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スーラタワーへ、再び

「……よし」

自室へ戻ったのは、昼過ぎだった。

机の上に、銀色のペンダントが置かれている。

中央の石が、蒼い光を宿して、静かに脈打っていた。カイはしばらく、それを見た。


ロドの言葉は、嘘ではなかった。

翌朝、居間へ降りると、母親はいつも通り朝食を出してくれた。

声も。笑顔も。変わっていない。けれど。

進路のことを、訊いてこなかった。これからのことを、何も聞かなかった。

愛情が消えたわけではない。

ただ、自分という存在が、最初からその日常の予定表にはなかったかのように。

恐ろしいほど滑らかに、「僕のいない日常」が整えられていた。

寂しさは、なかった。

ただ、胸の奥がじんわりと熱い。右手の感触だけが、まだ残っている。

あの夜、最後に、強く握り返してくれた感触。

「ちゃんと育っていたのね」

それだけが、証明だった。


カイはペンダントを手に取り、首にかけた。

上着を羽織って、部屋を出た。


外は、穏やかな昼だった。石畳の路地を抜ける風が、枯れ葉を転がしていく。

街灯はまだ点いていない。空が、低い。

北門広場まで、いつもより時間をかけて歩いた。急ぐ理由がなかった。

自分の足で選んだ道を歩いている、と。初めて、そう思いながら歩いていた。


広場の噴水は、午後の光の中で静かに水を吐いていた。

石造りの縁。

水面に、空の白さが映っている。エリルは、すでにそこにいた。

縁の端に座って、水面を見ている。

カイが近づくと、彼女は振り返った。首元に、同じ銀色のペンダント。

その目からは、もう迷いが消えていた。

「行こう、カイくん」

「ああ」

二人で、縁へ手を伸ばした。水は冷たかった。真冬の石みたいに、指先から温度を引いていく。

「……怖い?」

水面を見つめたまま、エリルが言った。

二日前の茶房。同じことを聞かれた気がした。

あの時は、答えられなかった。

「いや」

今度は、迷わずに出てきた。

「……ずっと前から、盤の前でやってきた」

エリルが、小さく笑った。昔みたいに俯いてから笑うのでなく。まっすぐ、こちらを見たまま。

それだけで十分だった。

二人で、ペンダントを強く握る。

「スーラタワー、エージェント・カイ、エリル──入るよ」

次の瞬間。

水面が、鏡みたいに静まった。二人の影が、鮮明に映る。その奥に、白く、冷たく、塔の光景が広がっていくのが見えた。

互いの手を、しっかりと握った。そのまま、水面へ身を沈めた。バシャリ、と一つだけ音が響いた。

すぐに、元の水音へ戻っていく。

広場には、午後の風だけが残った。


世界の音が、遠ざかった。白い塔が現れた。

夜空の中へ、一本だけ突き刺さっている。前に来た時と同じだった。でも。

その静けさが、少しだけ違う色をしていた。

入口で、ロドが待っていた。

面具を外したまま。腕を組んで、壁に背をつけている。

カイたちを見て、一拍。

「……二人で来たか」

「ああ」

ロドは短く頷いた。

「中で話せ」


塔へ入った瞬間。エリルの足が止まった。

「……エリル?」

返事がない。

彼女の視線は、壁へ向いていた。白い石。古い紋様が、呼吸するみたいに淡く脈打っている。

カイには、何も見えなかった。ただ、エリルの目だけが。壁の向こう、あるいはもっとずっと奥の何かを、じっと見ていた。

ロドが、静かに言った。

「……行くぞ」

エリルはゆっくり目を瞬いた。

「……ごめんなさい」

それだけ言って、歩き出した。その横顔に、言いかけた言葉の残骸みたいなものが残っていた。


部屋の奥、長椅子へ腰を下ろしてから、エリルが口を開いた。

「……ロドさんに、話したいことがあって」

ロドは壁に背をつけたまま、こちらを見た。

「話せ」

エリルは膝の上で手を組んだ。

「人の……線が見えることがある」

沈黙。

「線?」

「はっきり言えないんですけど」

エリルは視線を落とした。

「苦しんでいる人は、色が違う。昨日の路地の男の人も……なんか、濁っていた」

ロドは動かなかった。

「それだけじゃなくて」

エリルは続けた。

「カイくんが盤面を展開する時……構造が見えた気がする。どこへ打てばいいか、なんとなく分かった」

長い沈黙が落ちた。

ロドの目が、わずかに動いた。

「……お前」

一拍。

「読めてるじゃないか」

エリルが顔を上げる。

「え……」

「見えるだけじゃない」

ロドの声は静かだった。

「お前は、構造を読んでいる」


エリルは、自分の手のひらを見た。何もない。当たり前に、何もない。でも。

ずっと前から、知っていた。

人と話す時。誰かのそばにいる時。

何かが、見えていた。見えすぎて、怖かった。だから、ずっと、見ていないふりをしていた。

「……私」

エリルが、静かに言った。

「ここで力になれると思う」

「タワーに入りたい。正式に」

ロドの視線が、鋭くなる。

「お前が決めたのか」

「はい」

「誰かに言われたからじゃなく」

「……私が、決めました」

ロドは短く息を吐いた。

それから。

小さく、頷いた。

「……分かった」


廊下を歩きながら、カイはエリルの横顔を、一度だけ見た。緊張している。でも昔みたいな、硬い緊張じゃない。

自分から踏み出した人間の顔をしていた。

ロドが立ち止まる。

病室の扉の前。

「……ここだ」

扉が、静かに開く。

「ロドさん!」

白い衣。

短く切った髪。小柄な少女が、ベッドから身を起こしていた。ロドがほんの少しだけ目を細める。

「無理に起きるな」

「もう大丈夫ですよ」

少女の視線が、エリルへ向く。少しだけ、迷うように。

「……こんにちは」

エリルが、静かに微笑んだ。

「こんにちは」


少女は、最初から言葉を選んでいた。慣れている。

自分が何を言えば相手が安心するかを、幼い頃から知ってしまった人間の話し方。

「名前、教えてもらえる?」

「……ルウです」

「ルウちゃん」

「はい」

「ここ、長い?」

「……少し」

「前より、ちゃんと息できてる?」

ルウの肩が、わずかに緩んだ。

「……うん」

エリルは少し考えて、ルウの手の近くへ、自分の手を置いた。

触れない。触れる直前で、止まる。その瞬間だった。


視界に、線が現れた。ルウの輪郭から、細い糸みたいなものが無数に走っている。

ほとんどは薄い色をしていた。かすかで、透明に近い。でも一本だけ。

胸の中心から外へ伸びている線が、黒くくすんでいた。

その線は、誰かへ向かっていた。

でも。

途中で途切れている。宛先を失ったまま、空中でふるえているみたいに。

今まで「なんとなく分かる」だったものが。今度は、言葉にできた。

「……ルウちゃん」

エリルが、静かに言った。

「誰かに、謝りたい人がいる?」

ルウの目が、丸くなった。 「……なんで」

「うまく言えないけど」

しばらく、沈黙があった。「……いる」

小さな声だった。

「でも、もう会えないと思ってた」

エリルは頷いた。 「そっか」

それだけだった。

解決しなかった。

答えも出さなかった。

ただ、「そこにある」ということだけを、見た。

ルウの肩から、ほんの少しだけ、力が抜けた。


部屋を出てから。ロドがエリルを見た。 「……何が見えた」

「線が一本、途中で切れていた」

「どのあたりで」

「胸から外へ。誰かに向かっているのに……届いていない」

ロドは何も言わなかった。

目の奥だけが、わずかに動いた。「……使えるな」 静かな声だった。


帰り際。廊下を歩きながら。エリルが、ふと立ち止まった。

壁へ、そっと手を触れる。

何かに引かれるみたいに。

「……古い」

カイが振り返る。エリルは壁から目を離さなかった。

「すごく、古い」

線が、見えていた。塔の壁から、無数に走っている。どれも薄い色をしていたが。

その出発点が、どこかへ。どこまでも遠い場所へ、向かっていた。

「どれくらい遠い?」 

エリルは少し考えた。

それから、ただ一言だけ。

「……追えないくらい」


ロドは前を歩きながら、振り返らなかった。その背中が、わずかに静まったように見えた。

白衣姿の人たちが、廊下を通り過ぎていく。誰も大声を出さない。足音まで小さい。

エリルは一度だけ、壁を振り返った。カイも見た。

白い石。古い紋様。それだけだった。でも。

何かが、ずっと前から、そこで待っていたみたいな気がした。


タワーを出た後。二人は自然に、噴水のそばへ戻っていた。夕方に近づいていた。

空が、少しだけ橙色になっている。水面が、その色を静かに映している。

「……カイくんは」 エリルが言った。

「これからも、ロドさんと?」

「ああ」

「そっか」

沈黙。 水音だけが流れる。 カイは、口を開いた。

「……定期連絡、しような」

エリルが少しだけ目を見開いた。

一拍の間。

「……うん」

夕暮れの噴水が、静かに水を吐いている。 鯱じゃない。ただの水だった。

でも。

この水が、あの夜の鯱で。このペンダントが、塔への道で。

そしてここが、二人がいつも最初に戻ってくる場所なのだと。

カイは、なぜかそう思った。

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