第33話 怖さを分かち合う
森が、わずかに開けた場所へ出る。
木々の間隔がゆるみ、枝の隙間から空が覗いている。さっきまでの圧迫感が嘘みたいに軽い。
地面も踏み固められているので、足を取られる気配がない。
まあ俺は歩かないけど。
前を進むマシューが足を止める。
鼻先をわずかに上げ、空気を吸い込む。その仕草は完全に犬の“それ”だ。
「このあたり、獣の匂いはしないっすね。休憩にちょうどいい感じっす」
「了解」と、ジェイミーが即答する。
ためらいなく梯子に足をかけ、二階を覗き込むと、
「お嬢さんたち、食事休憩するので降りてきて」
命令というより、気の利いた声かけに近い温度だ。
少し間が空いてから、
「はぁ~い……」と、見事なくらい気の抜けた返事。
眠気がそのまま音になったようだ。緊張感とか警戒心とか、そのへん全部どこかに置いてきている気がする。
普通なら、
「さぼりやがって」とか、
「いいご身分だな」とか、ひとつくらい嫌味が飛びそうな場面だ。
けど、誰も何も言わない。それどころか、口元がわずかに緩んでいるのが見える。クライアント扱いだから許しているのか。それとも単純に女性に甘いのか。その気持ちはわからなくもない。
そんなことを考えていると、ジェイミーがこちらへ歩み寄る。
「ユウナギ殿、かまどを組むのでレンガを出して」
「あの、どうして今なんですか? 昼食にしては遅く、夕食には早いですよね」
「遠征時の鉄則みたいなものね。“食べられるときに食べる。食べられるものを食べる”。森の案内人であるマシュー殿が安全と判断した。だから今が丁度その時なの。これで納得?」と、軽く首をかしげる。その仕草は理解度のチェックに近く、教師っぽい。
「なるほど」
ケイシーが地面に布を敷く。慣れた手つきで皺を伸ばし、風にめくれないよう端に石を置く。
メイドの仕事に野外活動なんて無いと思う。けれど、その動きは滑らかで手際が良い。
「ユウナギさん、この上に調理道具と食材を出してください」
「わかった」
地面に敷かれた布の上へ移動。そこへ、包丁、まな板、フライパン。ついでに、使えそうな食材もいくつか並べていく。
手渡ししなくても、結界の縁に寄せればそのまま外へ置けるので、作業としてはかなり楽だ。
並べ終えたところで、ケイシーの動きがぴたりと止まる。視線が、一直線に肉へ吸い寄せられている。
「この新鮮なお肉は?」
「途中でマシューが仕留めたんだよ。鹿だってさ」
「わあ」
声が弾む。さっきまでの落ち着いた調子が嘘みたいに軽くなって、顔もぱっと明るくなるのがわかる。
「これはいいお肉です。熟成した方が美味しいけど、折角ですし、香草焼きにして頂きましょう」
少しだけ早口になりながら、もう頭の中では調理工程が組み上がっているらしい。包丁に手を伸ばす仕草が自然で、迷いがない。仕事としてじゃなく、純粋にやりたいからやっている動きに見える。
――料理、ほんと好きなんだな。
ダニエルとジェイミーが、無駄のない動きでレンガを積み上げていく。息はぴったりで、気づけばかまどの形が出来上がっている。こちらは訓練の賜物だろう。経験値の差を見せつけられている気分になる。
その横でマシューが枯れ枝を組み、火打ち石を打つ。乾いた音とともに火花が散る。枝先に小さな炎が移ると、すぐに息を吹きかけて火を育てていく。
ケイシーは、もう肉を捌いているところだ。筋を断ち、刻んだ香草をまぶしながら下処理を進める。
誰も指示を出していないのに、それぞれがやるべきことを選んで動いている。結果として、全体がひとつの作業みたいに噛み合っている。
やることがない。いや、正確には“やれることがない”か……。
ぼんやりとその様子を眺めながら、視線を流す。
不意にリンダと目が合う。
彼女はほんのわずかに口元を緩める。声には出さないが、その表情は雄弁で、言葉よりもはっきり伝わってくる。
――俺たちは、役立たず仲間だな。
しばらくして、肉の焼ける音が広がる。じゅっと脂が落ち、火に触れて弾けるそのリズムが、妙に規則正しく耳に残る。
結界のせいで匂いは届かない。だからこそ、想像だけがやけに鮮明になる。
香草が温められて立ち上がる青い香りと、脂が焦げる直前の重たい匂いが、たぶん今この場を満たしているはず。
ほどなくして料理が完成し、皆が食事を始める。
俺の手もとにも、鹿肉の香草焼きとパンが並ぶ。
ケイシーがいい具合に焼いてくれた。しかし、引き出しを通した瞬間、肉は見事に半解凍状態へ逆戻りする。便利なんだか不便なんだか、この仕様だけは毎回評価に困る。
仕方なく“チン”する。
温めなおした肉にかぶりつく。ちゃんと熱を取り戻していて、噛んだ瞬間に肉汁が広がる。
「美味しいな!」と、口に出した直後、自分で気づく。
雑だ。あまりにも感想が雑すぎる。いや、間違ってはいない。いないんだけど。もう少しこう、語彙とか表現とか、あるだろうに。
「ありがとうございます」
ケイシーが微笑む。曇りのない、まっすぐな笑顔だ。
サリーに頼めば、それっぽい褒め言葉のテンプレートをいくらでも出してくるだろう。たぶん数十パターンは即答する。でも、それを使ったらただのカンニングだ。自然に出た一言のほうが、たぶん価値がある……はずだ。
「中まで火が通っているのに固くないな。歯に引っかからない。いい焼き加減だ」
ダニエルが肉を噛みながら、ゆっくりとうなずく。言葉は少ないのに、妙に説得力がある。
「香草の風味を消していないわね。肉の臭みもきれいに抑えられている」
ジェイミーも続けて評価する。淡々としているが、要点を外さない。
二人とも具体的だ。プロのコメントみたいで、さっきの自分の発言がますます軽く感じる。
しかも、その間も手が止まっていない。気づけば、もう食べ終えている。
三口。
どう考えても早すぎる。競技か何かか。
「いや~、狩りの途中で温かい食べ物にありつけるなんて嬉しいっす。普段なら干し肉と固いパンですから」
マシューが口の端に脂をつけたまま、満足そうに噛みしめている。言葉も表情もストレートで、見ていて気持ちがいい。
「ケイシーさんは料理がお上手ですね。私にも教えていただきたいですわ」
リンダも口元は笑っている。けれど、その奥が、わずかに揺れている気がする。羨ましさか。それとも、別の何かか。どちらにせよ、言葉にするほど野暮でもない。
深い森の中だというのに、場の空気は妙に穏やかだ。火のはぜる音に会話が混ざり、焼けた肉をかじる気配。日常に近いものがじんわり広がっている。
――まるでピクニックだ。
視線を外へ向ける。木々は相変わらず濃く重い。それなのに、この場だけが切り取られたみたいに緩んでいる。その空気が、少しだけちぐはぐに感じる。
森の中で食事をするなんて、小学校のキャンプ以来だ。あのときは柵も人も揃っていて、安全が前提として用意されていた。けれど、ここにはそれがない。あるのは、マシューの嗅覚と経験だけだ。
理屈では理解している。彼が大丈夫と言うなら、大丈夫なんだろう。
そう頭では整理できているのに、胸の奥で小さな違和感が動く。形にするなら、毛虫くらいのサイズだ。見えないくせに存在感だけはしっかりあって、じわじわと這い回りながら落ち着きを削ってくる。
――まあ、要するにビビってるだけか。
顔に出ないよう、口元に少し力を入れる。余計な不安は共有するものじゃない。今この空気を壊す理由にもならない。
「ユウナギさん、どうかしました?」
気づけば、ケイシーがすぐ近くまで来ている。身を寄せるようにして覗き込み、その目に浮かんでいるのは、はっきりとした不安だ。
「え、なんで?」
「何だか、無理をしている様子なので」
――この子、エスパーか。
「情けない話だけどさ、怖いんだ。森に入るなんて人生で数えるほどしかなくてね。それも、獣がほとんど出ない場所だった。……今もさ、木の陰から狙われてるんじゃないかって、ちょっとビクビクしてた」
隠していたものを外に出しただけなのに、胸のあたりが少し軽くなる気がする。
ケイシーは真剣な表情のまま、こちらを見ている。
「人に弱さを見せられるなんて、なかなかできることじゃありません。ユウナギさんは、自分が思っているよりずっと強い人ですよ」
「強い? さっきから手に力が入って抜けないんだ」
軽く笑ってごまかそうとするが、指先は少しこわばっている。
「強がって平気な顔をするより、ずっと勇気がいります。それに、逃げずにそばにいてくれる。それだけで嬉しいものです」
「……逃げずに、か」
――逃げてもいい。誰かに、そんなことを言われた気がする。
「依頼を断ることだってできました。でもユウナギさんは引き受けたじゃないですか」
――引き受けたのは君だけどね。
そう考えた瞬間、サリーに“言い訳を用意している”と言われた記憶が蘇り、胸がチクりと痛む。
これか――
「怖さなら、分かち合えます」と、ケイシーが結界にそっと手を当てる。
「手を握って勇気づけることができないのが残念ですけど」
ふっと柔らかな笑みを浮かべる。その言い方が少しだけ照れくさくて、視線の置き場に困る。
「女の子に励まされるなんて、男失格だな」
「そんなことありません。怖い話は、女の子の方が好きなんですよ」
「それは初耳だな」
思わず口元が緩む。さっきまで張りついていた力が、ようやくほどけていくのがわかる。
そのとき、不意に視線を感じる。
顔を上げると、マシューがこちらをじっと見ている。口元を歪め、面白がるように目を細めていて、完全に“いいもの見た”顔だ。
「いい感じのところ悪いっす。そろそろ出発しませんかね」と、にやにや顔が隠れていない。
「は、はいっ!」
ケイシーがぱっと立ち上がる。動きがわずかにぎこちなく、頬がうっすら赤いのが、この距離でもわかってしまう。
こんな穏やかな気分でいられたのは、この日が最後だったのかもしれない――
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