第107話 主役は後ろにいる
全力で大声を張り上げれば、向こうの耳に辛うじて届くか、という距離。そこに街を囲う巨大な城壁がそびえ立っている。
その城壁の下を、赤い塊が埋め尽くしている。
赫竜教の信者たちだ。
たしか信者の数は、この街の人口の半分。その、とてつもない数の人間が、城壁の根元に正座して、這いつくばっている。
彼らは一言も発しない。伸ばした両腕を地面に擦りつけ、何度も上体を倒し、また起こす。その無言の、機械的な反復運動が、遠くで波のようにうねりを続ける。誰もが息を呑み、狂信的な視線だけをこちらに飛ばしてくる。
視線をさらに上に跳ね上げると、高い壁の頂にも民衆が鈴なりになっている。だが、そいつらも押し黙ったままだ。
遠くの地を埋める、街の半分を巻き込んだ無音の祈り。上空の城壁から見下ろしてくる、無言の群衆。
音の消えた広大な空間。
数えきれないほどの視線。
目に見えない圧に、首を絞められているようで息苦しい。
「この世界に来て、ずっと視線を浴びてきた。壁の影から、二階の窓から、柵の向こうから。値踏みするような冷たい視線だ」
「どしたんマスター。走馬灯でも見てるのかな」
「瀕死じゃないわ。……まあ、死線かもしれないけど」
「視線と死線をかけたんだね。ウケる~」
「今日の視線は、今まで浴びた視線の、どれでもないな」
「どゆこと?」
「立ち位置が変わると反応が分かれる。そんな感じだ」
「マーケティング的にはよくあるやつじゃん。ユーザーセグメントの違い」
「宗教とマーケティングを同列にするな」
「でも実際そうっしょ。偶像に“意味”を持たせるってところ」
言い方は最悪だが否定はできない。
地面に伏した信者。
城壁の上の見物人。
彼らの視線の先にいるのは――
「で、その人たち、なに待ち?」
「俺待ち」
「うっわ、自意識高っ! で、ホントのメインアーティストは?」
「後ろにいる赫いやつ」
ほんの少しだけ横目で振り返る。
サンクチュアリのヘッドボードを軽々と超えるほどの巨大な塊。
少し離れてはいるが、存在感だけは、やたらと主張が強い。
鳥籠の中の鳥が人間を見ると、こんなサイズ感なんだろうな。
襲ってこないと知っているのに、それでも、神経を針でなぞられるみたいに、じわりと落ち着かない。
「あー、なるほど。例のペット?」
「どっちがペットかわからないけどな」
「言うこと聞くんでしょ?」
竜は、翼をきれいに畳んでいる。
尾も地面に沿わせて、余計な動きはない。
固い鱗で覆われた表情からは感情が読めないが、たぶん穏やかだ。
顔は城壁のほうを向いている。注意深く観察しているような感じではなく、ぼーっと景色を眺めているような雰囲気だ。
「あれが暴れたら、この街なんて消し飛ぶからな」
「じゃあ従順で正解じゃん。しつけ成功おめでとー」と、パチパチと効果音まで鳴らす。
鼻で笑って、視線を前に戻す。
赤い列は崩れない。城壁の上の連中も、身じろぎひとつしないまま、じっと竜を見続けている。
「セットリストには、その子の予定あるん?」
「もちろんメインだからな」
「いいね! オーディエンスは求めてるよ、ビッグウェーブを!」
「いや、そんなに盛り上がらなくていい」
「え~、十分クライマックス感あるっしょ」
「ここまでは前座だ。観客を黙らせるのが目的だからな」
実際、効果は出ている。
静まり返っている、というより押さえつけられている感じだ。
誰も動かない。
いや、動けない、のほうが正確か。
腰が引けたやつはもういない。
逃げる判断をしたやつは、とっくに消えている。
町から逃げ出した者もいるだろう。
残っているのは、腹を括った連中に見える。
恐怖を飲み込んででも最後まで見届けると決めたような顔をしている。
眠れる竜が目の前にいる。
これはもう、伝説だ。
「なら本番はいつ始めるの?」
「そろそろ来るはずだ……」
その時、城門の方がざわめいた。
押し殺されていた音が、わずかに浮く。空気が緩む、というより均衡にひびが入る感じだ。
人垣が左右に割れ、誰かが指示したわけでもないのに道ができる。すると視線が一斉にそこへ集まる。
数人の人影が、ゆっくり歩いてくる。
「赫竜教のグラントリー、それとシェケルズ教のベージル」
グラントリーは頬を紅潮させ、視線を竜に固定したまま歩いている。足取りが軽い。いや、浮ついていると言ったほうが近い。
信仰対象を前にした人間って、こうなるのか。
一方で、隣のベージルは対照的だ。
顔がひきつり歩みも重い。足を出すたびに、何かを踏みしめているような鈍さがある。
さっきの“セグメント”の話が、妙に現実味を帯びる。
ここまで差が出るか、と無意識に小さく噴き出す。
「そして、クソ禿だ」
十名ほどの騎士が、盾を前に構えながら歩いてくる。
その陰に、あの汚い禿頭だけがチラチラと見える。
そのすぐ後ろに、小さな影。
――ケイシー!
姿を確認しただけで、胸の奥に引っかかっていたものが少し落ちる。
拘束はされていない。だが、左右と後方を近衛騎士で固められ、逃げ道が潰されている。
そして、三人を呼びに行かせたジュディがすぐ後に付く。
「その人たちと何するの?」と、サリーが聞いてくる。
「交渉だ」
「それ、普通に考えて無茶じゃない?」
「他に手がないんだ」
「出た、詰みプレイ」
「言い方よ」
軽口を挟みつつ、視線は外さない。
彼らとの距離がじわじわ詰まる。
「マスター、今どんな気分?」
「プレゼン前の営業マン」
「規模が違うだけでやってること同じだね。ウケる~」
「笑い事じゃないけどな。……なあ、これ失敗したらどうなると思う」
「んー、人類史に残る“やらかし”じゃね? 宗教的にも政治的にも炎上案件」
「炎上か……、失敗したらこいつに言って町を燃やしてもらおう」
背後の気配に意識を向けると、赫い塊は相変わらず静かにそこにある。
そういえばコイツ、火は吐けるのか?
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