第111話 手が届かない場所で
「どういうことですかな、アンダースン卿」と、問うベージル。
「いや、それは……」
視線を逸らす。わかりやすい。これ以上ないくらい、わかりやすい。
ちらりとケイシーを見る。クソ禿に腕を掴まれ嫌な顔をしている。
これだけ人目があれば、さすがに手は出せないはずだ。
「グラントリーさん聞いてくださいよ~。そこにいるヤツは俺に“竜を殺せ”って命令したんですよ」
言葉を投げた瞬間、空気がまた変わる。
グラントリーの目が、ぱっと見開かれる。その奥に走った光は驚きだけじゃない。たぶん敵意だ。
「どういうつもりなのかしら、アンダースン卿」
声は静かだが温度が低い。冷たい水を首筋に流し込まれたような感覚。
「でたらめじゃ! 儂はそんなこと命じておらぬ!」
叫び返すが、さっきまでの勢いがなく、どこか上ずっている。
「竜は不死だから殺せません、許してくださいってお願いしたんです。けれど次は赫竜教を潰せと命令してきたんですよ、酷いでしょう?」
事実を並べるだけだ。盛ってもいないし、削ってもいない。
「ほんとうなのかしら?」
グラントリーの視線が、ゆっくりと辺境伯に向く。その動きがやけにゆっくりで、逆に圧を感じる。
睨む、というより見据える。逃げ場を探す時間を、わざと与えているようにも見える。
「黙れ黙れ! そのような嘘、だれも信じぬ」
辺境伯がわめく。だが、その声はもう場を支配していない。
周囲の視線が、じわじわと離れていくのがわかる。
信頼が崩れる音なんて聞こえないはずなのに、なぜか耳に残る気がして少しだけ、ぞくりとする。
「ボクが証人になる」
ジュディが一歩前に出る。その動きは迷いがないのに、声だけが少し揺れているのがわかる。
「ボクは全て聞いていた! 見ていた! ユウナギ殿の大切な人を監禁し、脅し、竜を殺せ、赫竜教を潰せと非道な命令をしたのを」
そして、クソ禿を真っすぐ指さし、
「いくら閣下でも許される行為じゃない!」
その指先が、かすかに震えている。
怒りなのか、恐怖なのか、俺にはわからない。けれど、勇気を出してくれた、その意気込みだけは伝わる。
ジュディに告発をお願いしていない。彼女の行動は、純粋な正義感なのだろう。
ふと、冷たい態度を続けていたことを思い出す。しかし、今さら謝る気はない。まだケイシーを助け出していないのだから。
「キサマ! 裏切る気かっ!!」
辺境伯の声がひび割れる。
「ジュディ、ケイシーを助けてくれ!」
「任せといて」
短い返事と同時に、ジュディが地面を蹴る。
その瞬間。
辺境伯の手が懐へ滑り込み、金属の光が抜ける。
ためらいはない。
むしろ、ずっとその動作だけが準備されていたみたいな速さ。
ナイフが持ち上がる。
高く、異様に高く。
時間が、妙に伸びる。
誰かの声が途中で切れたような気がする。
そして、振り下ろされる軌跡が、やけに静かだ。
彼女の胸元へ。
深く。
躊躇なく。
「ケイシー!!!!!」
喉が焼けるみたいに声が出る。自分の声なのに、どこか遠くから聞こえている気がする。
彼女の体が、ゆっくりと傾く。
時間が妙に伸びて、まるで水の中を見ているみたいに。
俺のほうへ向いた視線は、やけに静かで、そこに混じった悲しみだけがはっきりしている。
涙が浮かぶのが見える。
その粒をおきざりに、頭が先に落ちる。
膝が地面につき、そのまま斜めに崩れ落ちる。
「っ……!」
体が勝手に動く。
駆け寄ろうとして、額が、透明な壁に叩きつけられる。
鈍い衝撃。
視界が揺れる。
結界だ。
理解するより先に拳が出る。
何度も、何度も叩く。
音は鈍く吸い込まれて、手応えだけが虚しく返ってくる。
「ケイシー! ケイシー!! ケイシー!!!」
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