第16話 異世界人の処世術
「おはようございます」
柔らかい声が、布団の縁をそっと持ち上げるみたいに意識へ入り込んでくる。
ゆっくり目を開けると、視界の中心に整った顔。
一瞬だけ思考が止まる。
次の瞬間、ケイシーだと気づく。
――美少女メイドに起こされるとか、幼馴染系のマンガかな?
上体を起こし軽く伸びをする。窓から差し込む光が視界の端で揺れる。
夜のダンスホールは暗く不気味だった。しかし今は、豪華で華やかに感じる。
「おはようケイシー、いい朝だね」
「はい」
短い返事と一緒に向けられる笑顔が朝日よりも眩しい。
キッチンワゴンに気づく。どうやら朝食を運んできたようだ。
焼き目のついたパンが香ばしさを主張している。その横には厚めに切られた生ハム。さらに彩りの野菜と果物。ゆで卵と湯気の立つ紅茶が並んでいる。
これが貴族の朝食か。泊まったことはないけど、高級ホテルみたいだな。
「昨夜はぐっすりとお眠りになられていましたね」
「え?」
「見回り当番でしたので、邸内を巡回するんです」
「そうなんだ」
さらっと言われたが、つまり寝顔を見られているわけで。
まあいいか、とすぐに切り替える。
恥ずかしがるのは思春期までだ。今さら取り繕う歳でもない。
食事中ケイシーと他愛のない話を続ける。
彼女は耳を傾け、頷き、そしてよく笑う。
その仕草、表情、笑い声。どれもが俺を癒してくれる。
この穏やかな気持ちが一秒でも長く続けばいい……。
けれど食事は済んでしまう。
「後ほどご当主様がいらっしゃいます」
「わかった。ありがとう」
領主と面会。その言葉を聞いた瞬間、胃のあたりがじわっと重くなる。
嫌な上司に呼び出されたときの、あの逃げ場のない感じに近い。
気分を引きずるのも馬鹿らしくて、目の前のケイシーを見る。
整った所作で食器を片付けていく姿は、それだけで少し空気を軽くしてくれる。
片付けを終え、軽く一礼。
ワゴンの車輪が床を転がる音が、徐々に遠ざかる。
扉が静かに閉まり、その余韻だけが部屋に残る。
「サリー、スーツを出して」
「おけまる」
軽い返事の直後、マットレスの上に畳まれたスーツが現れる。
シャツに触れると指先に張りが返ってくる。まるでアイロンをかけたばかりみたいに、皺ひとつない。
ネクタイを締める。喉元が締まる感覚と一緒に、意識も引き締まっていく。
ジャケットに腕を通し、前のボタンを一つ留める。布が身体に馴染んでいくにつれて、さっきまでの緩い空気が消える。
「よし、サリー作戦会議だ」
「なになに、ケイシーを落とす作戦? 恋バナ大好物だし」
「残念だな、相手は脂ぎった領主様だ」
「うげぇ~油物は胃がもたれるから嫌いだし。サリーに胃はないけどね」
いつもの自虐ネタにクスリと笑う。
「異世界人であることは隠さないと決めた。しかし、全ての情報を公開するのは違うと思う」
「そだね、プライベートは大切っしょ。マスターの性癖は特殊だし」
「そうじゃなくて、異世界の情報だ」
「別にいいじゃん、最先端の技術を垂れ流してブレイクスルーを巻き起こそうよ」
「面倒事は嫌いだ。なるべく穏便に生活したい」
「無理っしょ、サンクチュアリは嫌でも目立つじゃん」
「なおさら、だ」
「ふぅ~ん。マスターがそう決めたんならサポートするのがサリーの役目だし。なら、棚に並んでいる技術的な本は謎空間に入れておくね」
「たのむ。……あ、娯楽に関する本は残しておいてくれ」
「おけまる」
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