第37話 届かぬ祈り
気づいたときには、もう地面の色が変わっていた。
さっきまで普通の土だったはずなのに、視界の奥から、薄紫がじわりと広がっている。
木々はいつも通りだ。葉も、幹も、影も。なのに、地面だけが別の世界みたいに染まっている。
目をそらしても、紫はそこにある。
見える範囲のどこを切り取っても、必ず入り込んでくる。
まるで、俺の視界そのものを塗り替えようとしているみたいだ。
前方で、マシューが足を運ぼうとする。
踏み出す、その直前。
「行ってはだめです!」と、リンダの鋭い声が空気を切る。
マシューの動きがぴたりと止まる。浮きかけた足が、宙で迷っている。
「あれは醜泥です。穢れた土……醜獣の血と同じ毒を持っていますので、触れると体調を崩します」
続く声は、先ほどより落ち着いている。張り詰めてはいるが、取り乱している様子はない。
「そんな話、聞いたことないっす」
マシューが足を引き戻しながら言う。軽い調子だが、視線はしっかり地面に貼りついている。
「一部の者しか知らない情報なんです。仮説なのですが、醜獣は、醜泥に生えた草を食べた獣ではないかと言われています」
食物連鎖による毒素の蓄積。フグなどに見られる生物濃縮ってやつだ。
ただ、引っかかる。
野生の動物が、自分の体を壊すようなものをわざわざ食うか?
普通は避けるだろ。学習するはずだ。何度も口にする理由が、いまいち腑に落ちない。
「今回の遠征の目的は三つあります。醜泥の場所の特定。汚染された草花の採取。そして浄化の試みです」
ダニエルとジェイミーは特に何も言わない。二人とも、あの紫の地面を当たり前のように見ている。驚きも、疑問も、表に出さないまま。
知ってる顔だな、これ。
俺は黙って聞きながら、胸の奥に何かが溜まっていくのを感じる。水じゃない。もっと粘ついたものだ。流れずに、底に沈んでいく。
醜獣の危険性については、“この世界の常識だから”で片づけられた。
それはまあ、百歩譲っていい。
でも、醜泥の話。遠征の本来の目的。これは、最初から知っていた情報だ。
俺には、一切明かされなかった。
聞かされていないのが俺だけなのか、それとも全員が同じ条件だったのか。そこまでは分からない。
ただ、さっき引き返す提案をしたときの反応が、頭にこびりついている。
視線を逸らしていた。あれは偶然じゃない。
言いづらいことがあるときの、あの感じ。
仕事で何度も見てきた。説明責任を後回しにしたときの、あの微妙な間だ。
やっぱり、宗教関係者は、信用ならない。
リンダはリュックから白い布を取り出す。迷いのない手つきで三角に折り、そのまま口元へ当てると、後頭部で結びつける。
続けて手袋をはめる。指先まできっちり押し込み、わずかな隙間も残さないように整える。
さらに、細長い金属の筒を取り出す。
――完全に“作業モード”だな。
動きに無駄がない。やるべき手順が、頭の中で整理されている感じだ。
準備を終えたリンダが、呼吸を浅くする。
押し殺すように、ゆっくりと前へ出る。
一歩。
土を踏む位置を確かめるように、さらに一歩。
近づくだけで、空気が変わる気がする。
リンダは膝を落とす。
そのままナイフを取り出し、切っ先を紫の地面へ差し込む。
刃先が土をえぐる。
草の根ごと、すくい上げるように、慎重に持ち上げる。
そのままナイフの先で、筒へ押し込む。
乾いた土が、かすかに崩れる。
蓋を閉める音が、小さく鳴る。
さらに布を取り出す。
筒に巻きつける。ぐるぐると、何重にも。
結び目を固く締める指に、力がこもる。ほどける余地を一切残さない、そんな締め方だ。
ひと通り終えると、リンダはそれをリュックに戻す。
そして、その場で静かに膝をつく。
背筋が伸び、胸の前で両手が組まれる。
「天界の主、神マクダウェルよ。
御名を畏れつつ、穢れに沈みし大地へ聖浄回帰の理を授け賜え。
土よ、息吹を思い出し再び豊穣の母となれ。
木よ地を這う呪詛を鎮め、深層に巣食う泥濘を砕け。
草よ、この地を覆う闇を祓い清めよ。
聖なる契約ここに至れり、祝福は今、大地と共に」
祈りの声が、森の奥へ流れていく。
風もないのに、音だけが遠くへ伸びていくような、不思議な響きだ。
……?
俺は、足元へ視線を落とす。薄紫の地面は、そのままだ。
色は変わらない。揺らぎもしない。ただ、そこにある。
リンダの指が、胸の前で強く組まれる。白くなるほど、力が入っているのが見える。
「天界の主、神マクダウェルよ――」
もう一度、同じ祈り。
今度は少し速い。
言葉が前のめりになっている。
整っていたはずの調子が、わずかに崩れているのが分かる。
唱え終える。
それでも、地面は変わらない。薄紫のまま、ただそこに在り続けている。
伏せた額が拳に触れる。
肩が、小さく震えている。
「どうしてっ!」
押し殺していたものが、弾ける。
リンダの声が、森に響く。
その手が、わずかに震えているのが見える。
どうやら、浄化は失敗らしい。
俺は少し離れた位置から、その背中を眺める。
しかし、胸の奥は、驚くほど静かだ。波立つ感じがない。むしろ、すっと引いていく。
これまでの彼女の言動が、行動が、俺の中に不信感を積み上げていたからだ。
――いやぁ、終わった終わった。
内心で肩を回すと、体は動かしてないのに気分だけが緩む。
遠征の目的は三つ。
醜泥の確認と、草花の採取は達成済み。浄化は失敗したが、試みた事実は残る。
任務としては、まあ合格点だろう。
帰ろう。
さっさと帰ろう。
今すぐ帰ろう。
とっとと帰ろう。
そう思って周囲へ目を向ける。
誰も動かない。
ダニエルとジェイミーは、その場に腰を下ろし、視線は地面だ。着ている鎧が拘束具のように見える。
マシューは周囲の警戒に神経を尖らせている。気軽に声をかけるのも躊躇するほど空気が張っている。
――となると、リンダに声をかける役、俺か?
正直、気が進まない。
「残念だったな」
「また挑戦しよう」
「頑張れよ」
頭の中で、かける言葉を並べてみる。
どれも、軽い。薄い。
今この場に乗せるには、ちょっと浮く。
やっぱり、無言で肩を軽く叩くのが一番か。
余計なことを言わず、意思だけ伝える。
慰めなんて、下手に言うと逆効果。相手が真面目なタイプなら、なおさら。
――まあ。俺は鳥籠の中だから、肩なんて叩けないんだけどさ!
自分でツッコミを入れつつ、視線を戻す。
気づけば、リンダの背中まで二メートルほどの距離。
リンダが勢いよく振り返る。
「えっ? どうして?」
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