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第105話 監視役の正しい利用法

 ベージルと会話をしている最中、少し離れた所から小さな物音が転がる。

 反射的に横を向くと、石畳の上に男の子が倒れている。体勢を崩したまま、わずかに身をよじる。その一拍あと、堰を切ったように泣き声が響く。

 甲高い声。静かだった空間に、急にひびが入ったようだ。


「おやおや」と、ベージルがすぐに反応する。


 慌てる様子はなく、一定の歩幅で近づく。そのまま自然な動作でしゃがみ込むと、子どもの足に手を添える。


「精霊よ。

 静かなる流れを司るものよ。

 痛みを覚えしこの者に、やわらかな息吹を寄せよ。

 裂けし肌をなだめ、滲む血を鎮め、乱れた温もりをあるべき巡りへ戻したまえ。

 精霊よ、この願いを聞き届け、静かな恵みをここに結べ」


 淡々と紡がれる言葉。抑揚は控えめだが、途切れない。ひとつの流れとして、すっと耳に入ってくる。

 その間に、泣き声が少しずつ変わる。最初は張り裂けるようだったのが、次第に弱まり、しゃくりあげるような音に変わっていく。


 擦りむいていた膝の皮膚が、ゆっくりと元に戻っていく。滲んでいた血が消え、荒れていた表面が均されるように整っていく。その変化は急すぎず、かといって遅すぎもしない。見ている間に、傷は跡形もなく消えてしまう。


 男の子は泣き止みきらないまま、目元をこすり、恐る恐る自分の足を見る。さっきまでの傷がないことを確かめるように、何度か膝を触る。

 やがて、不思議そうに首を傾げたまま、足を動かしてみせる。問題がないとわかると、今度は戸惑いと安堵が混ざった顔でベージルを見上げる。


 ……魔法、か。

 リンダも似たことをしていた。違うのは呼びかける相手だけだ。

 神か、精霊か、そこにどれほどの差がある?

 輪郭の曖昧な疑問が、頭の奥に浮かぶ。まだ形にはならない。ただ、引っかかる。


「ベージル祭司!」と、無意識に声が出る。

「はい」と、振り返る。


 言葉が前のめりになる。自分でもわかるくらい、早口だ。


「精霊を見たことはありますか?」

「いいえ、ありません」

「見える人がいたりしますか?」

「聞いたことはありませんね」

「なら、どうして精霊界があると? 精霊がいると信じているんですか?」


 自分でも詰めすぎだと思うが、口が止まらない。

 ベージルはわずかに視線を落とし、考える素振りを見せる。ほんの短い間だが、今までより慎重に言葉を選んでいるのがわかる。


 その横で、男の子が立ち上がる。もう足取りに不安はない。

 こちらをちらりと見てから、自分には関係のない話だと判断したのか、そのまま小走りで広場の端へ消えていく。


「開祖であれば真実をご存じかもしれませんが……氏子が深く考えるようなことではありません」


 ベージルは穏やかにそう言う。

 踏み込ませない線引き。真実を隠そうとしているのか、それとも知らないだけなのか……。


「もしかすると、魔法が使えるから、でしょうか」


 ベージルは小さく肩を揺らし、クスリと笑う。


「卵が先か、ニワトリが先か。その議論をユウナギさんとするつもりはございません」

「その議論なら卵が先なので、私も語る気はないけれど、精霊は別ですよね」

「あの、そろそろ戻ってもよろしいでしょうか」


 ベージルの表情が、今度ははっきりと崩れる。“迷惑”という感情がそのまま顔に出ているみたいに。穏やかさは保っているが、実質的な打ち切り宣言だ。


「あ、はい。大変貴重なお話、ありがとうございました」


 こちらも素直に引く。ここで粘っても得るものは少ないだろう。


「いえいえ。シェケルズ教は門を開き、いつでもあなたを迎え入れます。では」


 最後までポーカーフェイスを崩さず、軽く頭を下げる。そのまま踵を返し、来たときと同じ落ち着いた足取りで去っていく。




 少し離れた場所で様子を見ていたジュディが、こちらへ近寄る。


「次は赫竜教へ行くのですか?」

「いや、その前にやることがある。君はどこかの宗教を信じているのか?」

「いいえ。どこにも入信していません。それが何か?」

「好都合だ」と、思わず口元が緩む。

「人目を避けたい。どこか案内してくれ」


 そう言った瞬間、空気が変わる。


「いったい何をする気ですか?」


 声のトーンが一段落ちると同時に、ジュディの足がわずかに後ろへ引かれ、距離が半歩ぶん開く。

 そして、なぜか胸元を押さえる。


「ちょっと痛い思いをするだけだ。協力してくれ」

「嫌です!」と、間髪入れずに拒否。さらに一歩下がる。

「なんだ、やっぱり協力したいなんてのは、俺を監視しやすくするために媚びただけかよ。あーあ、他の協力者を探すしかないな……」


 わざとらしく肩を落としつつ、横目で様子を見る。

 予想通り、ジュディの顔が歪む。苦虫を噛み潰したような表情、というやつだ。実物を見たことはないが、たぶんこんな感じだろう。


「……わ、わかりました。協力します」


 絞り出すような声。しぶしぶ、と全身で主張している。しかも目がわずかに潤んでいるあたり、精神的な負荷もそれなりにかかっているらしい。


「いい心がけだ」と、思わず笑いが漏れる。


 ジュディがじっとこちらを見る。

 その視線に、なぜか軽蔑の念が含まれている気がするのは、なぜだろう――


ここまで読んでいただきありがとうございます。

続きが気になると思っていただけたら、ブクマしていただけると励みになります。

全112話 毎日投稿します。

最後まで楽しんでいただけたら幸いです。

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