第103話 三つの輪が重なる場所
町の中央広場から少し外れた通りに、その建物はある。人の流れがふっと薄くなり、さっきまで耳にまとわりついていた喧騒が、布一枚ぶん隔てられたみたいに遠のいている。
シェケルズ教の支部。
石造りだが、妙に乾いた印象を受ける。装飾らしい装飾はなく、壁面は驚くほど平坦で、視線が引っかかる場所がない。
赫竜教の本部を思い出す。あれが権威を押しつけてくる城だとすれば、こちらは機能だけを残した倉庫だ。同じ宗教施設なのに、受ける印象がずいぶん違う。
入口の脇に据えられた石碑へ視線を流す。近づくと、刻みの浅い線が重なり合っているのが見える。三つの輪だ。きっちり分かれているわけでもなく、かといって完全に混ざるわけでもない、中途半端な重なり方をしている。
「三界の円環と言うそうです」
横からジュディが説明を差し込んでくる。いつの間にか俺の視線を読んでいるあたり、監視役としては優秀だ。
「直線が人間界、波線が精霊界、縄目の線が冥界を表しているとか」
「へー」と、適当な相槌が口から出る。
正直、そこまで興味が湧かない。けれど、わかったふりをするのも違う気がする。
それにしても三界か。やたらと階層を増やしたがるあたり、宗教らしいと言えばらしい。
視線を石碑から切り離し、そのまま入口へ向かう。扉の前には男が一人、立っている。番をしているのか、ただの案内係かはわからないが、とりあえず話は通じそうだ。
「すみません。シェケルズ教について詳しい話を聞きたいんですが」
声をかけた瞬間、男の表情がわずかに固まる。警戒というほど露骨ではないが、歓迎とも言いがたい。まあ、飛び込みで宗教の中身を聞きに来る奴なんて、普通は面倒な客だ。
「詳しい話、ですか……」
「ええ。興味がありまして」
男は少しだけ迷ったあと、ようやく頷くと、
「少々お待ちください。上の者を呼んでまいります」と言い残し、ほとんど逃げるような足取りで建物の中へ消えていく。
開かれたままの入口から、内部の様子がわずかに覗く。光は弱く、奥へ行くほど暗さが濃くなっているが、床や壁はきちんと整えられているようで、荒れている印象はない。
「このやり取り、二回目ですね」
横でジュディが小さく息を吐く。呆れ半分、確認半分といった声音だ。
「仕方ないだろう。中に入っても邪魔になるだけだ」
軽く肩をすくめて返す。実際、ああいう場所に無遠慮に踏み込めば、警戒を強めるだけだ。
「珍しい考えです。他人を思いやるなんて」
「他人の命を軽く扱うクソ禿とは違うんだよ」
空気が一段だけ重くなる。風が止まったわけでもないのに、音が遠のいたような感覚。
ジュディはわずかに顔を歪める。何か言い返しかけて、飲み込んだような表情で、そのまま視線を外す。口元が固く結ばれているのが目につく。
『赫竜教を潰すなんてボクは聞いてない』、そんな台詞が顔に書いてあるみたいだ。
昨日あれだけ釘を刺した。さすがに無邪気には動けないらしい。
だが、それで止まる程度の正義なら、最初から大したことはない。
苦しいならクソ禿の前に立てばいい。命令を跳ね返すなり、せめて抗議するなり、やりようはいくらでもある。
それができないなら、結局は従っているのと同じだ。綺麗事を抱えたまま、手は汚す側に回っている。
「なあジュディ。クソ禿はどんな人物だ」
入口から目を離さないまま聞く。呼びに行った男が戻ってくる気配はまだない。なら、待ち時間は情報収集に使うべきだ。
「閣下ですか……」と、顎に手を当て、わずかに考え込み、
「ユウナギ殿には言いづらいのですが」
「構わない」
「治安は悪くありません。税も重くはないです。辺境なのに、民は普通に暮らせています。それらは、閣下の統治が優れているからだと思います」
「だろうな。あの王が辺境伯の地位を与えたんだ。不出来なわけがない」
ブライアーズ陛下の顔を思い浮かべる。あの人が人選を誤るとは考えにくい。少なくとも、統治能力に関しては折り紙付きだ。
「国王陛下と親密な関係みたいな口ぶりですね」
「この国の未来について、深く語らった仲だからな」
少しだけ胸を張って言ってみる。いわゆるドヤ顔というやつだ。
予想通り、ジュディの表情が崩れる。目がわずかに見開かれ、口は半開きだ。
「……え?」と、の抜けた声が漏れる。その反応で十分だ。
「あのクソ禿、シェケルズ教から裏金を受け取っていたりしないか?」
この質素な建物。もしかするとクソ禿が金を吸い上げたせいかもしれない。
逆に赫竜教の建物が豪華なのは、裏金の要求を断っているから……。それで目の敵にしているのか……。
「新人のボクには、わかりません。ですが、閣下の生活はとても質素です。私腹を肥やしているようには見えません」
声音に迷いはない。擁護ではなく本心かもしれない。
あの屋敷を思い出す。無駄に広く、手入れの行き届いた庭までついていた。あれを質素と表現するなら、この世界の基準はだいぶ緩い。
内心で苦笑する。価値観のズレというやつか、それとも単に見えている範囲が違うだけか。
いずれにせよ、金の流れは別口で確認したほうがよさそうだ。
「家族構成は?」
「閣下は独身です」
「なにっ?!」
思わず声が跳ねる。胸の奥で心臓が一拍遅れて強く脈打ち、その振動がじわりと広がる。 独身。あのクソ禿が?
嫌な想像が、勝手に組み上がる。
「まさか、メイドに手を出す変態か? ジュディに色目を使う好色貴族か? あのクソ禿! 俺のケイシーに手を出したらぶっ殺してやる!!」
脳裏に浮かぶのは最悪の光景だ。
上半身裸の禿げた中年男。
その前で怯えるケイシー。
涙を浮かべ、逃げ場もなく――
頭を振って映像をねじ切る。想像のくせに生々しすぎる。
胃の奥がひっくり返りそうな感覚がこみ上げてきて、喉元でどうにか押しとどめる。
「ボ、ボクのような色気のない女に興味を示されるお方じゃありません!」
ジュディが慌てて声を上げ、両手で胸元を隠す。
たしかに凹凸の主張は控えめだが、だから安全圏と断定するのは早計だ。そういう嗜好も世の中にはある。残念ながら。
「それに、メイドに手を出したという噂も、聞いたことありません……」
語尾が少しだけ弱くなる。頬がうっすら赤くなり、視線を外す。どうやら話題そのものに耐性がないらしい。
「……そうか」
ひとまず、ケイシーの尊厳が踏みにじられる可能性は、今のところ考えなくてよさそうだ。
胸の奥に引っかかっていた重たい塊が、わずかに軽くなる。完全に消えたわけじゃないが、さっきよりは呼吸が楽だ。
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