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第36話 帰りたい

 初めての醜獣との戦闘から、さらに二日が過ぎる。


 相変わらず森だ。

 どこを見ても同じ景色で、木と木の隙間に差し込む光も頼りない。

 息が詰まるような圧迫感だけがじわじわと積み重なっていく。


 気づけば、醜獣と遭遇しない時間のほうが短くなっている。

 猪だけじゃない。狼も、鹿も、醜獣と化している。

 どれもこれも見慣れた動物のはずなのに、目の濁り方といい、動きの歪さといい、別物にしか見えないまま襲いかかってくる。


 戦闘の回数が増えたせいで、一行の空気も重い。

 騎士たちの動きが鈍い。

 剣を振る速度は落ちていないはず。それなのに、踏み込みがわずかに浅い気がするし、振り終わりの姿勢にも余裕がない。何より、顔から覇気が抜けているのが目につく。


 マシューはもっとわかりやすい。

 枝が軋む音がすれば、即座に顔が向く。落ち葉を踏む音がすれば、体が先に動く。そのたびに、犬耳がぴくりと跳ねて、落ち着きのなさを隠そうともしない。

 索敵役としては正しい反応なんだろう。けれど、あれがずっと続くのは普通にきついはずだ。


 誰も無駄口を叩かない。会話がないわけじゃないが、必要最低限だ。短く、端的に、確認だけを交わして終わる。その隙間に入り込む余白みたいなものが、もう残っていない。


 二階にいるリンダとケイシーは、まだ余裕がある。

 ……あるように見える、が正確か。

 直接戦っていない分、表情は崩れていないし、声も落ち着いている。ただ、この状況が続けばどうなるかは、わざわざ想像しなくても見えてくる。


 そして、俺だけが疲れていない。

 体は、だ。

 心のほうは別問題。

 目の前で繰り返される戦い。鋼がぶつかる音が何度も重なり、獣の低い唸りがその隙間にねじ込まれる。その全部を、距離の近い場所で見続けていると、じわじわと神経が削れていく。

 視界の上は枝葉に覆われていて、昼のはずなのに薄暗い。光が届かないせいで、木々の奥は常に影が揺れているように見える。

 どこから何が飛び出すかわからない。その意識が、背中に張り付いたまま離れない。


 ――帰りたい。


 同じ言葉が、何度も頭の中で反芻される。しつこいくらいに居座って、消える気配がない。


「なあ、ちょっと休憩しないか」


 声に出すと、数人の視線がこちらへ向く。動きの鈍い首が、ゆっくりとこちらを捉える。


「俺が言うのは間違ってる。それはわかってる。けど、見ていて辛い」


 一拍の間が落ちる。誰もすぐには口を開かない。


「そうですね、いったん休憩しましょう」


 二階からリンダの声が落ちてくる。救いの手みたいに聞こえるあたり、俺もだいぶ削れてるなと思う。

 彼女は梯子を降り、静かに地面へ足をつける。そのまま周囲へ視線を巡らせる。確認するような、あるいは覚悟をなぞるような、そんな動きだ。

 誰かが息を吐く。それに続くように、他の面々も深く息を落とす。

 張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。


「なあリンダ。森に入って七日目、予定では片道十日の工程だ。けれど三人の疲労は限界に近いように見える。復路を考えたら、ここで無理をするのは危険だと思う」


 言いながら、視線を騎士たちへ向ける。

 三人とも何も言わない。目を合わせようともしないまま、どこか別の方向を見ている。

 わずかな沈黙。


「騎士は弱音を吐かない」と、ダニエルがぼそりと呟く。


 目が据わっている。その奥に余裕が残っていないのが、はっきりわかる。


「騎士の使命は理解したつもりだ。けど倒れたら意味がないだろ。

 俺たちの世界には“家に帰るまでが遠征です”って言葉がある、最後まで気を抜くなって意味だ。

 リンダを教会まで送り届ける体力は残ってるのか?」


 返事はない。否定も、肯定も、沈黙の中に沈んだままだ。


「ベッドに座ってるだけの異世界人に言われたくない、本心ではそう思っているんだろ?

 それでも口には出さない。あなたたちは優しい人だ。

 俺が何を言っても我慢してしまう。だから俺の説得じゃ揺らがない。

 依頼主は教会だ。

 リンダが引き返すと言えば三人は拒否しない、そうだろ?」

「ユウナギ様ごめんなさい。私には、引き返すという選択肢はないんです」と、間を置かずに返ってきた。

「みんながここで倒れても?」

「覚悟の上だと承知しております。私ではなく、教会も同じ決断を下すでしょう」


 その顔を見て、言葉が一瞬止まる。

 穏やかだ。いつも通り、丁寧で柔らかい。なのに、その奥に妙な硬さがある。押せば折れるんじゃなくて、最初から曲がらない種類のやつだ。


「もうホント、わけがわからない……」


 思わず零れる。

 リンダは静かに首を振る。否定でも肯定でもない、距離を取るような動き。


「理解しようとなさらないでください。ユウナギ様にお願いした仕事は物資の運搬です。彼らの命に責任を感じる必要はありません。もちろん、私の命もです」

「君は俺に感謝したよな、命を救ってくれてありがとうって」


 リンダは柔らかく微笑み、

「はい、とても感謝しております。ユウナギ様に助けていただいたから、こうして再び遠征に出られたのですから」


 ――キモチワルイ、キモチワルイ、キモチワルイ。


 頭の中で、同じ言葉がぐるぐる回る。

 止めようとしても止まらない。

 むしろ意識すればするほど、輪郭がはっきりしてくる。


 全身の毛が逆立つ。

 視界の端で、三人が顔を伏せているのが見える。

 さっきまでの張り詰めた緊張とは違う、もっと内側に沈むような気配だ。


 リンダの目が、妙に引っかかる。

 いつもと同じはずなのに、どこかがおかしい。

 視線が合っている気がしない。

 いや、合っているのにズレている。そんな感覚。


 この場にいる自分だけが、浮いている。

 異物だ、って言葉がやけにしっくりくるのが嫌だ。

 盲信なのか、狂信なのか。

 何が、ここまで人を動かす。

 ……考えたくない。


 踏み込めば、どこかに引きずり込まれる。

 底の見えない穴を覗き込むみたいで、普通に無理だ。


 思考のブレーカーを落とす。

 これ以上はノイズだ。

 役に立たないどころか、邪魔になる。


「わかった、もう言わないよ」と言葉を投げ、無意識に視線が地面に向く。

「ありがとうございます。少し休憩したら出発しましょう」


 その言葉を合図にしたみたいに、騎士たちが動き出す。


「ユウナギ殿、予備の装備をだしてもらえるか」と、ダニエルの声が重い。

「はい」


 預かっている装備を出すと、彼らは黙々と装備を替えていく。

 剣を置き、盾を外し、鎧の留め具に手をかける。

 その一連の動きは機械的で、余計な感情が削ぎ落とされているのが伝わってくる。


 さっきまで身につけていた装備は、どれも深く傷んでいる。

 刃は欠け、光の反射が歪んで見えるくらい細かく崩れている。

 盾には爪痕が食い込み、表面が抉れている。受け止めた衝撃の重さが、そのまま刻まれているみたいだ。

 鎧の金具も歪んでいる。動くたびに、きしむような音がわずかに残る。


 俺にも、ビジネスマンとしての矜持は、ある。

 クライアントとの交渉に失敗したからと言って、仕事を投げ出すようなことはしない。

 引き受けた依頼は倉庫役。

 求められたものを出す。

 壊れた装備を回収する。

 それだけに意識を絞る。

 余計なことを考えないようにするための、単純作業だ。




 やがて、再び歩き出す。

 沈黙が続く。

 喧嘩しているわけじゃない。

 ただ、誰も話す気力が残っていないだけだ。

 言葉を出す余力を、全部別のところに回している感じがする。


 彼らの背中を眺めながら、ある決心をする。

 リンダと騎士の二人が、もし倒れても気にしない。

 捨て置く。

 殉職がお望みなら、こちらとしては邪魔する気などない。

 マシューは、ひとりでも逃げ帰れるだろう。


 最も重要な人はケイシーだ。彼女だけは無事に連れ戻す。他がどうなろうと知ったことではない。

 いざとなれば、二階の外壁を鉄製に変更すれば守るのは容易い。


 思考を整理していた、その時――


「止まってください!」と、二階からリンダの鋭い声が落ちてくる。

 ほぼ同時に、

「あれ何だ?」と、マシューも緊張した声を出す。

「地面の色がおかしいっす!」


ここまで読んでいただきありがとうございます。

続きが気になると思っていただけたら、ブクマしていただけると励みになります。

全112話 毎日投稿します。

最後まで楽しんでいただけたら幸いです。

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