外道狩り
夜の街は、まだ起きていた。雨上がりの風が、
濡れた石畳を静かに撫でていく。開け放たれた酒場の窓から、
受信機の雑音が漏れていた。
『——昨夜、王都南区にて——
新興の暴力組織が——
守衛到着時には、すでに——』
そこで音が途切れる。店主が慌てて音量を落としたのだろう。下卑た笑い声が、一瞬だけ小さくなる。
カイは、その店の前を通り過ぎた。蒼白い魔力輪が、夜の石畳を滑る。二輪走行体の後部で、流れていく街の灯を見ながら、カイは小さく目を伏せた。
最近、こういう話が増えていた。
理由の分からない失踪。壊された組織。なのに、金貨も帳簿も、現場にそのまま残されている。
前方で、ロドが短く言った。
『南区だ』 低い声だった。
カイは少しだけ間を置く。 「……危ない相手、なんですか」
風が、二人の外套を揺らした。
『分からない』 ロドの声は沈んでいた。『だが』
一拍。 『俺の走行体が、弾かれた』
街灯の光が、後ろへ濁流みたいに流れていく。
現場は、王都南外れの倉庫街にあった。
黒ずんだ石造りの建物。外壁は不自然なほど厚く、窓には鉄格子が嵌め込まれている。
近づくだけで分かる。ここは、人を守るための場所じゃない。
奪ったものを、誰にも返さないための場所だった。
ロドが走行体を止める。蒼白い魔力輪が、高い残響を残して静かに光を落とした。
音が消える。途端に、周囲の静けさだけが浮き上がった。
異様なほど、生き物の気配がない。カイは建物を見上げた。
「……ここですか」
『ああ』
ロドは短く答えた。その手は、すでに把手へ掛かっている。
正面の扉は半開きだった。壊された形跡はない。鍵も無傷のまま。
ただ。
誰かが内側から開け、そのまま立ち去ったように見えた。
ロドが先に入る。カイも続いた。中へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
重い。冷たい。それなのに、血の匂いだけがどこにもない。そのことが、逆に息苦しかった。
広い部屋だった。帳簿が積み重なり、金貨の入った革袋、押収した書類の山。
どれも、そのまま残されている。
人だけが、いない。
ロドが部屋の中央へ進む。視線が床へ落ちた。 『……跡がある』
カイも屈み込む。
石畳の上に、何かを引きずったような痕。だが、血ではない。黒い、細い線。
まるで——
人間の輪郭だけが床へ染み込むみたいに消えた跡だった。骨の欠片すら残っていない。
ロドの声が低くなる。
『先に来ていたか』 その時だった。
部屋の奥の扉が、静かに開いた。
男が立っていた。四十を少し過ぎたくらいだろうか。仕立ての良い外套。整えられた髪。
首元には、細い銀線が走っている。
役人にも、銀行家にも見える。男は軽く帽子へ手を触れた。
「どうも」
穏やかな声だった。驚きも焦りもない。帰り道で知人に会った時のような自然さだった。
ロドの空気が、一瞬で変わる。 『……お前か』
男は小さく微笑んだ。
「ええ。まだ終わっていませんので」 床の黒い線を一瞥する。
「彼らの反省が、少し残っています」 それだけ言って、男は奥へ向き直った。
次の瞬間、ロドが動いた。
蒼白い魔力輪が室内で展開する。走行体が石畳を滑るように加速した。
だが——弾かれる。
音もなく。機体が横殴りに吹き飛び、壁へ叩きつけられた。
轟音。 石壁が砕け、白い粉塵が舞う。
ロドが低く舌打ちした。
『……効かないか』
男は振り返らない。その背中だけが、さらに静まったように見えた。
「困りますね。あまり音を立てられると」
「反省の邪魔になります」
その時。部屋の奥で、何かが動いた。
音ではない。空気そのものが、粘つくように軋んだ。
カイは目を細める。床が、わずかに沈んでいた。
違う。沈んでいるんじゃない。何かが、下から押し上げている。
男の足元。石畳の継ぎ目から、黒い線が滲み出ていた。ゆっくり。粘つくように。
「……ロドさん」
ロドが機体を立て直す。 『分かっている』
短い声だった。だが。 『俺には、入れない』
その言葉だけが、妙に重かった。
カイは、気づいた時には歩いていた。止めようとした記憶がない。
ただ、足が前へ出ていた。男の方へ。
『カイ!』
ロドの声が遠ざかる。男がゆっくり振り返った。
穏やかな顔。だが、その目の奥にだけ、ひどく疲れたものが沈んでいた。
「……来ますか」 静かな声だった。
「あなたは」
「見える目を持っているようだ」
次の瞬間、世界が白くなった。
天井がない。床だけが、どこまでも白く続いている。男が盤面の向こうへ立っていた。
怪物ではない。外套も銀線もない。ただ、疲れ切った中年の男がそこにいた。
「……なんだ、ここは」
男の声が少し変わる。穏やかさの下に、生々しい当惑が滲んでいた。
カイは息を整えた。胸の奥で、何かが静かに軋んでいた。
「分かりません」 正直に答える。
「でも」 少しだけ間が空く。
「……あなたがいたから、ここが開いた。このまま外に置いておけなかった」
男の眉がわずかに動いた。その時だった。盤面の床が、ゆっくり沈み始めた。
男の足元から。
違う。
沈んでいるんじゃない。何かが、下から出てきている。
——頭だった。
あまりにも巨大な。腐敗した、人間の頭。
半分だけ、白い床の下から覗いている。
閉じた瞼。ぬめった頬。長い黒髪が、盤面を汚すように広がっていた。
怒っていない。 咆哮もしない。 暴れてもいない。
ただ。静かに。冷徹に。
地の底から、男を絡め取るように、ゆっくり手を伸ばしていた。
爪だけが異様に長い。壊すためではなく、
“不要なものを処理するためだけに”研ぎ澄まされた形。
カイは息を止めた。
男は、その存在に気づいていないのかもしれない。あるいは、もう慣れてしまっているのかもしれない。
男が静かに言った。
「彼らは、誠実ではなかった」 淡々とした声だった。
「だから……正しい形に戻しただけです」 盤面の空気が、わずかに震えた。
カイは男を見る。その目の奥に、深い疲労と、拭えない痛みが沈んでいた。
「……あなたは、疲れている」
沈黙が落ちた。
巨大な頭の動きが、一瞬だけ止まった。まるで、その言葉に反応したかのように。
男の口元から、穏やかな笑みが消えかけた。ほんの一瞬だけ。
「……疲れている、か」 低く呟く。
「そんなことを言われたのは……久しぶりです」
その声には、悲しさとも、諦めともつかないものが滲んでいた。
盤面が、静かに軋んだ。
男の足元で。
巨大な頭が、再びゆっくりと動き始めた。




