第40話 要注意人物
城門をくぐったところで、マシューが大きく息を吸い込む。胸いっぱいに空気を取り込んで、そのまま満足そうに吐き出した。
「はぁ~、町の空気ってやっぱ違うっすね。パンの匂いが鼻にしみるっす」
彼は森の中で、ずっと張りつめていた。そのせいか、穏やかな横顔を見ていると、こっちまで肩の力が抜けてくる。
「帰ってきた瞬間に深呼吸するなんて、そんなに恋しかったんですか」
「そりゃそうっすよ。森の匂いも悪くないっすけど、町の匂いは“帰ってきた”って感じがするっす」
言いながら、もう一度だけ小さく息を吸う。その動作がやけに自然で、ああ本当に戻ってきたんだな、と実感がじわっと広がる。
「ずっと気を張ってましたからね。お疲れ様です」
「案内役なんて、めったに来ない依頼っすからね。肩に余計な力が入ってたっす」
そう言い、ぐい、と背伸びをする。骨が鳴るほど腕を伸ばし、そのまま大きなあくびを噛み殺す。
緊張が抜けた瞬間って、どうしてこう無防備になるのか。
索敵は頼りきりだったし、足を止める判断も進路の選択も、彼の声が常に先にあった。
俺はその後ろで、安全圏から状況を傍観していただけだ。そう考えると、貢献度の差はなかなかえげつない。
少しだけ、申し訳なさが顔を出す。けれど同時に“適材適所だろ”と開き直る自分もいる。
ダニエルが首を回すと、ゴキリと乾いた音がやけに大きく響く。そのまま、
「ふぅ~~っ」と、肺の奥の空気を一気に吐き出す。
ゆっくりとこちらを見る。岩を削ったような無骨な顔が、ほんのわずかだけ緩んでいるのがわかる。
「“町に戻るまでが遠征”だったよな。これで俺たちの任務は終了だ」
――覚えてたのか。
あの時は、無理に進もうとするのを止めるための言葉だった。半分は理屈、半分は牽制のつもりだったが、こうしてそのまま返されると、妙にくるものがある。
「誰一人、欠けることなく帰ってこれて良かったです」
「ユウナギ殿には心配をかけたな。だが、悪いとは思っていないぞ。俺たちは任務を果たした。それだけだ」
「わかっています」
ダニエルは腕を少し動かして、ぴたりと止める。
その動きの意図に気づくまで、ほんの一拍かかる。
――ああ、そういうことか。
本来なら、ここで男同士の固い握手でも交わす流れだ。
「任務完了、お疲れさん」ってやつ。でも、俺の周りには結界がある。
思い出した、というより、最初から分かっていたことを改めて突きつけられたような感覚が、ほんの少しだけ胸に引っかかる。
ダニエルは何も言わず、そのまま腕を下ろす。
握手なんて形式がなくても、森の中で背中を預けて、同じ方向を見て進んできた時間は消えない。少なくとも俺の中には、ちゃんと残っている。
――まあ、あっちはどう思ってるか知らないが。
「マシュー殿がいてくれたおかげで、随分と楽ができたよ」
ジェイミーがすっと手を差し出すと、マシューは一瞬だけ目を丸くして、それからすぐに差し出された手を、力強く握り返す。
「お役に立てて光栄っす。こちらこそ、お二人がいなかったら帰ってこれなかったっすよ。また仕事があれば声をかけてくださいっす」
「もちろんよ」
握った手はすぐに離れる。けれど、その一瞬で十分だと言わんばかりに、二人とも自然に笑みがこぼれている。
握手なんて大した行為じゃないはずなのに、目の前で見ると妙に重みがある。言葉よりも手っ取り早く、関係性を形にしてしまう感じ。
俺はできないのに――
サンクチュアリの二階から、リンダが静かに降りてくる。梯子を踏む足音がやけに軽い。
あの醜泥の前で見せた狂乱は、もうどこにも見当たらない。今は落ち着いた表情で、きちんとした神官にしか見えない。
人って、ここまで切り替わるものなのか。
視線を合わせないように、少しだけ角度をずらす。気づかれない程度に、でも確実に。
「皆さん、怪我はありませんか?」
「俺は大丈夫だ。ほとんど傷もない」
ダニエルが胸を叩いてみせる。鎧越しでもわかるくらい力強い音で、自己主張がうるさい。
「ほとんど、ということは残っているんですね。では診ます」
「いい、いい、舐めとけばそのうち治る」
「……汚っ。素直に治療してもらいな」
ジェイミーが即座に突っ込みを入れ、そのまま逃げようとするダニエルの背を押す。
「かすり傷程度で魔法の世話になるなんて、騎士の恥だ。リンダ殿、ほんとに結構だ」
「そうですか」
「まったく、手のかかる子どもね」
ジェイミーが呆れたように肩をすくめる。ダニエルは聞こえないふりをしているのか、わざとらしく視線を逸らす。
ケイシーも二階から降りてくる。
軽やかな足取りで、最後の一段をすっと降りたところで、ちょうど全員の視線が自然と集まる。
その空気を察したのか、ダニエルが間を埋めるように口を開く。
「ケイシー殿の料理が美味しかったおかげで体力を保つことができた。君は良いメイドだな」
「ユウナギさんの専属メイドですから。そのくらい当然です」
そのフレーズは何度も聞いている。そのせいか、場の空気がふっと緩む。
「あの重苦しい森の中で……ケイシーが作ってくれた食事が、お腹を温めてくれたの。その温かさで、あたし、生きている実感が戻ってきたのよ」
「同意っす。それに、町の定食屋よりも旨い料理が食えたんだから贅沢っすよね」
ジェイミーとマシューが顔を見合わせて、同じようにケイシーへ視線を向ける。その表情が柔らかくて、彼女への感謝の気持ちが溢れているように見える。
「そう言っていただけると嬉しいです」
ケイシーは少しだけ頬を緩める。誇らしさと安堵が混ざったような、いい顔だ。
遠征中、空気が険しくなる場面は何度もあった。
けど、そのたびに鍋の湯気が間に入る。
無言で椀を受け取り、ひと口飲んで、少しだけ肩の力を抜く。その繰り返しで、どうにか均衡が保たれていた気がする。
理屈じゃなく、体に直接効いてくる感じ。
温かいものを口にするだけで、思考の角が取れていくあの感覚は、ちょっとしたバフと言ってもいい。
リンダが小さく咳払いをして、
「では、皆様、お疲れ様でございました」と、わずかに空気を整える。そして、そのまま丁寧に会釈する。
「私は狩人ギルドへ任務達成の報告に行って参ります」
「お、じゃあ俺っちも行くっす。どうせ報酬を受け取るんで」
「ユウナギ様への報酬は、すでにお支払い済みですが、想定を遥かに超える成果ですし、追加をお渡ししたいところですが」
そこでケイシーが、迷いなく一歩前に出る。
「いりません。あなたが誓いを守ってくれるなら、それで十分です」
ぴたりと場が静まる。
誓い――つまり、俺のことを外に漏らさないという約束。
神職が神の名を付けて誓った。そこにどれだけの重みがあるのか、正確にはわからないけど、少なくとも軽いものではないはずだ。
「もちろんです。
それと、余った物資はユウナギ様がお使いください。
その……、これからも、ご苦労なさると思いますから」
――苦労?
一瞬、言葉の意味を取り損ねる。
いや、意味自体はわかる。ただ、その前提が共有されていない感じがして、思考が一拍遅れる。
まだ何か隠しているのか、それとも俺が考えすぎているだけか。
「それでは、これにて失礼します。皆さん、お達者で」
リンダは軽く一礼し、そのまま静かな足取りで去っていく。
「じゃ、皆さん、あばよっ」
マシューが手を振り、リンダの隣へ並ぶ。
二人の背中はそのまま人混みに紛れて、小さくなっていく。
視界から消えたところで、ふと気づく。
――あれ……俺、誰にも褒められてない。
褒められなかったこと自体が問題じゃない。
みんなが互いを称え合う輪の中で、俺だけが少し外にいた。そんな位置取りだった気がする。
同じ時間を共有して、同じ場所を通ってきたはずなのに、その記録に自分の名前が載っていない。そんな違和感が、じわりとまとわりついたまま離れない。
「ユウナギ殿。疲れているところ悪いのだが、少し時間をもらっていいだろうか」
ダニエルの声が少しだけ硬い。さっきまでの緩んだ空気とは、違う種類の重さが混ざっている気がする。
「俺は、全く疲れていないので、かまいませんよ」
そう答えて後悔する。少し嫌みに聞こえただろうか。
ただ、ダニエルはなぜか視線を合わせようとしない。ほんのわずかに外して、言葉を選んでいるような間がある。
「今回の遠征が教会からの依頼なのは本当だ。
だが実は、もうひとつ、別口からの任務も受けていた」
「嫌な予感がしますけど」
「国王陛下からの命だ。異世界人の人となりを調査してこい、と」
「やっぱり!」
「やっぱり?」
ダニエルが小さく驚いて、今度はちゃんと目を合わせてくる。
「ジェイミーが、妙に熱心に異世界の話を聞いてきたし。感じる空気感が好奇心ではなく仕事の匂いだったんですよ」
「バレてたのね」
ジェイミーが肩をすくめる。隠す気がないのか、単に開き直っているのか……。
「騎士の俺たちに諜報活動させることが間違いなんだ」と、ダニエルが口を尖らせる。
「それで、どうして俺が調査対象になったんですか」
「グリーニング卿が主催したお披露目会で、“国王など不要”と、うたったそうだな」
「あれは俺のいた世界の話であって、この国がどうとか言ったわけじゃない」
――投獄なんて御免だ。
「真相はどうであれ、その発言で、ユウナギ殿は“要注意人物”となったわけだ」
「たったソレだけで?」と、思わず眉が寄る。
「おいおい、“たった”はないだろう。不敬罪で投獄されても文句は言えんぞ」
「その屋敷で、投獄とまでは行かないにしろ、軟禁されてたんですけどね」
「領主なら当然の対処だな」
「理不尽だ……」
小さくこぼすと、ダニエルは肩を揺らして、ほんのわずか笑う。
「それで、俺の調査は終了したと考えていいんですか?」
「とりあえずは」
「とりあえず、ねぇ……。結果はどうだったんです?」
「疲れた俺たちを気遣う優しさ。命の尊さを説く姿。まあ、国家転覆を狙う反逆者にしては覇気が足りない」
――褒めているのか? それとも軟弱者と言いたいのか?
「変な誤解されなくて良かった」
ジェイミーがすっと視線を細める。さっきまでの柔らかさが引き、仕事の顔に戻る。
「でもね、要注意人物なのは違いないの。
身体能力の数値化。
訓練方法の提案。
魔術の基礎理論。
私たちにはない発想ばかりだった。正直、驚かされたわ」
淡々と並べられると、妙に重みが出る。こっちとしては、どれも常識レベル。大した話をしたつもりはないんだけど。
「たまたま知っていただけです」
「その“たまたま”が興味深いのよ。だからユウナギ殿には王都に来ていただきます」
「それは、任意同行ですか?」
「少なくとも、あたしたちは説得するつもりよ。
もし聞き入れてもらえなかった場合、任務不履行で、あたしたちは処罰を受けることになるわね。
だから、その先どうなるかは、次に派遣された担当者に聞いてちょうだい」
にこり、と笑う。柔らかいのに、どこか逃げ場を塞ぐ形の笑み。
――嫌な言い回しだ。
こいつらがどういう連中かは、遠征中に嫌というほど見せられた。任務のためなら無茶もするし、引かない。
ここで俺が断れば、こいつらが処分される可能性は高い。軽いもので済む保証もない。
俺にわざわざそれを伝えた理由なんて、一つしかない。
「それ、遠回しな脅迫だ」
「理解が速くて助かるわ」
――確信犯かよ。
「教会の仕事は終わった。もうあなたたちとは無関係。どのような処罰を受けようが、俺には関係のない話ですよね」
「異世界人の、“人となり”の調査は終わったわよ」
――ズルい。俺の性格を読んで断らないと踏んでいる。
「俺の負けだ。どこへでも連れて行け」
「ご協力、感謝します」
ジェイミーが軽く頭を下げ、ダニエルも短く頷く。
その表情は、任務を達成した安堵と、ほんの少しの申し訳なさが混ざっているように見える。
騎士たちの笑顔は、不思議と、嫌いになれそうになかった――
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