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第34話 覚悟を決めた顔

 視界の端から端まで、同じ色が続いている。緑と茶色が重なり合って、境界が曖昧なまま滲んでいるようだ。

 見飽きた、というより、思考のほうが先に飽和してくる。


 誰も口を開かない。無言のまま、一定の間隔を保って進んでいる。

 足取りが重いわけじゃない。むしろ、身体はいつも通りに動いている。けど、頭の奥がじわじわ削れていくような感覚。

 同じ景色をなぞり続ける単調さが、静かに神経を擦ってくる。出口の見えない迷路に放り込まれたら、きっとこんな感じだ。


「方角はあってるんだよな」


 前を歩くダニエルが、振り返りもせずに言う。その声は低く抑えられているのに、わずかに棘が混じっているのがわかる。


「真っすぐ西に進んでいます」

「異世界人の知識を疑うわけじゃないんだがな、どうして陽光も見えねえのに方角がわかるんだ?」


『スマートスピーカーに搭載されている地磁気センサーで方角がわかるんです』なんて説明、通じる未来が見えない。


「年輪を見れば方角がわかりますよ」と、もっともらしい嘘を投げる。

「冗談うまいな、切り株なんてどこにもないだろ」


 仲のいい友達でも、長く一緒に旅行すると関係がギクシャクする。

 そんな話、どこかで聞いたことがある。

 生活リズムの違いとか、疲れからくる小さな苛立ちが積み重なる。すると、普段なら流せることに引っかかるようになるそうだ。

 二泊三日がちょうどいい、そんな結論だったのを思い出した。

 森に入って五日目。よくもっているほうだ……。


「止まるっす!」


 鋭く張り詰めた声が、森の空気を裂く。

 反射的に視線を上げると、騎士たちの動きが一瞬で変わっているのがわかる。

 さっきまでの緩い歩調が嘘みたいに消えて、全員が低く腰を落とす。

 次の一歩をいつでも踏み出せる姿勢に切り替わっている。

 手は剣の柄。握り込む力の入り方が、さっきまでと違うように見える。


「この気配……、醜獣(しゅうじゅう)っす」


 マシューの声が、ほんのわずかに低い。

 冗談を言う余地なんて一切ない、そういう温度だ。

 ダニエルが背中に固定していた盾を外し、そのまま前に構える。

 金具が擦れる音が短く鳴って、それが合図みたいに、ジェイミーも剣を抜く。


「お出ましか。ジェイミー挟み込むぞ」と、ダニエルの声が乾いている。


 マシューが前方を指さす。木々の隙間、その奥だ。


「まだ距離はあるっす」

「ユウナギ殿、予備の剣を出して、全部」と、ジェイミーが鋭く言う。

「は、はいっ!!」


 名前を呼ばれた瞬間、びくっと肩が揺れて、心臓が跳ねる。

 預かっている予備の剣を結界の外へ出す。次の瞬間、重みを伴った鉄の塊が空間に現れて、地面へと落ちる。それにより十本ほどの剣が山積みされる。


 甲高い金属音が鳴った瞬間、

「醜獣ですかっ?!」と、二階からリンダの声が落ちる。

「そうっす!」と、マシューが短く返す。


 そのやり取りが終わるより早く、リンダはもう動いている。

 梯子を素早く降りきると、迷いなくダニエルのもとへ駆け寄り、そして背に手を当てる。


 ――何をしているんだ?


 彼女はそのまま、祈りを紡ぎ始める。空気が少し張り詰めたみたいだ。


「天界の主、神マクダウェルよ。

 御名を畏れつつ、いまこの勇敢なる騎士に加護を授け賜え。

 その剣に正義の光を宿し、振るうたび闇を裂く雷とならしめよ。

 その盾に不滅の聖印を刻み、いかなる穢も退ける城壁とならしめよ。

 迫り来る醜獣の牙を砕き、邪なる咆哮を沈黙させ、恐怖の影を踏み越える胆力を。

 血潮に勇気を、心に信念を、魂に覚悟を。

 倒れても再び立ち上がる闘志を授けよ。

 かの身を包み守り給え。

 聖なる契約ここに至れり、祝福は今、彼と共に」


 ――呪文?


 祈り、というよりは、明らかに何かを“発動”させるための定型文に聞こえる。

 最後の一節が落ちた瞬間、ダニエルの全身が淡く光に包まれる。柔らかい光が、はっきりと輪郭をなぞるようにまとわりついている。

 ひと呼吸のあと、光は体の内側へ吸い込まれるように消える。


 その瞬間、背筋が冷える。

 テレビの特撮でも、映画でもない。

 目の前で、人間が“奇跡”を使う。


 ――ああ。もう本当に、帰れない場所まで来てしまったんだ。


 そんな実感だけが、胸の底へ重く沈んでいく。


 リンダは止まらない。次はジェイミー、その次はマシューへと手を伸ばし、同じ祈りを重ねていく。


「リンダ殿たちは危ないので後ろへ下がるんだ」

「はい」


 リンダはローブを揺らしながら小走りにこちらへ戻り、そのまま通り過ぎる。

 その背を追うように、俺とマシューも続く。

 左の木陰に、リンダが身を滑り込ませる。マシューは別の木陰で弓を構える。

 俺も身を潜ませようとする。しかし、サンクチュアリの大きさが邪魔で隠れるのは無理だ。

 前方では、騎士たちが十歩ほど先で気配のする方へ立ちはだかっている。鎧が擦れる音は聞こえるが、息づかいまでは届かない。


 森の奥、幹と幹の隙間に黒い影がちらつく。

 最初は豆粒みたいな大きさだったそれが、じわじわと輪郭を持ち始める。距離があるはずなのに、存在感だけが先に近づいてくるようだ。

 準備が間に合っているのは、この距離で気づいたマシューのおかげ。




 やがて、影が形になる。

 猪だ。

 成人した男の腰ほどの高さ。鼻先が忙しなく動き、荒い呼吸に合わせて口元が開いたり閉じたりしている。

 厚い毛皮を突き破るように、いくつもの肉塊が盛り上がっている。腫れ上がったようなそれが不規則に膨らんで、体の形を歪ませている。

 濁った瞳がぎらつき、牙の隙間から泡が糸を引いて垂れている。その一滴が地面に落ちるまで、やけに長く感じる。


 ――あれが狂暴化した獣、醜獣(しゅうじゅう)か。


 ダニエルが正面に立つ。盾をわずかに前へ出し、体を斜めに構えながら、獣の進路を塞ぐ位置取り。

 ジェイミーが音もなく滑るように移動して、側面へ回り込む。


 獣が二人を追うように首を振る。

 右へ、左へ。

 ぎこちないのに速い動きで、周囲を確かめるように。

 牙を剥き、低く喉を鳴らす。

 濁った瞳が順番にこちらをなぞっていく。


 その視線が一瞬だけ俺をかすめた。

 ぞわり、と背骨の内側を冷たい指でなぞられたみたいな感覚が走る。

 獣に見られたんじゃない。

 もっと別の、何かに“気づかれた”そんな錯覚だけが、いつまでも皮膚に貼りついたまま離れない。


「来いっ!」


 ダニエルが盾の縁を剣で叩く。

 鋼と鋼がぶつかる甲高い音。

 その直後。

 地面が爆ぜる。

 醜獣が前足で土を抉り、その反動のまま一直線に突っ込んでくる。

 巨体が一気に距離を詰めた。


「ふぐぅっ!!」


 激突――

 盾に叩きつけられた瞬間、鈍い衝撃が音になって弾け空気を震わせる。

 ダニエルの体が押し込まれ、両足がくるぶしまで土に沈み込む。

 めくれ上がった地面から、泥と石が跳ね上がる。

 それでも、彼は崩れない。


「オラアアァッ!!」


 横からジェイミーが飛び込む。

 体重をそのまま預けるような踏み込みで、脇腹へ一直線に剣を突き出す。

 刃が肉へ沈み込む感触が、ここまで伝わってくる気がする。


 甲高い悲鳴が森に響く。

 醜獣の体が大きくよじれて血が飛び散る。

 ジェイミーは突き立てた剣から手を放し、素早く離れる。

 地面に転がしてある予備の剣を拾い上げると、その勢いのままもう一度踏み込む。


 突く。

 さらに一本。

 拾い、突く。

 間を置かず、もう一本。

 気づけば、獣の背や腹に無数の剣が突き立ち、いびつに生えているように見える。


 醜獣が暴れ狂う。

 前足が空を掻き、後ろ足が地面を削る。

 土煙が巻き上がる。

 ダニエルの盾がきしむ音が混じる。

 それでも、一歩も引かない。


 押し合いが続く。

 獣の呼吸が、少しずつ乱れていく。

 荒い音が途切れがちになり、力の入り方が目に見えて鈍る。


 均衡が、わずかに揺らぐ。

 その瞬間。

 ダニエルの剣が、喉元へ深く沈み込む。

 断末魔が森を震わせる。

 さっきまでの咆哮とは違う、どこか掠れた音だ。


 巨体がぐらりと揺れ、そのまま力を失い、地面へと崩れ落ちる。

 どさり、と鈍い音が響く。

 さっきまで満ちていた音が、ふっと途切れる。

 踏み荒らされた地面と、倒れた獣。その現実だけが、目の前に転がっている。




 俺は深く息を吐く。胸が上下しているのに気づいて、ようやく自分がずっと息を止めていたとわかる。

 無意識に力が入っていたらしい。握り締めている拳が、じっとりと湿っている。開こうとするが、指がわずかに張りつく。


 ダニエルが醜獣の状態を確認し、

「もう大丈夫だ」と、こちらへ声を投げる。


 正直な気持ちとしては近づきたくない。けれど、リンダとマシューが先を行く。俺だけ残るなんて許されないだろう。小さく息を吐き、後へ続く。


 視線の先には、倒れ伏した醜獣の巨体が横たわっている。ぴくりとも動かない。さっきまで暴れていたのが嘘みたいに静かだ。


「ユウナギ様、お水を出していただけますか」


 リンダの声が飛ぶ。いつもより少しだけ早口で、余裕が削れているのがわかる。


「あ、ああ」


 慌てて意識を切り替えて、結界のそばに桶を出す。

 ケトルを傾けると、水が細く流れ落ちて底を打つ。一定の音が、さっきまでの騒音の残滓を押し流すみたいに、やけに落ち着いて聞こえる。


「お二人とも、早く血を洗い流してください」と、リンダが桶を騎士たちの足元へ置く。

「ありがたい」


 ダニエルとジェイミーはすぐに動く。言葉を交わす余裕もないのか、手早く鎧の留め具に手をかけ、革紐を解いていく。

 肩当てを外して地面に置くと、それぞれ手ぬぐいを取り出す。

 無言のまま、腕や首筋、頬についた血を拭っていく。

 こすり取るような動きだ。拭き残しがないか確かめるみたいに同じ場所を何度もなぞっている。

 さっきの戦いの勢いとは別の意味で、隙がない。血を残さないことに、明確な理由がある動きに見える。

 二人の様子を、リンダが硬い表情で見つめている。

 心配になり、

「リンダ、どうした?」と声をかける。


「醜獣の体液は……穢れているのです。ひとたび噛まれれば肉は腐り落ち、やがて死に至ります。血を浴びれば高熱を発し、三日三晩苦しむことに」

「怖っ!」と、思わず声が跳ねる。


 倒れた醜獣へ視線が引き戻される。さっきまでただの“敵”だったものが、一気に質の悪い何かへと変わる。

 あの牙。あの泡。あの不自然な肉の膨らみ。全部が、触れたら終わりの危険物にしか見えない。


「この森、そんなヤバいやついるのかよ、急いで戻ろう」


 反射的に出た言葉だ。けれどリンダは目を伏せ、小さく首を横に振る。


「いいえ。それはできません」

「なぜ?」

「醜獣の発生原因を調べるのが、今回の遠征の目的。危険は承知の上です」

「けど“腐る”とか“高熱が出る”なんて聞いてない」


 言いながら、さっきの光景が頭に蘇る。ジェイミーは刺した剣を抜かなかった。あれは返り血を浴びないためだったのか……。

 ダニエルは盾に付いた血をぬぐっている。丁寧な手つきに理由が重なる。


 ジェイミーは肩に手ぬぐいを掛けたまま、

「ユウナギ殿は聞いてないの?」と、さっきまで戦っていたとは思えない冷めた表情だ。


「初耳だ」

「この世界ではあたりまえのことなので……説明が抜けてしまいました。申し訳ありません」と、リンダが深く頭を下げる。

「ユウナギ殿、どうかリンダ殿を責めないであげて。あたしたちは承知の上で遠征に随伴しているんだから」


 庇うというより、事実を並べているだけの口調。ともすれば、俺が無知なのが悪いとも聞こえる。


「責めるつもりはない。

 けれど、感情が悲鳴をあげているんだ。

 俺の住んでいた場所は命の危険なんて殆どなかった。

 事故や病気はあっても、自分から危険に踏み込むことは避けるのが普通だった。

 避けられるなら、避けるべきものだった」


 自分でも、言い訳みたいな理屈だと思う。けど、それ以外の言葉が見つからない。


「なぜジェイミーは平気な顔をしている? それが理解できない」


 ジェイミーは一拍置いて、拳を胸に当てる。


「王国騎士第三軍は、醜獣を狩る任務に就いている。放置すればやつらは増えて、町や村に被害が出る。王国民を守るのが、あたしたちの仕事なのよ」、ニカッと歯を見せ、

「平気な顔じゃない。これは覚悟を決めた顔。騎士がビビってたら、守られる側はもっと不安になるでしょ」

「理解はできた。けど納得は無理だ。生きてきた環境が違いすぎる」

「ユウナギ殿はそれでいいんじゃない? 王国民の大多数は同じよ。危険なんて知らずに一生を終えるんだから」


 そう言われて、返す言葉が出てこない。

 重い何かが、心に溜まる。


 ――俺のほうが変、なのか?


ここまで読んでいただきありがとうございます。

続きが気になると思っていただけたら、ブクマしていただけると励みになります。

全112話 毎日投稿します。

最後まで楽しんでいただけたら幸いです。

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