第38話 狂信者
「ああっ!」
リンダの目が大きく見開かれ、そのまま一直線に俺を射抜いてくる。
さっきまでの焦りが嘘みたいに消え、代わりに澄んだ光が宿る。
「やっぱりユウナギ様は、マクダウェル様が遣わされた使徒だったのですね!」
「はぁっ?」と、思わず声が漏れる。
「希望が生まれました!」
「落ち着けって。何の話だ」
「地面をご覧ください! 醜泥が浄化されていますっ!!」
言われるまま、視線を落とす。
リンダの足元から先が、不自然に色を失っている。
まるで車のフロントガラスについた水滴が、ワイパーで拭い取られたように扇状に消えている。
サンクチュアリに乗って移動しているせいか、思考が車に引っ張られる。
リンダが立ち上がる。その動きに予兆はない。
次の瞬間、ゴンッ。
鈍い音が結界越しに響く。
心臓が跳ね、思わず肩がびくりと震える。
リンダは痛がる様子もなく、べったりと結界に張り付いている。
手も、頬も、胸も、まるで吸い付くように。まるでカエル……。
その目は、俺を捕らえて離さない。悦が漏れ出しているような表情。
――マジでキモい。
「リンダの魔法が効いたんだろ?」
「いいえ、違います! ユウナギ様が近づくにつれ、まるで雑巾がけをしたかのように、すっと醜泥が消えていったのです!」
「そんなわけあるか」
半信半疑のまま、サンクチュアリを横へ滑らせる。
すると、扇型に欠けていた薄紫色が、さらに横へ消えていく。
さらに横へ。紫が、同じように消える。
まるで、俺が近づくだけで、この世界の“汚染”が居場所を失っていくみたいに。
「でしょ! でしょ!」と、結界をダンダンと叩きながら、
「ユウナギ様のお力なのです! ああ、マクダウェル様……あなた様のお慈悲に感謝を!」
額を押しつけ目を閉じる。祈りというより、縋りつくようなそれだ。
「いい加減にしろ、俺はマクダウェル教と一切関係ない」
「いいえ! ユウナギ様は使徒でございます! 暴漢に投げつけた木の実、あれもユウナギ様の力あってこそ!」
ほら来た。これだから狂信者は手に負えない。こっちの言葉を受け取る気配が、最初からない。結論が先にあって、そこに全部を押し込んでくる。
「君がどう思おうが、俺には関係ない。目的は達成したんだろ、町へ引き返そう」
できるだけ淡々と告げる。これ以上、妙な方向に話を広げたくない。
「浄化が済んでおりません」
「そうか。頑張れよ」
「ユウナギ様が浄化をなさるのです」
「断る! 俺の仕事は資材の運搬。そう決めたはずだ。後から契約内容を変えるのは、この世界でも違反だろ」
「しかし、浄化できるのはユウナギ様だけです」
「それとこれとは別だ」
「救世主になりたくないのですか?」
「ああ、なりたくないね!!」
その瞬間、リンダのまつ毛がわずかに震える。ほんの一瞬だけ、表情にひびが入ったように見える。
俺は思いっきり空気を吸い込む。
そして。
「理由は単純だ。
救世主なんてものになれば、俺の自由は消える。
どこへ行くにも許可がいる。
誰と会うにも監視がつく。
浄化を求める声が上がれば、俺の都合は後回しだ。
今日は疲れているから休む、とは言えなくなる。
夜も昼もなく働かされる。
倒れるまで、いや倒れても起こされるかもしれない。
俺は道具じゃない。
次に責任だ。
醜泥が広がれば、俺のせいになる。
浄化が間に合わなければ無能と呼ばれる。
浄化した土地で飢饉が起きれば、期待を裏切ったと責められる。
成功は神の御業、失敗は俺の落ち度。
そういう構図になるのが目に見えている。
そして宗教だ。
マクダウェル教が俺を擁することで特別視される。
奇跡を独占していると見なされれば、他の宗派との対立は激化する。
信仰は救いのはずなのに、権力争いの火種になる」
リンダの指先が、ゆっくりと白衣の裾を握る。力が入っていくのが、布の歪みでわかる。
「まだあるぞ。
この国だけが浄化の恩恵を受ければ、周辺国はどう思う?
不公平だと圧力をかけてくる。
俺の身柄を寄越せと要求するかもしれない。
最悪、拉致や暗殺未遂だって起こりうる。
俺は国家間の交渉材料になる。
そんなの人質と大差ない。
さらに言えば経済も歪む。
浄化された土地の価値は跳ね上がる。
貴族は先を争って俺を囲い込み、浄化の順番を巡って賄賂や陰謀が横行するだろう。
俺がどこを浄化するかで、富と権力の分布が変わる。
そんな決定権を一個人に背負わせるのは異常だ。
人の依存も怖い。
俺がいる限り、誰も自分で解決策を探さなくなる。
研究も対策も進まない。
俺が倒れた瞬間、この国は立ち行かなくなる。
救世主という存在は、社会を弱くする」
一拍、置く。
「最後に、俺はこの世界の人間じゃない。
偶然ここにいるだけだ。
帰る方法があるなら探したいし、見聞も広げたい。
生き方を他人に決められる筋合いはない。
俺は象徴にはならない。
旗印にもならない。
ましてや神の代弁者にもなりたくない。
俺は俺の意思で動く。
ただの一人の人間としてな!」
リンダは口を閉ざしたまま、こちらを見ている。その静けさが、さっきよりもよほど気味が悪い。
しばらくの沈黙。
彼女の表情から何も読み取れない。
やがて、さっきまでの張りつめた気配が、潮が引くみたいにすっと消える。
「ええ……、ユウナギ様のおっしゃる通りです。
自由は尊いものです。責任を強いるのは暴力に等しい。
信仰が権力へと変わるとき、それは醜く歪みます。
ユウナギ様は何一つ間違っていません。
あなたが救世主になりたくないのなら、ならなくて結構でございます。
象徴になりたくないと仰るなら、名は伏せましょう。
神の代弁者になりたくないのなら、神託は私が編みます」
言っている内容は、譲歩のはずだ。それなのに、逃げ道を塞がれている気がする。
選択肢が増えたんじゃない。形を変えて、同じ場所に押し戻されているだけ。
リンダの頬が、結界に押しつけられ、ぐにゃり、と歪む。
距離が近すぎて、表情の細部がやけにはっきり見える。
目尻のわずかな皺とか、乾きかけた唇の縁とか、見たくもない情報まで目に入ってくる。
次の瞬間、舌が伸びた。
透明な面をなぞる。
ゆっくりと、確かめるみたいに動く。
粘性の軌跡が残る。
背筋が、ぞわりと粟立つ。
理屈じゃない。
理解とか納得とか、そういう層をすっ飛ばして、もっと下のところを直接撫でられたみたいな感覚が、背骨を一気に駆け上がる。
思わず、サンクチュアリをわずかに引く。
透明な結界ごと、するり、と後ろへ滑る。
なのに距離が離れない。
ぴたり、と。
リンダの顔が、同じ近さのまま張りついている。
一歩。
サンクチュアリが下がったぶんだけ、にじるように前へ出てきている。
逃げているはずなのに、逃げられていない。その事実だけが、背筋にじっとり貼りつく。
リンダは恍惚とした声で続ける。
息が荒い。言葉の合間に、細く擦れるような呼吸音が混じる。
「あなたは、ただ、浄化をなさればよいのです。
意味づけは、物語は、信仰は、すべて私が整えます」
さらに身体を押しつけてくる。
腕も、胸も、腰も。
結界に縋りつくというより、抱きしめている形だ。
逃がさないとでも主張するみたいに、面に沿って全身を密着させている。
じわり、と圧が増す気がする。
実際に何かが押し返してくるわけじゃないのに、視界だけが窮屈になる。
「あなたは利用されるのではありません。“役割”を与えられるだけです。
世界は救われねばなりません。
あなた一人の自由と、数万の命。秤にかけるまでもありません。
どうか誤解なさらないでください。
私はユウナギ様を憎んでなどいません。
むしろ尊敬、いいえ。敬愛しております」
リンダの体が、ゆっくりと沈み始める。
頬を擦りつけたまま、下へ滑る。
ずるり、と。
透明な面に、細い粘液の跡が引かれていく。
「拒もうと、逃げようと、沈黙しようと。
奇跡は起こるのです。
奇跡が起これば、人は跪く」
ずるり。
位置が下がる。
目の高さが変わる。
なのに、視線だけは外れない。
「跪けば、物語が生まれる」
ずるり。
言葉と動きが、妙に噛み合っている。
段階を踏むみたいに、一つずつ、確実に。
「安心してください。ユウナギ様を悪者にはいたしません」
ついに、地面へ。
膝をつき、背筋を正す。
その動きは丁寧で、さっきまでの粘ついた挙動が嘘みたいに、整っている。
「……すべての罪は」
両手を組む。祈りの形だ。
「私が被ります」
そのまま、深く頭を垂れる。
俺に向かって、跪く。
胸の奥に、じっとりとした嫌悪が沈殿していく。
重く、粘つくように居座って、簡単には流れてくれそうにない。
理由を並べる気にもならない。
理屈にした瞬間、どこかで納得してしまいそうで、それが余計に癪だ。
リンダの存在そのものが、俺の神経を逆撫でする。
丁寧な言葉遣いだとか、穏やかな表情だとか、そんな表面だけ取り繕ったものはどうでもいい。
むしろ、その奥にある“何か”が、皮膚の裏側に触れてくるような不快さを放っている。
リンダの視線が向けられるたび、呼吸がひとつ重くなる。
肺に空気が入っているはずなのに、どこか足りない気がするのは、その視線に“意味”を押しつけられているせいだ。
勝手に役割を決められる。
勝手に物語に組み込まれる。
勝手に、俺が俺でなくなる。
そんな圧が、じわじわと輪郭を侵してくる。
まるで、俺という形を外側からなぞって、別のものに塗り替えようとしているみたいで。
その感覚が、どうしようもなく、不快だ。
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