第106話 恐怖は祈り
都合よく人目を避けられる場所なんて、そうあるものじゃないし、そもそも俺自身が目立つ以上、町中でこそこそやるのは無理がある。
結局、俺たちは町を離れ、竜の住処へ向かう途中にある、あの隠し林道まで向かう。
木々に囲まれた細い道は相変わらず静かで、風に揺れる葉の擦れる音だけが耳に残る。
人の気配はない。まあ、あっても困るんだが。
「それで、ボクはどうすればいい」
ジュディが腕を組んだまま言う。声は硬く視線も鋭い。さっきからずっと警戒を解いていない。
「まずは呪文を覚えてもらう」
「え? 呪文?」
眉がぴくりと動く。なぜか警戒心は薄れたように感じるが、頬がやや赤くなっている。
俺は軽く息を整えてから、言葉を並べる。
「竜よ。
静かなる流れを司るものよ。
痛みを覚えしこの者に、やわらかな息吹を寄せよ。
裂けし肌をなだめ、滲む血を鎮め、乱れた温もりをあるべき巡りへ戻したまえ。
竜よ、この願いを聞き届け、静かな恵みをここに結べ」
口に出してみると、やっぱり長いが、覚えられない長さではない。
ジュディはわずかに目を細めた。
「それは……さっき、子どもの傷を癒した」
「そうだ」
「でもボクはシェケルズ教の信徒じゃない」
「だからいいんじゃないか。それにシェケルズ教の呪文と違うところがあっただろ」
ジュディは黙る。
腕を組んだまま、少しだけ視線を落とし、頭の中で言葉をなぞっているようだ。
やがて、ぴくりと耳が動く。
「……あっ、精霊が竜に」と、ジュディの目がわずかに開く。
「竜の力を借りて、魔法を発動させる」
自分でも無茶を言っている自覚はある。
だが、理屈は通っている。少なくとも俺の中では。
「そんなことが?」
ジュディの眉が寄る。疑いは消えていないが、完全に否定もしていない、微妙な顔だ。
「竜と話をした時に聞いたんだ。精霊と同じく、あのデカいヤツにも力があるってな」
「そうなんだ」
「あとはジュディの信仰心にかかっている」
「怪我人もいないのに、どうすればいい?」
「その腰の剣は飾りか?」と、わざと視線を落とし刃の位置をなぞるように見る。
ジュディの手が、ぴくりと動き柄へ伸びる。
「騎士が痛みを恐れるなんて、ないよなぁ?」と、わざと煽るように声を揺らす。
数秒の沈黙。
林の奥で、風に揺れた枝が擦れる音だけがやけに響く。
やがて、ジュディの表情が変わる。
引き締まり、迷いが消える。さっきまでの警戒とは違う、覚悟の顔だ。
籠手を外す。
金属が擦れる乾いた音がして、そのまま手を離すと、ガシャリと地面に落ちた。
むき出しになった腕には、細い傷がいくつも走っている。古いもの、新しいもの、重なっているあたり、訓練の積み重ねが見える。
ジュディはためらわず剣を抜き、そのまま自分の腕へあてる。
スッと刃が滑ると、皮膚が割れ、赤い線がにじむ。
「竜よ。静かなる流れを司るものよ――」
呪文が、静かに林道へ広がる。
さっき俺が口にした言葉を、そのままなぞるように。
声は安定している。
途中で詰まることもなく、最後まで、きっちりと。
……だが、何も起きない。
血はそのままにじみ、傷は閉じる気配すらない。
「ほら見ろ! 無理じゃないか!」
ジュディが腕を突き出し傷口を近づける。
さっきまでの覚悟は消え、代わりに苛立ちが前に出ている。
「あたりまえだ。今のオマエは、俺の煽りに反発し、意地になって呪文を口にしたに過ぎない。そんな気心で魔法が発動するわけないだろ、チョロ娘」
「なっ?!」
反応が速い。図星か、単に短気か。たぶん両方だ。
「信じろ! 心の底から! 竜を、あの偉大なる竜を。赫く聳える姿を!」
勢いで押し切る。理屈じゃない、ここは感情だ。
「思い出せ、あの時の恐怖を。怖くて少し漏らしただろ?」
「漏らしてない!!」
顔が一気に赤くなる。耳まで染まっているあたり、本当だったかもしれない。
「なら羞恥じゃなく、畏怖でいけ。竜に対する、純粋な恐れで呪文を唱えろ! 震撼が力になる。戦慄を声に乗せろ。畏懼の念を胸に抱け!」
ジュディがわざとらしく舌打ちする。
「……覚えてろ、クソッ」と、低く吐き捨て、そのまますっと目を閉じた。
――チョロイなあ。
ジュディの呼吸が変わる。
さっきより深く、ゆっくりと吸って、長く吐く。
林道の空気が、少しだけ張る。風は同じはずなのに、妙に静かに感じる。
「竜よ。静かなる流れを司るものよ――」
声が違う。低く、重い。無理に作った響きじゃない。
たぶん、頭の中であの竜を見ている。
言葉が一つずつ落ちるたびに、妙な圧が乗る。祈りというより、もっと原始的な怯えに近い何かだ。
最後まで途切れず、震えもない。だが、奥のほうにかすかな揺れが混じっている気がする。
そして、変化は、あっさり現れる。
さっきまで確かにあった赤い線が、跡形もなく消え、皮膚は元通りになっている。
赤く、にじんでいたはずのものすら、最初からなかったみたいに消えている。
「嘘っ……」
ジュディが腕を見つめる。
目を見開いたまま、皮膚を指でなぞり、何度も確かめる。
押して、離して、また見る。
その仕草がやけに必死で、それを眺めながら、口元がわずかに緩むのを止められない。
「やはりな」と、小さく呟く。
半分は当てずっぽうだが、筋は通っていた。
竜との会話で、魔法の話は出ていない。
つまり、さっきの理屈は後付けで、ほとんどハッタリに近い。
だが、結果は出た。
ジュディの腕は、きれいになり、さっきまであった傷が影も形もない。
条件は、たぶん信仰心。
マクダウェル教は神を。
シェケルズ教は精霊を。
どちらも共通しているのは、“見えない何か”に意味を見出し、それを前提に呪文を組み立てている点だ。
なら、対象が竜でも成立するはずだと考えた。
……理屈としては、な。
実際に成立するかは別問題だ。
正直、ここまで綺麗にハマるとは思っていなかった。
内心で苦笑しつつ、軽く拍手をすると乾いた音が林道に響く。
「喜ぶがいい。君は赫竜教で初めて魔法を使った信徒だ」
少しだけ芝居がかった調子で言う。こういうのは、雰囲気が大事だ。
「いや、信徒じゃないし」
「知っとるわ」
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