第39話 小さな天使
俺の目の前で跪くリンダ。
結界には、彼女の唾液が白く糸を引いている。
キモチワルイ。
喉に逆流する異物を、ぐっと飲み込む。
「ユウナギさんの専属メイドを差し置いて、いったい何を言っているんですか!」
頭上から声が降ってくる。
次の瞬間、視界の上に影が差す。
反射的に見上げると、二階の縁から小さな影が飛び出す。
シュタッ。
軽い音と同時に、ケイシーが着地する。
膝を柔らかく使って衝撃を逃がし、そのまま顔を上げる動きが決まっている。
――どこの特撮ヒーローだよ。
場違いな感想が浮かぶ。
さっきまでの淀んだ空気が、一瞬でどこかに飛んでいく。
リンダが、ぬらりと首を向ける。
「黙っていてくださるかしら、ケイシーさん。わたしとユウナギ様が大事なお話をしているのよ」
声は静か。しかし、その奥に、冷たい刃が仕込まれているのが伝わる。
ケイシーは眉をひそめる。いつもの柔らかさが消え、少し低い声。
「話? それ、脅迫ですよね?」
「見解の相違ね。
そもそも、メイドが口を挟むような内容ではありません。“世界を救う”そういう壮大なお話です。控えてください」
ケイシーは一歩踏み出す。小さな靴音が、やけに強く響いた気がする。
「世界よりも、ユウナギさんのほうが大事なんですよ。おわかりですか?」
――俺が大事だと?
思考が、一瞬止まる。
ケイシーは構わず続ける。
「ユウナギさんは突然、異世界から来たんです。だったら、突然消える可能性だってあるじゃないですか。よって、あなたの理論は破綻しています!」
びしっ、と指が伸びる。
一直線にリンダを指し示すその姿勢が、妙に堂々としている。
――どこの裁判ゲームだよ。
ケイシーがこちらを振り向く。さっきまでの勢いはそのままに、なぜか妙に事務的な顔だ。
「ユウナギさん、今日使ったスプーン、出してくれますか?」
「え? ああ」
言われるまま、木を削り出しただけの、何の変哲もないスプーンを渡す。
ケイシーはそれを受け取ると、ためらいなくリンダへ差し出す。
「これを持って、もう一度浄化の魔法を唱えてください」
「いったい……」
リンダの動きが鈍る。さっきまでの迷いのなさが、ここにきて急に崩れる。
「いいから! 早く!!」
ぴしゃり、と空気を叩くような声。ケイシーにしては珍しい強さだ。
スプーンひとつで何が変わるというのだ?
リンダは一瞬だけ視線を泳がせ、それでも従うようにスプーンを握る。
指先に力がこもるのが見える。
そのまま胸の前に掲げる姿は、さっきと同じ祈りの構えだ。
「天界の主、神マクダウェルよ――」
詠唱が始まる。抑揚の整った声が、森の中へすっと広がっていく。
祈りが終わった、その瞬間。
薄紫の地面が、すっと消える。
しかも一部じゃない。
視界に入る範囲が、まるで水で押し流されたみたいに、音もなく色を失っていく。
「えっ?! いったいどういうことですの?!」
リンダの声が裏返る。さっきまでの恍惚はどこへやら、完全に理解が追いついていない顔だ。
ケイシーは、ほんの少し顎を上げる。控えめな胸を張るその仕草が、妙に誇らしげだ。
「領主様のお屋敷を掃除したとき、ユウナギさんがお湯を出してくれたんです」
記憶がよみがえる。ケイシーの気を引くため、サリーと知恵を出し合ったのだ。
ケイシーは振り返ると、微笑みを投げながら、
「そのお湯で拭き掃除をしたら、いつもより床が綺麗になったんですよ。それを思い出しました」
「へぇ~~」と、間の抜けた声が漏れてしまう。
いや、待て、それでいいのか?
頭の中で、さっきまでの重たい議論がぐるぐる回る。
宗教だの国家だの経済だの、散々こねくり回した末に出た結論が。
スプーン……。
リンダはスプーンと地面を交互に見ている。
さっきまでの“神の使徒を見る目”が、今は完全に“よくわからない現象に巻き込まれた人の目”に変わっている。
「つ、つまり……?」
ケイシーはうん、と一つ頷き、
「理由を聞かれても知りませんよ」
――バッサリだ!
ケイシーは、ぱちんと手を打つ。乾いた音がやけに軽い。
「これであなたは救世主、いいえ“聖女”ですね。おめでとうございます」
「え? え?」
リンダが固まる。さっきまでの流暢さが嘘みたいに、言葉が出てこない。
「だってそうでしょう? ユウナギさんは足元しか浄化できないんですよ」
グサリ、と刺さる。いや、事実だけど。事実だけども。
「でも、あなたはこれだけの醜泥を一気に浄化できる。どちらが有能かなんて、比べるまでもありませんよね?」
「そ、そうね、その通りだわ」
「それに、あなた、こう言いましたよね」
コホンと咳払いし、リンダの声色を真似る。
「“救世主になりたくないのなら名を伏せましょう”って。だからスプーンの製作者も秘密ですよね。さあ! 神に誓ってください。秘密にすると!」
再び、びしっ、と指が伸びる。
その先から、逃がしはしないという意志が感じられる。
リンダの口元が引きつる。酸っぱいものを無理やり飲み込んだみたいな顔だ。
「まさかぁ~、人には救世主になれって言っておいて、自分が力を手に入れたら嫌だ、なんて言いませんよねぇ?」
ケイシーはニコニコと笑みを深める。責められているのはリンダなのに、俺まで息苦しい。
「うっ……」と、リンダが小さく呻く。
「さあっ、誓ってください!」
リンダはわずかに視線を落とし、握るスプーンを見つめる。そのまま、観念したように息を吐いた。
「……わたくしリンダは、ユウナギ様がスプーンを作ってくださったことを、誰にも言いません。マクダウェル様に誓います」
その瞬間、何かが完全にひっくり返ったように感じる。
その場には、空気を抜かれた風船みたいにしぼんだリンダと、戦いに勝った将軍みたいに胸を張るケイシーが立っている。
胸の奥に、静かに温かいものが灯る。
さっきまでこびりついていた不快感が、嘘みたいにほどけていく。
呼吸が、戻る。
浅くなっていたのに気づいて、ゆっくりと吸い直す。
その中心にあるのは、ケイシーへの感謝だ。
俺は基本的に、誰かに助けられるのは好きじゃない。
自分の足で立つのが当然だと思っているし、甘えるのも性に合わない。そういう性分だと、ずっと思ってきた。
けど、今だけは別だ。
ケイシーの声が、理屈が、あの一歩踏み込む姿勢が、胸に引っかかっていたものを丸ごと押し流していった。乱暴なくらいなのに、不思議と後味は悪くない。
むしろ、妙にすっきりしている。
ああ、助かった。本当に、助けられた。
だからこそ、短い言葉でいい。
飾る必要もない。
「ありがとう、ケイシー」
「ユウナギさんの専属メイドですからね。お助けするのは当然ですっ」
腰に手をあて、得意げに、つつましい胸を張る。
小さな体なのに、とても頼もしく感じる。
俺から見ればケイシーのほうが、よっぽど聖女っぽい。
「説得するときの話し方、ちょっとユウナギさんの真似、しちゃいました」
ぺろっと舌を出して、すぐに引っ込める。その仕草が胸に刺さる。
――聖女じゃなくて、天使だ!
それからの二日間は、拍子抜けするくらい静かだった――
サンクチュアリを滑らせながら、木々の間を進む。
視界に入る地面を確認しても、あの薄紫はもうどこにも残っていない。
ダニエルが靴先で土を軽く払う。
表面だけじゃない。少し掘れた部分まで、色は変わらない。中まで、きっちり消えている。
耳に入るのは、枝が擦れる音くらいだ。
風に揺れるそれが、一定のリズムで続いている。
醜獣にも、一度も出くわさない。
気配すら感じないまま、森の中を抜けていく。
どうやら、この一帯の醜泥は、全部片付いたらしい。
原因も過程も、正直よくわからないままだが、結果だけ見れば、仕事は終わりだ。
なら、やることは一つ。
「さあ、町へ帰ろう!」
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