第56話 小さな実験
「ケイシー、実験につきあってくれないか」
「実験……ですか?」
俺は結界に手を当て、
「これの特性を調べたい」
「わかりました。なにをすればいいですか?」
「そうだな……。ダニエルの拳では壊れなかった。それは打撃には強いという証明。ならば刺突はどうだろうか。点で力を集中させれば割れる可能性はある」
「それなら針で突くのはどうでしょう」
「いいな」
「ユウナギさん、トランクを出してください」
サンクチュアリの謎空間に入れてあるケイシーのレザートランクを取り出し、手渡す。
トランクの留め具を外すと、パチン、と小さな音がして蓋が開く。
俺はそっと視線を外す。覗き込むのは失礼だろう。空の雲を眺めるふりをしながら、耳だけが勝手にそっちを追う。
布の擦れる音と、何かが当たる小さな音。中を探っている気配が伝わってくる。
見ない。見ないけど……気になる。
パタンと、トランクの蓋が閉まる音。
「これ使えませんか?」
振り向くと、彼女の手元には小さな箱。その蓋を開け、細い裁縫の針をつまみ上げ、見せてくる。先端が光をわずかに反射する。いかにも“点”だ。
「裁縫道具持ち歩いてるの?」
「もちろんです。専属メイドですから」
可愛らしいドヤ顔に癒される。
――俺の服は傷まないらしいから、その道具が活躍することはないぞ。
「じゃあそちら側から突いてくれ。ゆっくりでいい」
「はい」
ケイシーが針を構える。手首がしなやかに動いて、結界へまっすぐ腕を伸ばす。
先端が触れる。
そのまま押し込もうとするが、ぴたりと、何かに固定されたみたいに動かない。
細い金属の先端がこちらを向いているせいか、視線が自然とそこに吸い寄せられる。
刺さるわけがないとわかっていても、目の奥が少しだけ緊張する。
「……進みません」
「予想通りだな。
次は引き出しに入れた生き物がどうなるのか検証する。仮説では死ぬ可能性が高い」
言いながらも、口の中に少しだけ引っかかりが残る。対象が“生き物”になると話が変わる。
「えっ……。死んでもいい生き物なんて……」
ケイシーは視線を落とす。さっきまでの軽さが少しだけ消えて、口元がきゅっと閉じる。
「そうだよな。可哀そうだと――」と、言いかけたところで、
「いました」
「え?」
「調理室にある生け簀では魚が泳いでいます。分けてもらってきますね」
顔を上げたケイシーの声は、さっきまでと同じ調子に戻っている。
言い切ると同時に、くるりと背を向け、そのまま迷いなく駆け出していく。
止める間もない。
――判断、早すぎないか。
残されたまま、少しだけ間が空く。
しばらくして戻ってきたケイシーは、水の入った桶を両手で抱えている。歩幅は小さいが、足取りは安定している。
「頂いてきました」
少しだけ息が弾んでいる。どれだけ急いだのか、その息遣いでわかる。
桶の水面が揺れて、光が細かく反射する。中をのぞき込むと、魚が尾を振る。
魚の命を奪うことに抵抗感はあるが実験のためだ、許してくれ。
「それじゃあ引き出しに入れてくれ」
「はい」
ケイシーは、ティーセットの置かれているテーブルを、脇へ移動させる。
実験の邪魔になると思ったのだろう、気の利く子だ。
それから彼女は、手を水に入れ、魚をすくい上げる。顔色ひとつ変えず、そのまま引き出しへ持っていき、躊躇なく、入れる。
――あ……。食材としか見てないのね。
マットレスの上に置いたままのトレーからティーカップを取り、ヘッドボードへ一旦退避させる。
「サリー、今入れた魚をトレーの上に出してくれ」
「おけまる」
軽い返事の直後、魚が現れる。
手に取ると、わずかにひんやりしている。
さっきまで水の中にいた温度とは違う、均一で冷たい感触だ。
指に力を入れても反応はない。ぴくりとも動かない。
そこに命の欠片は感じない。
「どうですか?」
「死んでるな」
サリーが前に言っていた、“原子の動きが止まる”という話が頭をよぎる。理屈は理解しきれていないが、少なくとも生きた状態を維持できないのは確定だ。
「そうですか……。入ってみようかなって思ってたんですよね」
「ちょっ、危ないからな。やめろよ。絶対だぞ!」
思わず声が強くなる。反射に近い。
「実験して良かったです。もう少しで、本当にやっちゃうところでした」
ケイシーが小さく舌を出す。いたずらっぽい仕草。
その一瞬。背中に、冷たいものが走る。
――笑い話じゃない。
俺は手の中の魚を見下ろす。動かないままのそれが、さっきまで水を揺らしていたのと同じ存在だと思うと、感覚が少しだけずれる。
「サリー、しまってくれ」
「りょ」
魚がふっと消える。
手のひらに残った冷たさだけが、妙に長く居座り続ける――
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