束の間の日常
二日が過ぎた。
二日しか経っていないのに、もう随分前のことみたいだった。それでも。
右手の感触だけは、まだ消えなかった。
最後に、強く握り返された感触。
ちゃんと育っていたのね、と笑った声。
洗っても。眠っても。なぜか、そこだけ残っている。
昼過ぎ。カイの机へ、小さな封書が届いた。短かった。
ー明日の夕方、もし時間があれば。
北門広場のあたりで。
エリル
もし時間があれば、という書き方が、エリルらしかった。
断れるように、余白を残してある。
翌日の夕方。北門広場は、夕暮れで人が少なかった。噴水の音だけが、石畳へ響いている。
エリルはベンチの端に座っていた。膝の上で、手を組んでいる。
カイが近づくと、彼女は静かに顔を上げた。
泣き腫らした跡が、まだ少し残っていた。
「……待った?」
「ううん」
どこへ行くとも決めていなかった。二人して、しばらく噴水を見ていた。
風が来て、水面が揺れる。あの夜、ロドの水が鯱になった。水の音は、どこでも同じだった。
しばらくして。 「……寒いな」
気づいたら、口から出ていた。
エリルが少し考えて、広場の端を示した。 「あそこ、開いてそう」
古い建物の一階に、ぼんやりした灯りが漏れていた。
入るかどうか、どちらも言わなかった。
ただ、自然に足が向いた。
薬草茶の匂い。 古い木材の軋み。
店の奥の席へ腰を下ろすと、小さな弦楽器の演奏が流れていた。 静かな店だった。
誰も無理に喋らなくていい。そういう空気だった。
エリルが、茶杯へ両手を添えたまま言った。
「……ロドさんへの返事」
カイは少しだけ黙った。
「もう決めた?」
「ほぼ」
エリルが、小さく頷く。 「私も」
沈黙。苦しくはなかった。
昔の沈黙とは違う。言わなくても、そこにあるものが増えた沈黙だった。
窓の外で、受信機が雑音混じりに鳴った。
『——昨夜、王都南区にて——詳細は不明——』
誰かが音量を下げる。茶房の空気が、少しだけ静まった。
エリルが小さく息を吐いた。「怖い?」
「……分からない」カイは正直に言った。「ただ」 窓の外を見る。
「知らない場所で起きてる感じがしない」
エリルは、それに何も返さなかった。 ただ、同じように窓の外を見た。
帰り道。
夕暮れの路地で、レオンと鉢合わせた。
「おっ。珍しいな、この時間に——」
買い物袋を片手にぶら下げたまま、レオンが立ち止まる。
昔から近所だった。だからなんとなく付き合いが続いている。無理に会話をするわけでもない。でも、会えば普通に喋る。それくらいの距離。
カイが隣に気づいた。「……え」 一拍。「エリルさん?!」
「お久しぶりです」 エリルが、静かに頭を下げた。
レオンの視線が、カイへ戻ってくる。 「お前……やっぱり付き合ってたのか」
「偶然だよ」
「偶然」
「ああ」
「……そうかぁ」
レオンは袋を持ち直しながら、まったく納得していない顔をした。
「南区の話」カイが遮った。「また何かあったんだろ」
「……あ、ああ」
レオンが、気を取り直したように声を落とす。
「そうそう。最近多くてさ。なんか嫌なんだよな、理由が分かんないのが」
風が吹く。遠くで、受信機の雑音が聞こえた。
カイは短く頷く。「ああ」
それ以上は言えなかった。
レオンは少しだけカイとエリルを交互に見て。
「……まあ、気をつけろよ」
それだけ言って、裏路地へ消えた。角を曲がる直前、振り返って付け加えた。
「偶然、な」
返事をしなかった。
レオンと別れてから。
エリルが、ふと立ち止まった。
路地の壁際に、老いた男が一人で座り込んでいる。
「……カイくん」
「どうした」
「あの人」エリルは小さく言った。「なんか……色が」
カイも見た。
男は顔を伏せたまま動かない。ただ肩だけが、小さく震えていた。
「疲れた人とか、苦しそうな人って……なんとなく分かる時があって」エリルは続けた。「でもあの人は、それと違う」
言いかけて。止まる。 「……うまく言えない」
カイの脳裏に、盤面が浮かんだ。駒。呼吸。侵食された人間の"揺れ"。
「……見えてるんだ」 エリルが、自分の手のひらを見た。
何も言わなかった。 否定も、しなかった。
二人で、男のそばをゆっくり通り過ぎた。
男は顔を上げなかった。ただ。二人が通り過ぎた瞬間だけ、肩の震えが少し止まった。
それだけだった。
角を曲がってから。エリルが静かに言った。
「……ロドさんに、話した方がいいかな」
「ああ」
「一緒に、行こう」
今度は、カイが先に言った。




