然です」
「そう言ってもらえると、胸が軽くなるよ」
里長の表情が、ほんの少し緩む。硬さが取れた分だけ、本音に近づいた気がする。
さて、どう説明するか。
魔術適性の話は出せない。だが、濁せば逆効果だ。嘘と真実の間。このラインを守る。
「異世界人である私が、この地に来た理由は、身体的影響を調査するためなんです」
「身体的影響?」
「私が、この世界で生きていくために、この地特有の気候、風習、生活習慣、農作物、水、料理。それらが私の体にどのような影響を及ぼすのか詳細に調べたいのです」
調べたい項目は真実で、俺への影響調査は嘘。これならアランたちの行動に疑念を抱かれる可能性は低くなる。
里長はしばらくこちらを見ていたが、やがて小さく頷く。目の奥の緊張が、すっと引き、腑に落ちた、というような反応だ。
「なるほど、それでユウナギさんが直接来たんだね」
「そうなんです。ですから私が何かをすることはありません。このベッドの上で食べて寝る。それだけです」
言いながら、自分でもずいぶんと怠惰だなと思うが、事実だから仕方ない。
里長がクスリと笑う。肩の力が抜けた、自然な笑い方だ。
「そうかね。そりゃあいいご身分だねぇ」
「なので、こちらからのお願いです。どうか里で取れた野菜などを分けて頂けませんか」
「お安い御用さあね」
「お代は眼鏡の男からふんだくってください。彼が私の財布ですから」
そう付け足すと、里長は一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑いだす。乾いた広場に、その笑いがよく通る。
「あの男はユウナギさんのお目付け役じゃないのかい。それを財布だなんて」
「構いません。仕事熱心な彼は、里民の皆さんに根掘り葉掘り聞いて回るでしょうから、迷惑料ですよ」
「わかったよ」
まだ笑いの余韻を残したまま、里長は頷く。
俺は少し姿勢を正す。
「私はこの里の規律に従います。何か気になることがあれば、遠慮なく言ってください。あなたが安心できることが、私にとっても過ごしやすさにつながります」
里長の目が、ゆっくりと細くなる。
「あたしが不安がっているの、察したんだね。ありがとうよ」
軽く会釈する。その動きは控えめだが、さっきよりも距離が縮まっているのがわかる。
――ひとまず、第一関門はクリアか。
「そうだ! もうひとつ」と、思い出したように声を上げて、俺は指先で結界を軽く叩く。コンコン、と乾いた音が返ってくる。
「この結界を消してくれる人を探しているんです」
「結界?」
里長が興味深そうに身を乗り出し、ゆっくりと手を伸ばす。指先が透明な壁に触れて、そこで止まる。目には見えないが、確かに“そこにある”とわかる動きだ。
「ふむ……。たしかに結界があるねぇ」と、指先を少し滑らせるようにして、感触を確かめている。
「けどごめんよ、この里に結界を消せる者はいないのさ」
「魔法や魔術が使える人も、いないのですか?」
「狩りに出かける者は、ほとんど魔術が使えるよ。でもね、結界となると専門的に修行した者でもなければ覚えないさあね」
なるほど、と内心で頷く。
用途が違う。日常で使う技術と、体系的に習得する技術は別物だ。
「そうですか……。無理を言って済みませんでした」
肩の力を抜きながら言うと、里長はゆるく首を振る。
「こちらこそ助けてあげられなくて申し訳ないね」
それからしばらく、里のことや昔話のような他愛もない話を交わす。
内容は軽いのに、不思議と間が途切れない。こういう雑談ができる時点で、警戒はかなり解けているはずだ。
やがて、里長はゆっくりと立ち上がる。
「それじゃあ、あたしはこのへんで」
軽く手を振って、小道のほうへと歩いていく。その背中が木々の間に紛れて見えなくなるまで、そう時間はかからない。
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